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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
九膳目
28/65

引っ越しには豚の醤油漬け・下

 今日は、引っ越し作業が最後の日だ。都合がいいことに、尋常小学校も休み。辰子さんの引っ越し作業の前に、俺達の台所のものを先に赤坂の長屋に運んで貰った。勿論たくさんの(まき)も。

 今日の昼飯と晩飯を用意するために、そうして貰えないと困るからだ。

 台所関係の荷物を運んだら、男衆は直ぐに今までの長屋に戻った。昨日と同じようにおっかさんに清と治郎を任せて、俺としのは急いで昼飯の用意を始めた。新しい家を眺めている暇はない。


 出汁は向こうの家でとっておいたし、米も浸水させ終えているので炊くだけだ。昼飯と晩飯の時に米を炊くので、温かいまま食べる事が出来てみんな喜んでいた。大変なのは、その炊きたての米を握るしのだ。しかし猫舌のしのは、熱い米を握るのは平気らしい。


「まかない食堂の練習になって、良いねぇ。あたし、もっと料理を覚えたい。兄ちゃんの手伝いが、もっと出来るからさ」


 やっぱり、しのは天使だ。にこにこ笑いながら、鍋やら包丁を取り出してくれている。健気で家族思いのしのは、本当に俺の大事な妹。これからもちゃんと守ってやらないと――そう思いながらしのに視線を向けると、しのの兵児帯(へこおび)の腹の辺りが少し膨らんでいる。本を挟んでいるには少し形が違っていて、いつもはそんなものを持っている様子はなかったので俺は首を横に傾げる。

「しの、お前腹に何隠してるんだ?」

 俺の言葉にしのはびくっとして、腹を隠すように桶を抱えた。

「何でもないよ! そんなこと気にしてないで、早く昼ご飯作らないとみんなこっちに来るよ!」

 その言葉に慌てているのは分かる。転びそうになりながら、しのは逃げるように井戸に水を汲みに行った。こちらの引き戸は、ギシギシと建付けの悪い音がしない。


「しのの、宝物じゃないかい? 放っておいてあげなよ」

 しのにだって、俺達に隠し事があってもおかしくはない。おっかさんの言葉に頷くも少し寂しい思いをしながら、俺は竈に火を点けて米を炊く横に出汁の入った鍋を並べて置いた。


 辰子さんの荷物は、そう多くない。ただ「絵を描く道具は大事に扱っておくれ」と頼まれて、いつもよりゆっくり大八車を押してこちらに来たらしい。その為炊き上がったばかりの飯を、しのと慌てて握った。

 今日は、きつねうどん。それに昆布の佃煮を中に入れた握り飯、大根の糠漬けだ。丁度揃った時に、辰子さんの荷物を運び終えた源三さん達がまだ荷物が揃わない俺たちの家に入って来た。



 引っ越し作業の残りは、俺達の家の分だけになった。今夜はそれぞれ家で落ち着いて食べてもらう為に、持って帰って貰う事になっている。それに昨日の着物の片付けの時に捨てるものは別に置いておいたので――といっても、そんなものはあまりなかったが――「まつさんたちに任せるよ」と、おっかさんは二人の子供に三味線を聞かせてやりながら歌っていた。


 俺はもう尋常小学校は来月末には卒業だし、家に特別大事なものは無い。申し訳なく思いながら、皆に任せることにした。


 竈を俺が使えるように、しのは味噌汁の鍋を下ろしてくれた。そうして玉葱(たまねぎ)の味噌汁を混ぜているしのの横で、俺はフライ鍋(フライパン)胡麻油(ごまあぶら)をひき、昼間に醤油で漬けておいた豚肉を焼き始めた。一斤の豚肉を六枚くらいに切ると丁度良いと本に書いてあったが、これはこの当時の料理法だ。俺は三日間引っ越し作業で疲れたみんなの為に、疲労回復に良い豚肉を食べて欲しかった。この時代のレシピでは、醬油だけに浸ける事になっている。しかし醤油だけではさすがにしょっぱくて辛いだろうと、俺流のアレンジを加えた。漬け汁の醤油に擦った大蒜(にんにく)と、甘みの砂糖とみりんも入れた。一人二枚から三枚くらいの分量で、次々焼いて皿に載せていく。


