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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
十二膳目
37/65

初夏にさっぱり鯖の卸煮・下

 胡麻油で素揚げした切り身が乗った竹ザルに熱湯をかけて、水気を良くとる。しのとりんさんがそれをしてくれている間に、俺は空いた鍋に味醂(みりん)を入れ火にかける。味醂のアルコール分を飛ばすためだ。

 アルコールが飛んだ味醂の鍋に、朝多めに残していた二番出汁を味醂と同量入れる。それから、水気を切った切り身を入れた。二十人分を作るので、二つの鍋で魚があふれている。

 俺がその作業をしている横で、しのが冷めた胡麻油を缶に入れていた。次使うまで、この缶で保存するのだ。勿体ないし、素揚げしただけだから次も十分使えるからね。揚げた時に出た鯖の切れ端なんかは、油もの専用の竹ザルで綺麗に取り除いていた。


 素揚げした鯖は五分ほど煮ると、醤油を入れた。そうして火から鍋を上げて竈の火を消す。本来はこの上に大根おろしを乗せて、皿に盛るのだ。

 でも俺は、食べやすいように少しアレンジを入れた。酢と夏橙(なつだいだい)の絞り汁をおろし煮に入れた。大根おろしで多少サッパリするが、やっぱり初夏という事もあり胡麻油で揚げているので、胸焼けしないように爽やかなポン酢で仕上げたかったんだ。


 実はこの時代ポン酢はあったのだが、酸化を止める技術がないので、庶民には普及していない。東京では、存在を知らない人も多いんじゃないかな? 本と薬研氏に聞いて知ったのだが、ポン酢は江戸時代に和蘭陀(オランダ)から輸入され、日本に伝えられた。そもそも印度(インド)では胃腸薬だったのだが、和蘭陀に伝わった時に蒸留酒に柑橘類の果実を漬け込んで生まれた。当時それは、食前酒として広まった。ポン酢が今のような『酢』という調味料として普及するのは明治じゃないんだ。多分昭和なのかな? 戦後だった気がする。俺は極力歴史を変えるようなことをするつもりはないから、ポン酢の作り方を今は誰かに教えるつもりはない。まあ、しのやりんさんはそばで見ているから知ってしまうんだけどね。


 火に通した上に醤油の塩分もあるから、こうしておけばすぐに腐らないし食べる前に温めればいい。おまけで貰ったわかめと胡瓜の酢の物を付けて、あとは昼飯を作る時間に豆腐の味噌汁と糠漬け、白米を揃えればいい。これで昼食の用意をする時間が、短くなるだろう。だから、昼飯作りの集合時間は少し遅くなっていい。

 りんさんの昼寝時間がちゃんと確保出来たことに、俺は良かったと安心した。


 りんさんは今日は洗濯ものはせず昼寝をすると家に戻り、俺としのは火の始末をちゃんと確認してから蕗谷亭を出て洗濯をして少し畑の世話をした。

 昼食の用意をするまでまだ少し時間があるので、しのはちゃぶ台の上で神戸のふみに手紙を書いている。俺は、ふと思い立って蓄音機の箱を取り出した。これが、以外と重い。俺が子供だからなのか、元々重いのか今の俺には分らない。

 木箱の中には、レコードが何枚か入っている。英語で書かれているが、クラシック音楽のレコードだという事は、俺にも分かった。それとは別に、レコード針が沢山入っている。


 そう言えば、針は使い捨てだ。一枚のレコードで一針だった気がする。その為、ディナーの時間しか流さなかったんだ。レコードも、確かSP版で現在のものと違う。詳しい仕組みは、俺には分からない。叔父さんが「LP版は使えないから、新しいレコードを探すのは大変だ」と言っていた気がする。その違いが俺には分からない。だけどこの時代なら、SP版というレコードは沢山あるだろう。

 ハンドルを回して、適当にレコードを乗せて針を置く。すると、ハスキーボイスの様な古めかしいメロディが流れ始めた。音楽の時間に聞いた事がある曲だった。


「わあ、素敵!」

 すぐにしのが反応した。手紙を書く手を止めて、蓄音機の音を楽しんでいた。小さい頃、俺達が聞いていたかもしれない音楽だ。そう思うと、俺と入れ替わってしまった恭介がどこにいったのか心配になる。元気だろうか――俺達が本当の姿に戻れる時が来るのだろうか。

 自分が『平塚恭志』だと忘れないうちに、元の姿に帰りたい気持ちはあるのだけれど……しのとおっかさんの事が気になり、複雑な思いを抱きながら俺はレコードを聞いていた。



 レコードを聞き終わると、俺達は蕗谷亭に戻った。白米を洗っていると、眠そうなりんさんもやって来た。そうして米を焚いて味噌汁を作り、二本分の大根おろしを作った。


 そうこうしている内に、薬研製薬の皆が入って来た。

「あれ? 魚は夜じゃなかった? それに、アジフライだった気がするけど」

 望岡さんは食事が楽しみらしく、一日の献立を覚えている。そんな彼に、りんさんが答えた。

「ま、人助けしたら献立が変わっちまったんだ。美味しく出来たから、許しとくれ」

「構わないよ。さっぱりしたものだし、確かに良く味が染みてて美味しそうだ」

 皆文句を言わず受け取り、何時ものように静かに食べ始めた。食べ終わると「美味しかったよ」と何人かは口にして出て行くが、静かな食卓は少し寂しく感じる。


「恭ちゃん、食べに来たよ」

 高藤さんが来た。気恥ずかしそうに、後ろには辰子さんがいる。りんさんは、ニコニコして二人にお盆を渡した。

「鯖かい。美味そうだねぇ、頂きます」


 温め直した時に、大根おろしを半分くらい汁に混ぜ、皿に盛ると汁をかけて上に乗せる用の大根おろしを乗せる。おろし煮っていうのは、大根『おろし』と魚の『煮』物なんだ。


「大根おろしのお陰でさっぱり食べられるのは当たり前かもしれないけど、醤油の辛さもまろやかになるね。柑橘と酢が入っているのかい? 初めて食べる味だよ。柑橘の香りと味で、新鮮な美味しさだなぁ。油で揚げてあるから、少し噛み応えも出ていいね。味醂の照りも、揚げた鯖を綺麗に魅せてるよ。ああ、揚げ煮なのに爽やかだ」

 早速鯖を口に入れた藤堂さんが「美味い!」と言ってから、鯖を嚥下(えんか)してからしみじみとそう言ってくれた。


「揚げてから、油抜きしてあるんだね? 胡麻油の香りはするけど、油くどくない。うん。柑橘の香りは、夏の始まりにはいいね。急遽変わった献立なのに、流石だね」

 辰子さんも、瞳をキラキラさせて食べてくれた。食生活の乱れがなくなったおかげか、以前の辰子さんは少し痩せ気味だったけど、今は丁度いいくらいにふくよかになった。なんだか、女性の魅力が増してきたように思う。

 りんさんじゃないけど、高藤さんと辰子さんの二人が幸せになってもいいんじゃないかなって、俺は何だか思ってしまった。だって、仲良く食べている二人は俺から見てもよくお似合いだったからさ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白いです(〃∇〃)!美味しそうです!お腹が空きました^^;〜 ……歴史どうなっていくのか?、中の人はどうなるのか?このままなのか?並行世界になるのか?(;´Д`)なんとかなって無事エンド…
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