涙でしょっぱい芋粥・下
「寒い、寒い」と明るい声のしのが帰ってくるのに気が付いて、俺も、さっきのしののように着物の袖で慌てて涙を拭った。泣いている姿を見せたら、またしのが不安になると思ったからだ。
「兄ちゃん、有難う。薪を増やして、こっち来て」
寒さで赤くなった頬のしのは、俺が泣いていた事に気が付いているようだ。先ほどより、ずっと明るく俺に話しかけて来る。年下の女の子にここまで気を遣わせて、俺は何だか恥ずかしくなる。彼女に言われるまま、薪を一本差し込んで立ち上がる。そして、開けたままになっていた引き戸を閉めた。それだけで、少し寒さはマシになった。
「そこに、芋があるから二本ほど洗ってね。珍しく、丸っこくて美味しそうだよねぇ。あたしは、朝炊いた麦飯を釜に入れておくよ」
しのは汲んできた水を盥に少し入れて、竹籠に乗っている芋を指差した。確かに芋の何本かは大きかったが、俺の知っている芋よりも細く、栄養不足な感じがした。畑の土が、貧しいのかもしれない。多分、これがこの時代の状況かと思って俺は何も言わず芋を手にする。
「あ、大きいの使おうよ。兄ちゃんが目を覚ましたら食べさせてって、まつさんがくれたんだもん。兄ちゃん、お腹空いてるでしょ?」
しのがそう言うので、俺は細い芋を戻して大きめの芋を手に盥に向かった。
「……っ、冷たっ!」
思わず声がもれる。沁みる痛みで、ひび割れた自分の手の荒れに気づいた。――よく見ると、自分の手はあかぎれでひどく荒れていた。薪を使う生活だから、ガスの湯沸かし器なんてないはずだもんな。
「早く、春になって欲しいよねぇ。『ちょうちょう、ちょうちょう、菜の葉にとまれ~』」
しのは、明るい声で歌を歌う。歌いながらも手際よく……何て言うんだろう、木で出来た桶みたいなやつ。たぶん『お櫃』ってやつだと思うけど、実物を見るのは初めてだった――から、しゃもじで冷えて固まった、ご飯のようだけど白くなく、茶色がかった米粒。多分これが麦飯ってやつなんだろう? を羽釜に入れていた。そうして、水を多めに――多分、麦飯二に対して水八ほどの割合に見えた。
「芋を洗ってくれて有難う。じゃ、手早く済ませちゃおう」
俺から芋を受け取ったしのは、菜っ葉切り包丁を手に先に用意していた木のまな板の上に、それを並べた。
「麦飯はもう火が通ってるから、芋も細めに切るね。その方が早く炊けるし、沢山ある様な気がするよね」
悪戯っぽく笑ったしのは、慣れた手つきで芋を切っていく。そのリズムが、何故かひどく懐かしくて心地よく、俺の耳をくすぐった。
しのは釜に切った芋を入れると、塩らしいものを適当に掴んで芋の上に振りかけた。そうして火に気をつけながら、芋粥が入った羽釜を竈の上に乗せた。
「芋に火が通ったら、蓋をして十分ほど蒸らして出来上がり。簡単だけど、お腹いっぱいになるよね」
「時計、あるのか?」
俺がふと疑問に思った言葉に、しのは長火鉢の部屋の壁を指差した。そこには、この古く裕福そうでない家に似つかわしくない、古めかしい大きな壁掛け時計があった。起きた時に聞こえた『ボーン』という音は、この時計が十二時を知らせていたのだと、そこで俺はようやく納得した。
「おとっつあんの、残していった時計」
しのは、僅かに浮かない顔をした。そう言えば、二人から父親の話は出ていない。俺は聞こうとして――やめた。今これ以上にしのを混乱させすぎるのは、絶対に良くないと思ったからだ。
それから芋が炊けると分厚い釜の蓋をして、二人で時間を確認した。俺達は、お互い荒れた手を繋いで、寒さに耐えながら。しのは、まだ陽気に『ちょうちょ』を歌っていた。
俺が長火鉢の部屋の隅に置かれていたちゃぶ台を移動させていると、明るいしのの声が上がった。長火鉢はよく使われているのか、煤で黒ずんだ匂いが漂っていた。
「出来たよ! ちゃぶ台まで兄ちゃん運べる?」
薄い手拭いでは熱さに耐えれない。と、俺は判断した。なので、俺は手拭いをなるべく重ねて厚くして、着物の袖も使い羽釜の羽を掴む。重さにふらつきながら、何とか慣れない下駄で土間を歩いて運んだ。
その合間に、しのは竈の残り灰を塵取りみたいなもので集めて、長火鉢に乗せた――そうか、長火鉢に火が無かったので寒かったのだ。
「さ、兄ちゃん沢山食べてね!」
しのは茶碗に、芋粥を沢山盛ってくれた。冷めた手に、その温かさは有難かった。
「上手に出来たようだね。いい子で留守番頼むよ。あたしは遅くなるだろうから、先に寝ときな。髪結い屋に行かなきゃいけないから、もう行くよ」
そこに、隣の部屋からそよが顔を出した。先ほどの姿とは違い着物を直してきっちりと帯を締めた、妖艶な芸者姿に変わっていた。三味線らしい大きな風呂敷包みを手にしていて、化粧もしっかりしている。美人だ、と素直に魅入ってしまった。しのが可愛いのも、納得できる。
「いってらっしゃい、おっかさん」
「い、いってらっしゃい……」
俺は変な感じがするも、しのに続いてそう返した。俺達を見比べてからそよは満足そうに頷いて、家を出て行った。
「んー、美味しい! 芋が甘いよ、兄ちゃん」
先に芋粥を食べたしのが、嬉しそうな声を上げた。俺も思い出したように腹がなったので、慌てて箸を手にした。
「――美味しい……」
一口食べた瞬間、頬を伝う涙が止まらなかった。塩気と芋の甘さが混じっただけの素朴な味――けれど、胸の奥まで沁みわたる。それは涙のせいかもしれない。けれど何よりも、しのと一緒に作った「初めての食事」だからだ。
そう、これは俺がここに来て――双子の妹のしのと一緒に作った、初めての食事だ。便利な調理道具がない明治という時代で、初めて口にした質素な麦飯の芋粥。でも、これがこんなにも美味しくて暖かくて、俺に初めて『安心』を与えてくれた大切な料理だ。
俺は、もう一口芋粥を食べた。一口ごとに、俺の中で不安げにざわついていたよく分からない感情が静まっていく。食べながらこぼれる涙に、しのが与えてくれた温もりが胸に広がっていくようだ。
――ここで生きよう。そう思うまでに、時間はかからなかった。
食っていれば、生きていける。現代に戻れるか分からないけれど、俺はしのの兄として、今は生きていくしかない。きっと、何とかなる筈だ。
そう思うと、肝が据わった気がした。俺は泣きながら、がつがつと芋粥をかき込んだ。後になって思えば行儀は悪かったけれど、この優しい芋粥を温かい内にたくさん腹に収めた。
「兄ちゃん、芋粥がしょっぱくなるよ」
そんな俺を、しのはただ静かに見守ってくれていた。