「あー、いい匂い。あたし、お腹が鳴りそうだよ」


 昼間の気まずさを忘れたように、しのが香ばしい香りを嗅いで小さく笑った。それにつられる様に「俺もだよ」と、笑い返しながら焦げないように肉を焼いた。

「いい匂いだな」

 俺達の荷物を運んでいる高藤さんが、鼻を鳴らした。先ずは大きな家具を運んできたらしい。それを家の中に入れていると、高藤さんと一緒に箪笥(たんす)を運んでいた松吉さんの腹の鳴る音が、派手に家に響いた。

「おっとう、お腹空いたよ」

 ゲラゲラと笑う清と治郎に、松吉さんは恥ずかしそうにそう言い訳のような言葉をかけて笑った。

「あと少しだ、頑張りましょうや――しかし、本当にいい匂いだねぇ」

 小箪笥を抱えて入って来た源三さんも、鼻を鳴らしていた。その匂いに奮起したらしいみんなは、あっという間に俺達の家の荷物を運んでくれた。大八車を返しに行く男たちに代わって、女たちが料理を取りに来た。


「おやまぁ、豪勢だね。これの匂いで、男たちは張り切ってたんだ」


 まつさんも、香ばしい香りに鼻を鳴らす。俺の家とまつさんの家のお盆を使って、料理を新しいそれぞれの家に運んだ。辰子さんは、今日は高藤さんと一緒に食べるそうだ。一人で食べるのは寂しいと、ここ数日で思ったらしい。しのは火のついた竈の中の薪を持って、皆の後を付いて行った。みんなの家の明かりや暖房になる為に。


「三日間、本当にお疲れ様。飯が冷めちまったら恭介やしのに悪いし、みんな家で休んでくれ。ありがとうな。無事に引っ越しが終わって、助かったよ」

 源三さんの言葉に、皆は「お疲れ様でした」「有難うねぇ」とそろそろ暗くなり始めた中それぞれの家に帰っていく。

「源三さん――源三さんは、今日はうちで一緒に」

 家に帰ろうとする源三さんの背中に、おっかさんが声をかけた。源三さんは少し驚いた顔をしたが「そうかい」と、皆が出て行った玄関の引き戸を閉めた。


 握り飯、玉葱の味噌汁、らっきょう漬け、豚肉の醤油漬け。うん、家庭的で我ながら美味しそうに出来た!


「――美味い」

 焼いた豚肉を一口齧った源三さんは、しみじみとした声音でそう言った。

「醤油辛くなくて香ばしいし、何よりも肉に味が染みてて美味しいねぇ。あ、源三さんお茶どうぞ」

 しのは箸を止めると、急須から温かいお茶を淹れて源三さんに渡した。それを受け取る源三さんは、年のわりに疲れを感じさせない顔で少し表情を和らげた。

「飯が進む美味い味付けの肉に、温かい味噌汁。炊き立ての飯に――そうか。家庭ってのは、こんな感じだったなぁ」

 少し切ない言葉が源三さんの口から零れたが、俺達は何も言わず笑顔を浮かべて頷いた。

「源三さんの所の野菜は美味しいね、味噌汁に入れると玉葱が甘いよ。温まるねぇ」

 普段辛いものばかり食べるおっかさんの言葉に、俺としのはぎょっとした。だけど、それがおっかさんの気配りだ。

「豚肉ってのも、美味いもんだな。見た目があんなだから、てっきり油まみれの食い物かと思ってた。醤油と大蒜の味付けが濃いから、確かに玉葱の味噌汁は優しく舌に広がって丁度いい塩梅だ」

「うんうん。少し焦げた所も、香ばしくて美味しい。源三さん沢山働いたから、あたしの肉一つあげるよ」

「なら、あたしのをしのにあげるね」

 ちゃぶ台の上で、豚肉がリレーをしていた。本来なら行儀が悪いけれど――これが、家庭だよな。俺はその光景を、微笑ましく見ていた。


 俺が知っている源三さんは、家族がいない。一人で寂しい源三さんの為に、家族が増えればいいのに。俺は源三さんの事情も知らず、この時は勝手にそう願っていた。


一斤(※六百グラムくらい。現在の食パン一斤の重さとは違いがあります)

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