引っ越しには豚の醤油漬け・中
まつさんの家の荷造りが終わった女性陣と、荷物を運ぶ男性陣とが入れ替わりに食事をとる事になる。彼女達に食事を用意して、俺としのはその間井戸の前でみんなの洗濯を一緒にした。女物はしの、男物は俺だ。あかぎれの手に井戸の水はきぃんと冷たくて沁みるが、もうすぐ春が来るのが待ち遠しい。
洗濯が終わると、次は晩飯の支度に戻らなければならない。俺に力仕事は無いが、現代で多人数の食事を作っていた作業は、随分久しぶりで感覚が中々戻らず小さな俺には忙しかった。
「今日はみんなお疲れ様、また明日よろしくな」
二軒の引っ越しが終わると、源三さんの家でみんなで晩飯を食った。この日の晩飯は、握り飯と小蕪の味噌汁、蓮の油煮、蕪の菜っ葉の浅漬け。みんな美味しいと綺麗に食べてくれた。引っ越し作業から、源三さんが何となく長屋のリーダーになったようだ。彼の言葉にみんな「任せてくれ」と返事をして、それぞれの家に戻る。引っ越しが終わった家も、布団はここに残して次の引っ越しの手伝いをする事になっていた。
「恭ちゃん、あたしも運ぶの手伝うよ」
おっかさんに灯りを任せてみんなの使い終わった食器をしのと運ぼうとした時、りんさんが声をかけてくれて俺達の手からひょいと食器をいくつか取ってくれた。
「私が持つよ、りん」
「いいから。お前さん、灯りを任せたよ」
勝吉さんがそう言ったが、りんさんは代わらなかった。五人で源三さんの家を出ると、もう外は真っ暗だ。おっかさんと勝吉さんが持つ石油ランプがなければ、食器を抱えていると慣れた道でも転びそうだ。源三さんの家には時計がないので今の正確な時間は分からないが、十九時はとっくに過ぎているだろう。使った椀など洗っておきたかったが、このままではりんさんにも手伝わせてしまうので明日の朝にすることにした。
「今まであたし、恭ちゃん達とはっきり顔合わせる機会少なかっただろ? 実はあたしは近くの天ぷら屋さんで朝早くから働いていたんだよ。けど旦那が最近じゃ、ちょいと名が知れるようになってさ。ありがたい事に稼ぎが多くなってね。その稼ぎがあるから、今月の終わりには天ぷら屋で働くのは辞めにすることになってたんだ。暇になる所だったんだけど、今回の事で恭ちゃん達の手伝いに参加できるようになって良かったよ」
ぼんやりとした灯りの先、りんさんはとても嬉しそうな顔をしていた。そして、その笑顔はどこか誇らしそうにも見えた。
「勝吉さん、いい奥さんと連れ添ったねぇ」
おっかさんもそれが分かったのか、にこやかにそう勝吉さんに顔を向けた。
「ええ、売れない時から世話になりっぱなしで――本当に、感謝してます。本当にいつもありがとうな、りん」
「よ、よしなよ! 今更改まって、恥ずかしいじゃないか。お前さんは家の事を心配せずに、お仕事頑張ってたらいいんだよ。あたしがちゃんと、お前さんの世話するからさ――あ、いけない!」
赤くなったりんさんは食器を落としそうになり、慌ててそれを抱え直した。ツンデレのりんさんとこれから一緒に仕事をするのが、何だか楽しみになった。勝気な雰囲気があったが、意外に一途で健気で、とても可愛らしい人だ。
俺達の家に食器を置くと、勝吉さん達は「おやすみ」と自分たちの家に帰って行った。俺達も部屋に戻って一服しようとしたが、思いの外疲れていたのか眠くなって三人共早々に床について眠った。
次の日の高藤さんと勝吉さんの引っ越しは、慣れたせいか十七時前には終わった。だけど高藤さんの家には本が多くて、まとめるのも運ぶのも大変だったそうだ。みんな揃っての晩飯を食べ終わると、昨日と同じように勝吉さん夫婦に手伝って貰いながら食器を持って帰った。
「荷物が多いようなら、大変だけど今晩ある程度荷物をまとめておいた方が楽だよ」
りんさんは家に帰る前に、そう俺達に教えてくれた。
「家具以外に、俺達の家に多いものってあるか?」
俺の言葉に、しのは首を横に傾げた。
「みんなの食事用に使ってる食器は、皆に借りてる物が多いしねぇ……あ! おっかさんの仕事用の着物が多いかな。あれは、綺麗にたたまないと」
「そうだねぇ、広げている着物もたたんでおいた方が良さそうだね」
のんびりとそう言ったおっかさんの言葉に、俺は洗い物をしてしのとおっかさんは着物をたたむ作業をして貰う事にした。今日の疲れもある事だし、長く片付けはせず俺が食器を洗い終える頃には止めるように頼んだ。
盥の水の中で食器を洗っていると、おっかさんとしのの部屋から「おやまぁ」「わあ!」と声が上がった。俺は不思議に思って手を拭いながらそちらに向かった。
「おっかさん、しの。どうかしたのか?」
一応女性の部屋なので、俺は襖の前で声をかけた、すると襖が開いて興奮した顔のしのが顔を見せた。
「兄ちゃん、すごいよ! 見て、これ!」
しのの向こう――部屋の中をひょいと覗いてみると、多くの着物が散乱している。片付くのか? と思いながら、俺もしのたちが興奮している「それ」を見つけた。
押入れの前に大きめの木の箱? があり、蓋が開けられているので中の物が見えた。ラッパ水仙の様な――鈍い金色の綺麗な……どこかで見たような気がするものだ。
「蓄音機! おとっつあんの蓄音機があったよ!」
「あの人、置いて行ったんだねぇ。忘れてたよ」
興奮したしのと、どこかのんびりしたおっかさんの声。それらを聞きながら外国製なら結構高い代物なんじゃないか? とぼんやり思った。
それから、ドキッとした――ある事を、思い出したからだ。
「分かったよ。けど、取り敢えず明日も早いし散らかってる着物を片付けちまおうよ」
俺の諭すような言葉に、二人はもう時刻が遅い事を思い出して着物をたたむ作業に戻った。俺は小さく笑いながら洗い物に戻った。
だが、俺は蓄音機と言う名前以外に思い出した事を二人に隠すのに、内心必死だった。
俺の叔父さんのレストランで、ディナータイムに古いレコードを店内に流していた。有線放送ではなく――今見た蓄音機と、同じものを使っていた。客には「レトロな風情がある」と好評だった。
大正の開店当時からあると言う古いレコードが、店内で古めかしい音楽を奏でていた。
叔父さんが俺がバイトに来る時間には毎日準備をしていたので、俺はあまりそれを触った事はない。「古いのに、まだ使うの?」と聞いた俺に「これは壊れても直して使えって、おばあさんが言ってたんだよ」って、叔父さんは言っていた。
……まさかな、たまたまだよな。
古い蓄音機なら似ていて当然だ、俺の叔父さんの店にあった蓄音機とは違うはず。そう思いながら、進まないしのたちの作業を手伝う為俺は手早く洗い物を終えた。そうして、もやもやした思いを抱えながら俺は二人を手伝った。
そうこうして時計が二十一時を知らせる頃ようやく二人の寝る場所を確保できたので、続きは明日にするという事で俺達は眠りについた。やはり疲れていたのか、もう蓄音機の事は忘れてしまってすぐに寝てしまった。




