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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
十三膳目
38/65

初めてのお客にトマトぶっかけ素麺・上

「おや、こんな所に食堂があったのかい」

「入ってもいいでしょうか?」


 薬研製薬のみんなの昼飯が終わって、長屋のみんなの分を準備している時だった。

 暑い、八月の夏の昼過ぎ。だけど令和の『温暖化』の影響で夏の気温が上昇している現代より、今はまだ過ごしやすい気温に感じる。道はアスファルトではなくむき出しの砂利道で、打ち水もしているしね。しかし台所仕事をしていてエアコンがないのは、身体には少々きつかった。熱中症にならないために窓や玄関は開けて、蕗谷亭の中は風通りをよくしていた。


 確か扇風機は、明治二十六年に亜米利加(アメリカ)合衆国から輸入され始めた。しかし、俺たちのような庶民には手が出せない値段だ。もう少ししたら、買えるようになるかもしれないのかな。この辺りの生活電化製品の歴史については、あまり学んでいなかったため俺はよく知らない。ただ、機械に頼らずとも生活できる暑さな事には、感謝していた。


「あるものでしか用意は出来ませんが、よければどうぞ」

 蕗谷亭の前に声をかけてくれた男性二人に、俺はそう返事をした。暑い中きっちりと西洋風のスーツを着た、上品そうな二人だった。


 ちょうどしのが井戸で汲んできてくれた水に手拭いを濡らして、お茶と一緒に二人の前に来た。そして、涼しそうな風が吹き込む窓の横の席に案内した。

「薬研製薬との取引で、ここまで来たんだ。薬研社長に「工場の近くにいい食堂があるから昼を食べるならそこをお勧めする」って、言われたんですよ。年末に来たときはなかったと思うけど、最近できたのかい?」

 口髭(くちひげ)を丁寧に手入れした男性が、俺に聞いてきた。俺は「商売もしろ」と言っていた、薬研社長を思い出して感謝する。どうやら、まだ客商売をしていまい俺たちの為に動いてくれたようだ。


「はい、春から開いています。ご来店いただきありがとうございます」

 接客している俺を、しのとりんさんが台所からこっそり覗いていた。

「最近は同じような西洋料理ばかりで、飽きてきた。何か目新しいものが食べたいな」

 茶色のスーツの男が言うと、口髭の男も頷いた。

「洋食もいいが、こう暑くてはこってりしたものを食べる気になれない。野菜を多く摂ることも必要だと分かってはいるが……君。何か、おすすめのものはあるかな?」

 冷たい手拭いで首筋や顔を拭いている二人に訊ねられて、俺は少し悩んだ。


「お嫌いな食材などありますか?」

「いや、俺たちは特にないよ」

「分かりました! 当店の夏のおすすめを、すぐにお作りいたします! 少しお待ちください」

 俺はそう言って、二人に頭を下げて台所に戻った。『蕗谷亭』の初めての客だ!


「しの、畑から赤茄子(トマト)胡瓜(きゅうり)を一個ずつ取ってきてくれないか? 後、大葉も。それからそれを水で洗ってくれ。りんさんは、梅干し水にさらしてからをたたいて欲しい。それが終わると、棚にある素麺(そうめん)を二人分湯がいてくれない?」

 俺の指示に疑問の声を上げず、二人は「あいよ」とそれぞれ支度し始める。夏野菜は一年目の畑なのに、松吉さんの指示のおかげで豊作だ。それに素麺は薬研製薬がお中元で届いたものを「好きに使ってくれ」と、沢山貰っている。お金はそうかからずいいものを提供できる。

 洋食好きだが、夏バテをしている男性にぴったりな献立を思いついた。俺はまだこの時代一般的に普及されていない、大豆もやしを台所の隅の暗がりで育てていた。その大豆もやしをもぎり、水で綺麗に洗った。


 トマトのぶっかけ素麺と、ささみと野菜の梅肉和えを作ろう!


 夜に鶏料理を予定していたので、そこから少しささみ部分を拝借することにした。鳥は丸ごと三羽を買っているから、二人の副菜分ならそこから取っても融通が利く。

 この時代に食べる素麺の出汁(だし)は、めんつゆくらいだ。トマトダレなら、西洋料理好きにも喜んでもらえるはず!


 どちらかと言うと、メインの素麺は簡単に出来る。素麵を茹でるのをりんさんに任せているので、俺は副菜の準備を先に始めた。食堂を利用する長屋のみんなが来たときに味噌汁を温め直せるように、竈の火はしっかり残っている。

 鍋に入れた湯が沸いてくると、りんさんが素麺を入れた。これを茹でて吹きこぼれる時に『びっくり水』を入れる。普通の水だが、高くなりすぎたお湯の温度を一度下げると、美味しく茹で上がる。


 よく夏に「簡単に素麺でいいよ」と言っていた俺の言葉に、母さんが「素麺は簡単じゃないのよ!」と怒っていた理由が、料理をする身になってようやく分かった。素麺は暑い台所で茹で、流水で油分とぬめりを取る、大変な食べ物なのだ。料理に簡単はない。『美味しい』料理をふるまうなら、ある程度知識や努力をしなければならない。

 でも家庭で、たまには『ずぼら飯』を作るのも悪くはない。と、俺は思っている。毎日献立を考えるのは、それだけでも料理する人にとって大変だからだ。

 しかし俺が今いるのは、電気器具がなく旬のものしか食べられない時代だ。現在のような『簡単ずぼら飯』は多く存在しない。家庭で簡単なずぼら飯を作るなら、お茶づけくらいじゃないかな。

 でも、お金をもらい提供する『蕗谷亭』のメニューには手抜きが出来ない。対価に見合った献立を、作らなきゃいけない。俺はしのとりんさんが手伝ってくれて、三人で作れることに本当に感謝しているんだ。三人なら、負担がずっと楽になる。そのおかげで毎日人に喜んで食べて貰える料理を作れる。その為の修行にもなっているからさ。

 

 そう、こうやって不意に来てくれた『お客』に対応できる余裕が出来ているんだから!

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