涙でしょっぱい芋粥・上
「……兄ちゃん……目、覚めた?」
ゆっくりと体を揺らす感覚に、俺は無意識に瞳を開いた――が、眩しかった。俺は一度開いた瞼を、またぎゅっと閉じた。それに、寒い。
「兄ちゃん! 兄ちゃん、起きた!? おっかさん、兄ちゃんが起きたよ!」
まだ幼い女の子の様に、少し甲高い声だ。俺を揺さぶりながら、大きな声を上げる。しかし、本当に寒い――凍える様に寒かった。俺は自分に掛けられている、布団のような薄っぺらい布にくるまった。
「しの、恭介は起きたのかい?」
そこに、大人の女の声が聞こえてきた。知らない二人の言葉に、俺はようやく再び瞳を開いた。
「は?」
そこで目にした光景は、ただ驚きとしか言いようがなかった。
……十歳くらいの、明るい髪を三つ編みにした女の子。随分着古した着物を着ていて、ハーフのように見える可愛らしさがある。
その隣には、赤い襦袢に紫の派手な着物を着崩し、煙管を咥えた女。二十代前半ほどか、長い黒髪を肩の上でまとめた姿は、妙に色気を漂わせていた。
そして、時代劇か何かで見たような古い日本家屋に古い和箪笥に長火鉢――まだ寝ていて夢を見ているのか? と、思ってしまっても仕方ない。
その時、妙なタイミングでどこかから『ボーン』と音が響いた。
「昼だね。大方、腹が減って目が覚めたんだろ。しの、恭介と一緒に飯食っときな。あたしは、今日はお座敷行くから用意しなくていいよ」
「はい、おっかさん。気をつけて」
しのと呼ばれた女の子はそう返事をして、女に頭を下げた。女は、気怠そうに煙管の煙を吐きながら部屋を出た。どうやら、隣の部屋に行ったらしい。
「兄ちゃん、痛い所とかない? 三日も目を覚まさないから、おっかさんもあたしも心配してたんだよ」
待て。時代劇の夢か? 混乱しながらも、腹の音に押されて身を起こそうとして――腕を見て息を飲んだ。
縮んでる……? いや、そんなまさか……
「あ、あの、しのさん。鏡ない!? 俺、どうかなった!?」
慌てて声を上げた俺に、しのと言う少女はびっくりした様に瞳を丸くする。しかし、慌てる俺が「鏡」と連呼しているので、小和箪笥の引き戸を開けてそこから古びた手鏡を取り出した。
「兄ちゃん、これ」
そう言って差し出してくれた手鏡を慌てて受け取ると、俺は絶句した。
鏡に映っているのは、しのという少女と変わらない年頃の少年がいた。金に近いような薄い茶色の髪は、柔らかそうなウェーブを描いていて寝ぐせが付いている。瞳は色素が少し薄く灰色に近い色。悔しいことに、俺の子供の頃よりも――いや、比べものにならないほど将来有望そうな容姿。俺もしのの様な、着古した着物を着ていた。
――これは、夢だ。いや、そんなまさか……
手鏡をしのに渡すと、俺は自分の頬を引っ張ってみる。痛い。夢ではない。
「兄ちゃん、変だよ? やっぱり、頭打ったの?」
そんな俺の様子に、しのは心配そうな声音で尋ねてきた。
「俺、三日も寝てたのか? なんで?」
取り敢えず、現状を理解するために俺はしのに尋ねる。
「尋常小学校の帰り、広い通りを歩いてた時に、軍の馬車を護衛する馬に蹴られたのを覚えてない? 兄ちゃん、すごく飛ばされて、近所の人に家まで担がれて来たんだよ。お医者さんに診て貰ったけど、怪我はしてないって言われたのに」
は?
「え……ごめん、何の帰りって?」
「え? 尋常小学校だよ。あたしと帰ってたじゃない。もうすぐ十になるから、尋常小学校もあと少しだって話してたじゃない」
尋常小学校? 教科書で習った単語に、俺はゴクリと喉を鳴らした。
「なあ、今は令和四年……だよな?」
「れいわ? 何それ。――今年は明治三十九年になるんだよ」
夢なら、冷めてくれ。まさかこれが、よく漫画で見るタイム・スリップとかいうやつなのか?
「ごめん、しのさん。俺頭が今ゴチャゴチャしてるんだ。俺の名前は? 君と、さっきの女の人と俺との関係って何?」
俺の言葉に、しのは心配した顔になった。俺の容態が悪いと思ったようだ。
「兄ちゃんは、蕗谷恭介。明治二十九年二月三日生まれで、あたしの双子の兄ちゃんでしょ。さっきのは、あたし達のおっかさんのそよ。本当に、どうしちゃったの?」
しのは不安そうな顔をして、大きな瞳からボロボロと涙を流した。
――恭介って、誰だよ。
俺は途方に暮れたように、頭を抱えるしかなかった。