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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
八膳目
25/65

交渉にはたまごサンドヰッチと青豆のスープ・下

「うふふ、お褒め下さり有難うございます」

 今度は隣のおっかさんも笑いだしたので、俺は本当に何が起こっているのか分からなかった。

「よひらに連絡を貰った時に、事情は先に聞いていた。同じような六軒長屋を紹介して欲しい、と――だが、何故六軒長屋なのかはお前の口から言わせる。と、よひらは言っていてな。お前から、確かにちゃんと理由を聞いた。そして、儂は納得した」


 俺は驚いて、おっかさんの綺麗な横顔を見つめた。確かに、俺の体は――周りが見ればまた十歳の子供だ。そんなまだ子供の俺を、おっかさんは対等に接してくれて信用してくれている。薬研氏に「恭介から話させます」と言ってくれたのが、その証拠だ。子ども扱いをしているなら、俺のこんな無謀は止めるだろうし、薬研氏に連絡なんてしなかっただろう。


「ここに来るまでに、門田に調べさせた。好都合な事に、赤坂にここより少し広い六軒長屋がある。去年の末に建てたばかりで、幸いまだ住人はいない」

 そう言うと、薬研氏は門田さんから受け取った紙をちゃぶ台に開いた。どうやら、地図のようだ。彼が指差す所に、六軒長屋が描かれている。ここと同じ並びで、井戸を挟んで向かい合う三件の長屋が二つ。

「あの、でも――新しく建てたという事は、家賃が高いんじゃ……」

 こっちの長屋は、もう年季が入った隙間風だらけの家だ。新築なら、きっと今よりずっと高くなるに違いない。そうなると、長屋の皆の家計への負担も多くなる。


「儂がここを、買い取った――まあ、正式にはこれから買いに行く。向こうには朝早くに連絡をしているから、間違いなく購入出来る――そこで、恭介。儂と取引せんか?」


 薬研氏の楽しげだった顔が、急に商売人の顔に戻った。俺は思わず背筋を伸ばして、涙を着物の袖で拭って真っ直ぐに彼を見返した。

「ここに、一軒の家があるだろう? 実は、前に茶屋を開いていたところらしくてな。今は店は閉めていて、誰も住んでない。それに裏手には、一()ほどの使われていない畑もある。お前の返事次第では、儂がこの茶屋跡と畑も買い取ろう。そうして、手入れをして長屋の者が食事をとる食事処にしてやる。つまりここで、お前は長屋の住人の食事を作る事も出来る。そして、長屋の家賃は今まで通りで値上げせず、食事処は無料で貸してやる」


 六軒長屋を指差していた薬研氏の指が、少し離れた――と言っても、三軒分くらいしか離れていない所を指差す。その近くに、薬研製薬所の工場の名前も見えた。


 皆の食事を作れて、その食事を出来る場所を無料で貸してくれる? しかし――しかしいくらなんでも、俺達に好条件過ぎる。その対価として俺に、彼はどんな条件を出してくるのだろうか。

「儂の所の工場が、ここにあるだろう? ここで働く従業員で、独り者用の寮があるんだが――今までこの寮で彼らの食事を作っていたものが、事情があって田舎に帰ると言い出してな。そうなると、彼らの食事が用意出来なくなる。長屋の食事と一緒に、彼らの分も作って欲しい。お前がそれを了承すれば、交渉成立だ」


 つまり、食事を多く作ればいい事だ。それなら、俺に出来そうだ。だが――。

「その従業員さんの食費と、作る人数は?」

「彼らの食費は、無論薬研会社が出す。食事処の家賃は、お前たちの労働の対価と思ってくれればいい。人数は、今の所八人分だな」

 八人……正直、俺は出来るか不安になった。しのは手伝ってくれているが、料理人ではなくまだ子供だ。そんな俺達二人で、八人分と長屋の住人の食事が作れるのか……?


「ちょいと失礼しますよ!」


 その時、不意に女性の声がして建付けの悪い玄関が開けられた。どうやら、長屋の住人が聞き耳を立てていたようだ。ちらりと源三さんやまつさん夫婦の顔が見えた。それより前に出て俺たちの家の中に入ってきた女性の顔には、あまり馴染みがなかった。年の頃は、二十代の半ば頃だろうか。美人ではないが、愛嬌のある顔立ちの人だった。薄く残るそばかすが、可愛らしさを引き立てていた。

「あたしは、活動弁士の間宮勝吉の妻のりんです。勝手に聞き耳立て、ちまってすみません。そのまかない作り、あたしも手伝いますよ。そよさんの子供達だけに、あたし達の生活すべてを任せる訳にはいかないからね。三人なら、何とかならないかい?」


 それは、思ってもいない助けの言葉だった。同じ献立(メニュー)を作るのは簡単だが、人手が足りなかった。突然名乗り出てくれたりんさん――今はよく知らない人だけど、この長屋の住人なら多分頼りにしてもいいだろうな。そんな彼女も手伝ってくれるなら、きっと俺達できっと出来る――いや、やる!


