お別れには炊き込みご飯握り・中
新しい家のお陰なのか春が近づいてきたからなのか、日が昇っていると随分温かくなってきた。聞こえて来る鳥の声も、何だか陽気で明るい。
そうしてめでたくこの三月に、俺達は尋常小学校を卒業した。
まかない食堂はもう綺麗になって、必要な台所用品も薬研氏に揃えて貰っていた。竈も四基あり、大人数に対応出来そうだ。それに明治三十五年に出来た割烹着を、俺達の為に用意してくれた。この時代の割烹着はレースなどの飾りなどない、丸襟でシンプルなものだ。りんさんの為の大人用と、しのの為に少し小さな子供用がある。
俺には、藍染めの前掛けだ。割烹着にも前掛けにも、『蕗谷亭』と刺繍されていた。令和では叔父さんの店のただのアルバイトだったのに、なんだか自分の店ができたようで嬉しくて気恥ずかしい。これで気合が入るのだから、現金なものだ。
食堂の食材の仕入れ先は、俺と薬研氏ときちんと話し合った。月末に献立を考えて提出すると、翌月の材料を薬研家の使用人がまとめて用意してくれる事になった。ちなみに仕入れ先は、俺が頼むより先に薬研氏が「野菜は源三さんの店、細々したものはまつさんの店で」と、言ってくれた。肉や魚なんかは、薬研氏の知り合いの所から、用意して貰う。それ以外のものは薬研製薬の名前でのつけ払いにして、月末にかかった経費を薬研さんの会社で計算して貰い、そちらでまとめて各店に支払いをして貰う。意外に現代的で、スムーズなやり取りで安心した。
それから長屋の皆の食費は、家賃と共に赤坂の薬研研究所の経理に渡すように。と、指示された。家賃は六十銭。食費は、一か月一人二十五銭。まつさんの子供の食費は、大きくなるまで二人で十五銭で良い。家であまり食事をしないおっかさんも同額、と決まった。
「それに、もし食材が余っていて食べにくる者が来たら、お代を貰って食べて貰うといい。それは、店で貯金しておけ。将来の為にな」
薬研氏の製薬会社の一室にある豪華な部屋。そこでで契約書のサインや店の運営の話をしている時、薬研氏は条件にそう付け加えた。長屋の住人の家賃も食費も、赤坂という立地なのに破格の値段だ。その上、勝手に商売までしていいらしい。
――本当に薬研氏は、まだ十歳の俺を高く評価しているらしい。
「ただ、こちらからの願い事もある。儂の商売相手の飯も、時々作って欲しい」
『蕗谷亭』は、玄関を入ると土間が広がる。その奥に、大きな台所。左手の部屋は襖を開けて広げた六畳と八畳の続き部屋がある。その奥には従業員の休憩用に使える四畳の部屋と、六畳の謎の部屋があった――多分。あまり聞かれたくない商談をする時や、薬研氏にとって大切な客に食事をして貰う時に、ここを使うという事だろう。その部屋の奥の襖を開ければ台所のすぐ脇で、勝手口から出入りできる。そこは、俺たちの畑が広がっている道に繋がっているので目立たない。
「分かりました。台所は通りやすいようにしておきます。この部屋には余計なものは置かず、お使いの時は美味しいものをご用意いたしますね」
「お前が考えている通りだ、よろしく頼む。恭介は賢くて助かるな」
まさか、こんな小さな店? で薬研製薬のような大きな会社が極秘の商談をするとは、誰も思わないだろう。薬研氏こそ、本当にやり手だ。
「そうだ――明後日、尊は独逸までの船に乗る。もし見送りをするなら、朝の十時にここに来るといい。港に向かう馬車に乗せてやる」
しのと揃って立ち上がり、執事の門田さんにドアを開けて貰って帰ろうとした時。薬研氏が少し寂しそうな声音で、そう小さく呟いた。俺は「必ず来ます」と返して、それ以上は言わず部屋を出た。薬研氏は商人として素晴らしい才能がある上、珍しく博打も女遊びもしない。酒も付き合いや軽い晩酌程度で、『商売人』と同じくらい『父親』としても理想的な人だ。きっと、子供達を分け隔てなく可愛がっているのだろう。
