交渉にはたまごサンドヰッチと青豆のスープ・上
今日は、起きてから急がないといけない。おっかさんに頼んで来てくれることになった客が一時に来る前に、支度を終えておかなければならないからだ。幸い、尋常小学校は今日は休みだった。
何時ものように簡単な朝飯を済ませると「待ってよぅ」とぼやくしのの手を引っ張り、店が開く時間になると走る様に買い物に向かった。
食パン、朝取りの新鮮な卵、牛乳、バタ、新しい菜種油。これらが、今日の客をもてなす為に絶対に必要な食材だった。
この時代アンパンが出来たのと同じくらいに国内でビール酵母でパンを作る製法が出来て、食パンとアンパンがパンを表す代表的な言葉になっていた。でも今回は、食パンを使う。
「今日は何を作るの?」
不思議そうなしのに、俺は風呂敷に包んだ買い物を落とさないように気を付けながら笑い返した。
「卵のサンドヰッチと、青豆のスープだよ」
しのは、少しきょとんとした顔をしていた――そうか、もしかしたらサンドヰッチを知らないのかもしれない。
「食パンに、食材を挟んで食べるんだ。余ったら食わせてやるから、楽しみにしてな?」
「うん!」
食いしん坊のしのらしい、素直で明るい返事だった。
まだ、おっかさんが寝ている時間だ。俺達はなるべく静かに準備を始める。時間がかかるから、仕方ない。何故時間がかかるかと言うと――マヨネーズを作る為だ。
この時代、まだマヨネーズは普及していない。俺も正確に覚えていないが、マヨネーズが知られるのは大正時代になってからだったと思う。
洋食の作り方が書かれた本でこの時代のたまごサンドヰッチの作り方を見たが、茹でた鶏卵を荒く切り辛子を混ぜて、バタを塗った食パンに挟んだだけの簡単なものだ。
マヨネーズを作るなんて、この時代の日本の時代に合わないものだと分かっていたが――あの人は洋食が好きそうだし、西洋のソースの一種だと何とか誤魔化そう。今日の俺は今使えるお金の中で、作れる目新しい料理が必要だった。
今回の交渉には、俺達長屋の人間の未来がかかっている。と、頑張る事にしたのだ。マヨネーズにこの交渉はかかっている、と言ってもおかしくないのだ。
しのに干した青豆を水で戻して貰っている間に、俺はまずマヨネーズを作る準備をしていた。本来なら乳鉢で作るのだがこの時代で簡単には見つからず、すり鉢で作る事にした――うまくいくだろうか。若干の不安はあった。
マヨネーズは、仏蘭西が発祥とされている。洋食の基礎は、大概仏蘭西か伊太利亜だ。現代でアルバイト中に実践的な料理と共に、軽くその料理の歴史も叔父さんに教えて貰っていた。サンドヰッチと言えば、英吉利のサンドヰッチ伯爵を思い浮かべる人が多いと思うが、歴史的には古代ローマあたりまで遡る位古い。
勿論、調理法はその時代により違う。調味料や食材が、その時代にあるものに限られるからだ。しかしそれよりも、俺はこの時代に来て初めて使ったすり鉢の有能さに驚いた。一人で使うには少々不便だが、俺の傍にはしのがいる。だから、これは俺達の絆で使える大切な品物だ。
「さて、しの。マヨネーズを作るぞ、手伝ってくれ」
「まよねぇず……?」
不思議そうな顔のしのが、首を僅かに横に傾けた。
生卵には、サルモネラ菌という食中毒になる菌が付着している事も多い。でも注意すれば安心だ。実は、たまごかけご飯は江戸時代からあるらしい。最初の頃は炊き立てのご飯に混ぜて蒸したものなので、現代の俺から見たら『たまごかけご飯』と呼ぶものとは別物に近い。俺の知るたまごかけご飯を最初に食べたのは、岡山県生まれの岸田吟香という日本初の従軍記者で後には実業家となる人だ。彼はご飯に生卵と塩と唐辛子を混ぜた、鶏卵和をこの明治時代に作り出していたんだって。
俺は価格が高い朝取りの鶏卵をわざわざ買いに行き、用心しながら割った。殻が中に入らないように、中身は殻を触った手で触れないように気を付けて。二個分の卵黄をすり鉢に割入れてから念のため十分に手を洗うと、塩と菜種油、酢を用意する。
「俺が混ぜるから、しのはすり鉢押さえてくれないか?」
「分かった」
手作りマヨネーズは、叔父さんの店でも作っていた。レモン汁を使う時もあったが、酢でも大丈夫だ。卵黄の入ったすり鉢に、塩を二つまみ位、酢は匙に一杯と少し入れて、ゴリゴリと混ぜる。分離していたそれらがもったり合わさってきたら、徐々に菜種油を入れていく。
乳化、という作業だ。元々水と油は混ざらない。酢と油は混ざらないので、しっかりゆっくり混ぜていると乳化という現象が起きて、本来混ざる筈ない水分と油が一時的に混ざるのだ。科学的にはもっときちんとした説明があるのだろうけど、俺はそんな風にしか覚えていない。
湯飲み一杯ぐらいの油を、ゆっくり少しずつ入れながら俺は根気よく混ぜていく。ボトルがあればそれを振れば出来る。ホイッパーがあればそれで混ぜる方が早いだろう。しかし、この時代の庶民の家にはそんなものは無い。俺はしのと協力して、すり鉢でマヨネーズを作る。
「よし、こんなもんかな?」
オリーブオイルを使わず菜種油を使ったので、少し黄色みが強いように感じる。俺は擦り棒についたマヨネーズを指ですくって舐めてみた。
――うん、俺が知っているマヨネーズと変わらない。ほとんど計量せずに適当に作ったが、案外ちゃんと出来るもんだな。
「ねえ、ねえ!」
俺がしみじみと感心していると、しのが俺の着物のお袖を引っ張った。
「あたしも! あたしも舐めたい!」
食いしん坊らしい言葉に、俺は小さく吹きだした。それから、同じようにマヨネーズをすくって、しのの顔の前に指を差し出した。
「――んー!」
それをすかさず舐めたしのは、驚いた顔から嬉しそうな顔へと表情を変えた。
「お酢が入ってるのに、あんまり酸っぱくないね! 鶏卵の甘さとか少し感じる塩気も美味しい! これは、洋食のそーすと同じもの?」
「ああ、そうだよ、これに、具を混ぜてサンドヰッチを作るんだ」
俺の話を聞いていたしのは、嬉しそうにニコニコと笑っている。
「やっぱり、兄ちゃんの料理はすごい! 今日は、絶対成功するよ!」
たまごかけご飯参考
岡山県美咲町:https://www.town.misaki.okayama.jp/contents/tamagokakegohan/
岸田吟香:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E5%90%9F%E9%A6%99
一般社団法人 日本たまごかけごはん研究所:https://www.japan-tkg.jp/column/2022/09/%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%94%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%94%E3%81%AF%E3%82%93%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/