「交渉成立です! 俺としのとりんさんで、長屋のみんなの食事と、薬研製薬の従業員さんの食堂をやります!」


 興奮して赤くなった俺の顔を見て、薬研氏は満足げに頷いた。外にいたまつさん達から、わっと歓声が上がった。

「よし。確かに、交渉成立だ。ちゃんと後で書面を作成して、きちんと契約するからな。出来ませんでした、はお前が子供であっても許さんからな?」

 やはり、商売人だ。子供相手でも、契約書面はきちんと残すらしい。俺は素直に「はい」と頷いた。


「薬研様、お昼はまだお済ではないですよね?」


 そこに、おっかさんが声を挟んだ。その唐突さに、薬研氏は少し面食らったようだ。

「あ、ああ。まだだが」

「そうですか――ほら、恭介もしのも直ぐ用意しな。薬研様。この子たちは自分たちの腕をご覧いただくために、朝から頑張って作っていたんですよ」

 その言葉に、俺としのは立ち上がって急いで竈へ向かった。火が通り過ぎないように脇に置いていた青豆のスープの鍋を、火を残していた竈に戻す。この火のついたままの竈は、薬研氏の為に部屋を暖めていたのもある。でも、スープを温めるように準備していたのだ。

 そして、乾いてしまわないように濡らした手拭いをかけていた、たまごサンドヰッチが乗った皿もお盆に乗せた。


「どうぞ」

 しのはお盆に乗せて運んだそれらを、薬研氏と門田さんの前に置いた。サンドヰッチとスープ――現代では、普通に食べられる食事だ。でも、この時代では目新しい。それに、俺は現代風にアレンジしているけどね!

 門田さんは、主人と並んで食べる訳にはいかない。と、困ったように薬研氏に視線を向けた。だが、薬研氏は「お前も食べろ」と言って、パンを手にした。


「――ん?」

 一口サンドヰッチを齧った彼は、それを喉に流し込んでから不思議そうに瞳を丸くした。

「恭介、これはたまごサンドヰッチの筈だな? 儂が知っているものと、随分違う――まろやかで、美味い。ぱさぱさとしていないな」

 そりゃ、マヨネーズはまだ普及してないからなぁ……玉子サンドヰッチに混ぜられるのは、まだまだ先の世だ。バタを塗っただけのパンに、辛子を混ぜただけのたまごは口がもさもさするに違いない。


「実は、本で読んで作ったソースです。西班牙(すぺいん)のもの、との事です」

 確かマヨネーズは、地中海の島が発祥で仏蘭西(ふらんす)人が広めた筈だと記憶していた。そんな本は読んでいない。恭志である俺の、現代の記憶だ。しかし、それが一番自然だろう。と、そう口にした。あまり不自然がないように、この時代風に辛子も少し混ぜている。


「まったりとした触感で、僅かな酸味と塩気がいい塩梅だ。刻んだ茹で鶏卵とよく合う。うん、辛子もいいアクセントだ。乾いたパンに沁み込んで、食べやすい」

 瞳を伏せて噛み締めて食べる薬研氏の隣で、許可の出た門田さんも遠慮気味に口にした。一口食べて、彼も満足そうに俺に笑いかけた。

「本当に。大変美味しゅうございますね」

「ふむ。青豆のスープも美味い。青臭さを感じずに、牛乳とバタでまろやかに喉を通る。青豆は、実はあまり好物ではなかったが……不思議に、これなら食える」

「青臭いものは、塩を多めに使うといいんです。干し青豆を茹でる時に、多めの塩を使いました。ですから、味付けはバタに入っている塩だけです。風味は、よりまろやかにしてくれる牛乳です」

 干し青豆は、茹でてからすり鉢で擦ってペーストにした。それを、牛乳に混ぜてスープにしている。綺麗な緑色だ。この時代、干し青豆でこんなスープを出すのは、限られた店でしかないんじゃないのかな?

 

 説明する俺に頷きながらも、薬研氏と門田は料理を綺麗に完食した。


「美味かった、御馳走さん。これなら、安心して食堂は任せられそうだ。では、儂はそろそろ長屋の買い取りに行ってくる。食堂の手入れの手配もしなければならんしな」

 満足そうに腹を撫でてから、薬研氏と門田さんは立ち上がり家を出た。長屋の皆は、馬車に乗る彼らに深々と頭を下げていた。


「あの、薬研様。どうして、こんなに俺達によくして下さるんですか?」

 俺は、一番謎だったことを尋ねてみた。どう考えても、俺達に得な事ばかりだ。薬研氏は彼の息子が乗る馬車の警護の馬に蹴られただけの俺に、どうしてここまで世話をしてくれているのだろうか。二十円も慰謝料をくれて、普通ならそれで終わったはずだろう。

「それなら、尊に感謝すると良い」

 馬車の窓から俺を見下ろす薬研氏は、彼の別の息子の名を口にした。俺は整った顔立ちの、人懐っこいが大人びた尊さんを思い出した。

「尊が、恭介は大物になるから先行投資をするのが良いと言ってきた。まぁ、今なら俺もそう思う。期待しているぞ」

 薬研氏の、その言葉を残して馬車は走り出した。


 薬研尊。彼はコロッケを大金払って買ってくれた上に、俺の将来を期待してくれている――俺はおっかさんとしのの他に、大切な恩人が出来た。


「兄ちゃん、約束!」

 馬車が消えた途端、しのが思い出したように声を上げた。そう言えば、サンドヰッチを食べさせる約束をしていたな。

「一個ずつになるんですが、皆さん食べませんか?」

 俺は、先ほど薬研氏たちに出した残りのサンドヰッチを半分に切って、見守ってくれていた長屋のみんなに声をかけた。


「これは美味い!」

「洋食かい。珍しいねぇ」

 皆は一口分のサンドヰッチだったけど、食べて笑顔になってくれていた。


 そう。彼らのこの笑顔の為に、俺はこれからも頑張ろう。おっかさんとしのと――尊さんの為に!

(※一畝は、三十坪ほど。六畳の部屋十部屋分くらい)

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