お別れには炊き込みご飯握り・上
三月になると、尋常小学校を出た後の話が話題になるようになった。俺としのはまかない食堂で働く事になっているから、食堂となる元茶屋の修繕が終わるのをのんびりと待っている。みんなの状況と比べると、ずいぶん優雅なものだ。
しのと仲の良い二人も、進路が決まったらしい。
「あたし、高等小学校に通う事になったの」
かよの父親は、町医者だ。看護婦になって欲しい親の為に、進学して勉強を頑張るらしい。確かにかよは頭が良いが一人娘だったので「男だったらなぁ」と、親や周りによく言われていたらしい。看護婦になって、医者の婿を貰うと父親に言われたそうだ。
令和の現代なら、考えられない言葉だ。進学するのに、男女は関係ない筈だ。やっぱり、時代が俺の知っている常識と違い過ぎた。
「看護婦よりも、あたしは医者になる。女の医者になってやるの。婿なんて、いらない」
かよは周りの言葉に、返ってやる気が起きたらしい。毎日寝る前に、予習をしてこの時代の女性には難しい医師免許を取ると笑っていた。俺としのはその言葉にかよと同じように笑っていたが、ふみは沈んだ顔をしていた。
「あたし――あたしは、上方に行くの。織物工場で、働く事が決まったの」
意外な言葉に、俺達はびっくりした顔でふみを見つめた。ふみは五人兄弟の末っ子で、進学する金がないそうだ。家族の為に、働きに行くしかないようだった。それで、ここ数日浮かない顔をしていたのか。
しかし、上方――つまり関西か。この時代の俺達には、途方もなく遠い距離だろう。何人かの女の子が、上方から迎えに来る工場の人と共に織物工場へまとまって行くらしい。ふみの他にも、給金がいいというその工場に行く子が数人いるそうだ。
「向こうに行っても、皆に手紙を書いていいかな? あたし、みんなの事忘れたくないの」
泣きそうな顔のふみの手を、しのがぎゅっと握った。その上に、かよも手を重ねる。
「当り前じゃない。あたし達はずっと友達だよ! あたしも絶対、ふみちゃんに手紙を書くね」
「ふみちゃん、いつでも手紙書いてね。あたしも、ふみちゃんとしのちゃんはずっと友達。忘れないでね?」
二人の言葉に涙を浮かべたふみは、それから俺の方を見た。兵児帯には、以前俺がふみにあげた矢絣の手拭いが大事そうに挟んであった。
「え? あ……あの、俺も、しのと一緒に手紙書くよ」
俺の精神年齢は、体と違って二十歳のままだ。ふみが何となく俺に好意を抱いていることぐらい、この頃には分かっていた。遠くに行くふみに期待を持たせることはしたくなかったが、しのとかよに怒られては嫌なのでそう声をかけた。
「ありがとう、みんな本当にありがとう……あたし、絶対みんなを忘れない。向こうでうんと頑張ってお給金貯めて、必ず帰ってくるから!」
ふみが泣き出すと、しのとかよもつられてわんわん泣き出した。俺はどうしていいのか分からず、おろおろと三人の頭を撫でるしか出来なかった。
「実は、独逸に留学する事になった」
かよやふみと話をした数日後。尊さんが見慣れない軍服の若い男を一人連れてうちに来て、唐突にそう言った。
「え……独逸?」
「土産だ」と貰った紅茶の葉を、急須に入れて湯飲みで飲む――変な光景だが、ティーカップなんて洒落たものはうちにはない。しのは一緒に貰った、高価なかすていらに夢中だった。
「俺は薬研家の四男だし、家業を継ぐ事はない。なら、陸軍に入り国の為に尽くすことを決めた。軍事に関しては、外国の方が進んでいる。なら、そこから学ぶ方が早いと思ったからだ」
薬研製薬会社はまた大きな会社になったが、長男と次男が父親の仕事を手伝っているらしい。同じく陸軍にいる三男の護衛の馬に、俺は蹴られたとの事だった。薬研家には、次男の次に長女がいる。つまり尊さんは、妙な偶然でふみと同じ五人兄弟の末っ子だ。同じ家族構成なのに――境遇の差に、俺はふみがより不憫に思えた。
しかし、それより尊さんが陸軍に? 俺は、世界史をきちんと覚えていない事に頭を抱えた。今独逸に行っても大丈夫だっけ? 俺がこっちに来る前の年に日露戦争は終わっていた筈だから……と、ぐるぐると頭の中で歴史を思い出そうと悩んでいた。
「どうした? ――ああ、英吉利ならお前たちの父親を捜して、文句の一つでも言ってやりたかったんだけどな」
誤解したのか尊さんはそう言って、小さく笑った――彼なら本当にそうしそうで「いいんです、俺にはおっかさんとしのが居ればいいんで」と、笑って誤魔化した。
「それもそうなんですが……あの、その方は……?」
尊さんの横で湯飲みに入った紅茶を飲む彼に視線を向けて、俺はようやく謎だった人物の事を聞いてみた。
「ああ。そうか、紹介がまだだったな」
尊さんがそう言うと、彼は湯飲みをちゃぶ台に置いて頭を下げた。
「申し遅れました、自分は陸奥勝成と申します。陸軍第一師団二等兵、十七であります」
「尊さんて、幾つでした?」
「数えで十四だ」
尊さんって、俺達より四つ上だったのか。いや、それより。自分より年上の軍人に、なんで偉そうなんだろう?
「陸奥は俺の家の使用人の息子で、小さな頃から知っている。小さな頃から、頭がいい。俺一人で外国に行くには、やはり少し不安だった。だから、一緒に行って貰う事になっている」
成程。使用人の息子と主の息子なら、これが普通なのか。それに、確か二等兵って一番下の階級じゃなかったっけ?
「十七になってすぐに志願したので、まだ階級は下っ端です。入隊するまでは、親と同じく薬研家で働かせて頂いていました」
俺が不思議そうにしていたのに気が付いたのか、陸奥さんはそう言ってもう一度頭を下げた。
「何時まで独逸に滞在するの? 遠いよね、独逸って」
かすていらを食べ終わったしのは、ようやく冷めてきた紅茶の入った湯飲みを手にして聞いた。しのは俺達に偉そうにしない尊さんを、友人と思っているような所がある。俺が気を遣って話していても、しのは俺に話しかけるような気軽さで、尊さんと話していた。
「三年くらいだろうか。帰って来た時は、俺に小さくても師団の一つを与えて貰う約束をしている。勿論、陸奥も階級を上げて貰う。あまり長く向こうに居て、日本を忘れる訳にはいかないからな」
……三年。俺は、家族以外で一番信頼している尊さんが遠くに行くのが寂しく、そうして不安になって眉尻を下げて頷いた。それに、これから世界が荒れていく未来を知ってる為、尊さんの事が心配になっていた。
だけど、未来を教える事だけはしてはいけない。歴史を変えては、いけない。もしかして、現代の俺が産まれないかもしれない歴史を、作ってはいけない――それを、改めて肝に銘じた。