この時代海外に行くにはまだ船しかなく、片道一か月程の長期間の旅になるそうだ。陸奥さん以外にも薬研家の使用人が何人か付いて行くそうだが、息子の旅を心配に思っているのだろう。俺も、万が一――本当に考えたくないが、最後の別れになるかもしれない。大切な存在である恩人の旅を、絶対に見送りたかった。尊さんには、見えない所でも色々お世話になっているのだから。
「しの、ここまで来たし丁度いい。お前の眼鏡取りに行こう――忘れてただろう」
「あ! 本当だ。おっかさんに悪いから、早く取に行こうよ!」
薬研製薬を出ると、真っすぐに帰ろうとするしのの手を握って引き留めた。おっかさんもしのも、本当に忘れていたんだな。と、俺はのんびり屋の二人に思わず小さく笑う。その言葉にしのが慌てて、俺の手を引っ張り下駄の音を高く眼鏡屋に向かった。
眼鏡を受け取り家に帰ってくると、しのは小箪笥から自分の手鏡を取り出して色んな角度で自分を見ていた。俺は竈に火を点けながら、そんなしのを不思議そうに時折眺めている。
「確かに見えやすいけど、変じゃないかなぁ」
要は、見た目を気にしていただけらしい。もうしのは身なりに気を遣うようになっていて、三つ編みを結ぶにもおっかさんの鏡でおっかさんの椿油を使い、少し時間をかけるようになっていた。
「可愛いじゃないかい。よく似合ってるよ」
そこに、おっかさんが顔を見せた。時計を見れば、もう十五時過ぎだ。俺達は薬研製薬所で饅頭やら煎餅、お茶に紅茶をたくさん出して貰って食べたので、お腹いっぱいだった。俺はおっかさんの朝飯になるお茶漬けを、急いで用意し始める。
「本当に? 良かった」
「それよりしの、留守の間に友達が来てたよ。手紙を預かってる――ほら、これだよ」
おっかさんの言葉で、ようやく満足したようだ。しのは鏡から顔を離したが、おっかさんの言葉に首を横に傾げた。麦飯が入った茶碗と漬物を持って来た俺に「小箪笥に直して」と手鏡を渡して、しのはおっかさんから手紙を受け取った。
「兄ちゃん、ふみちゃんだ。ふみちゃんも、明後日汽車に乗るって。朝の七時には行くみたい」
「そうか。なら、ふみを見送ってから尊さんの見送りに行こう。時間が重なってなくて、良かったな」
しのは、尊さんの話を聞く時より沈んだ顔をしていた。しのにとっては、確かに尊さんより四年間一緒だったふみの方が気になるのだろう。俺は小箪笥の引き出しを開けながら、しのにそう返事した。
話しながら開けた小箪笥には――何か、見知らぬものが入っていた。開ける場所を間違えたのかと思い閉めようとして――なんだかその中のものに、どこか見覚えがある様な気がしていた。
――あれ? なんだろう……これ、確か……
俺が無意識に『それ』を取り出そうとする様子を、手紙から顔を上げたしのが見たらしい。
「駄目! 兄ちゃん、閉めて!」
しのが突然、大きな声を上げた。俺とおっかさんは、しのの声にびっくりして動きが止まった。しのはそのまま唖然としている俺から手鏡を取り、開けていた引き出しをぴしゃりと閉めた。そうして、上の引き出しを開けて手早く手鏡を直した。
「兄ちゃんは、これから絶対この小箪笥開けないで! 絶対だよ、約束!」
そう言うと「ふみちゃんの家に行ってくる」と、下駄を鳴らして出て行った。俺とおっかさんは、きょとんとした顔でお互い見つめ合った。
「しのらしくないねぇ。一体、どうしたんだい? でも恭介、しのがああ言ってるんだから開けちゃだめだよ」
おっかさんはちゃぶ台の前に座ると、俺がさっき用意した急須のお茶を飯が入った茶碗に注いだ。
「分かってるよ。絶対、勝手に見ない」
そう言いつつ、確か引っ越しの時にしのの兵児帯に挟まっていたのと同じ大きさに見えた『それ』が何か、気になって仕方なかった。




