初夏にさっぱり鯖の卸煮・中
皆の朝飯が終わると、ようやく俺達の食事時間だ。
りんさんの夫の勝吉さんは、昨日から大阪に行っている。知り合いと一緒に、大阪の活動弁士を研究する為だそうだ。大阪の活動弁士は、口が達者で人気があるらしい。少し有名になって来たからこそ、真面目な勝吉さんは勉強をしたい。と、りんさんに頼み込んだそうだ。りんさんは笑顔で見送ったけど、勝吉さんがいない三日間が寂しい。と、嘆いていた。確かに現代でも、大阪の芸人さんの漫才は勢いがあって面白い。活動弁士も、大変そうだな。
「なら。今夜はうちに来ないかい?」
昨日ようやく新作の美人画が描けた辰子さんが、起きるのが遅くなって俺達と一緒に朝飯を食べていたのだ。その言葉に、りんさんが嬉しそうな顔になった。
「いいのかい? あたし、前から辰子先生とゆっくり話したかったんだよぉ。藤堂先生と、どこまで進んでるのか聞きたくてさぁ」
ぶっ、と俺はお茶を吹き出しそうになった――やめてくれ、しのが興味を持ったらどうするんだ。
「な、何もないよ! 絵描きと字書きの友人ってだけだよ。それに藤堂さんなら、きっと女の人には困ってないだろう?」
辰子さんは眠そうな顔だったのに、りんさんの言葉に真っ赤になって顔の前で手を横に振った。
「え? 辰子さんと藤堂さんは、恋人なの?」
「しのは興味持たなくていいから!」
俺は慌てて、会話に参加した。人妻と大人の女の恋愛話は、まだ十のしのには早すぎる! ってか、しのに好きな人が出来たらどうするんだ! 俺の大事な妹なのに。
「あはは、冗談だよ。恭ちゃんは耳年増だねぇ」
りんさんはそう言って、しのに向き直った。
「しのちゃんには、少し早いお話だよ。もう少し年取って好きな人が出来たら、話しておくれ。今日は、辰子先生とあたしだけの秘密のお話なんだよ」
「えー、ずるいよ」
しのがふくれっ面をすると、りんさんと辰子さんが楽しそうに笑った。
「じゃあ、あたしは今から絵を持っていくよ。ご馳走様。あ、りんさん。座布団並べるのでいいなら、布団は要らないよ」
そう言って、辰子さんは蕗谷亭を出て行った。
「さて。まだそんなに暑い訳じゃないけど、さっさと作っておこうか。皆が食べる前に、温め直せばいいからね」
「急に元気になったね、りんさん」
「恋の話はねぇ、女にとって楽しみの一つなんだよ」
食事を終えて「ごちそうさま」と手を合わせると、手早くりんさんは食器を片付ける。慌ててしのがそれに付いて行く。
「今日の夜の為に、あたしは頑張るよ。あたしとしのちゃんは洗い物しておくから、恭ちゃんは鯖を捌いておくれ」
確かに急いで準備すれば、昼飯の用意にそう時間がかからない。りんさん、今夜の為に昼寝するつもりだな? きっと、二人して夜遅くまで起きてるんだな?
ま、息抜きになってよかった。
二人が井戸まで洗い物を持っていくと、お喋りをしながら洗い物を始める。本当に、りんさんには感謝している。しのにお姉さんが出来た気がするんだ。おっかさんが浮世離れしている所があるから、りんさんがしのに色んな事を教えてくれているみたいだ。
俺はくすりと笑ってから、おっかさんに買って貰った大事な三徳包丁を取り出した。鯖は、油はあるようだが少し小ぶりだった。薄く大きな鱗があるので、包丁の刃先で丁寧に皮を綺麗にする。鯖や鰹なんかは血が多く出るので、りんさんもしのも捌くのは苦手らしい。鱗取りが終わると、ヒレの下に刃先を入れてエラを外す。本来ならおろし煮には筒切りって言う切り方の方がいいんだけど、この時代風に作る。中骨が軟らかくなるまで煮ないから、食べる時に骨が邪魔だよね。清や次郎の為にも、骨が少ない方がいい。
鯖は三枚おろしにして、中骨と頭で出汁を取ろう。これは、晩飯の汁用になるな。
頭をおろして肛門から腹を裂くと、内臓があふれ出てくる。それと血合いを削り取り、血を洗ってから三枚におろす。そして、腹骨も取った。これを五匹分するから、結構面倒だ。血と内臓さえ取れば、りんさんもしのも触れるようになる。
俺が魚と格闘していると、洗い物を終えた二人が帰って来た。しのが手拭いで食器の水気を拭きだすと、りんさんが台所に来た。その姿を横目に見ながら鍋に胡麻油を入れて、再び竈に火を焚き始める。その横の竈にも火を分けて、鍋でお湯を沸かす。
「素揚げだったよね?」
「うん、お願いします」
だんだん温度が上がってくると、頃合いを図ってりんさんが切り身にした鯖を油の中に入れていく。揚げた鯖を入れる為の竹ザルを、しのが用意してくれた。
「食べたばっかりなのに、胡麻油は本当に良い香りだねぇ。まだ食べられる気がするよ」
旦那さんが居なくて寂しいと嘆いていた人と思えない。でも、食べれば元気が出る。食べていれば、生きていける。
そう言えば、現代のおばあちゃんも言ってたっけ。
悲しい時、寂しい時は腹いっぱい食べてたくさん眠るんだよ。食べ物は、人を元気にしてくれるんだ。おばあちゃんのお母さんも、そう言ってたよ。蕗谷家の、魔法の言葉だって。
俺は今、その言葉をしのに教えている。家族で飯を食って、笑って仲良く寝る。そんな小さな事を幸せだと感じる大人になって欲しいからだ。




