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想ひ出のアヂサヰ亭  作者: 七海美桜
六膳目
18/66

めでたい誕生日に美味しいカツレツを・中

 俺は、買ってもらった包丁が入ったおっかさんの風呂敷を抱き締めて、ニコニコと満面の笑みを浮かべて席に座っていた。刃物屋を出た後、お昼は遅くなったので外で食べて帰ろうと、近所の蕎麦屋に入ったのだ。

 俺とおっかさんは、カレー南ばん。辛いのが苦手なしのは、おかめ蕎麦を頼んだ。この頃はカレー粉が庶民にも広まり、蕎麦屋でもカレー南ばんが人気になっていた。この時代のカレーものを食べるのは、初めてだった俺なのだが……。


「どれ位、辛いの? 兄ちゃん、少し頂戴」

 包丁の入った風呂敷をまだ抱き締めたままの俺の着物を、しのが引っ張る。そこで俺は、ようやく現実に戻った。今は珍しいカレーよりも、買ってもらった包丁に俺は浮かれていた。


「あ、ああ。いいよ、好きなだけ食えよ」

「兄ちゃん、よっぽど嬉しいんだねぇ」

 おっかさんは、小さく微笑んだまま俺達のやり取りを眺めていた。カレーの香りを含んだ湯気越しに、おっかさんはどこか嬉しそうに見えた。

「でも恭介、その包丁でよかったのかい? 三徳(さんとく)包丁? ってのは、あたしは初めて聞いたよ」

 俺が選んだのは、この頃に流行りだした三徳包丁だ。野菜、肉、魚。どれでも不便なく切ることが出来る、便利な包丁だ。肉切りや野菜切り、魚切りなど包丁の種類は多い。だけど家庭で使うなら、これ一本で十分だ。それに、研ぎ石も買って貰ったので切れ味は何時も万全に整えられる。

「うん、一杯あっても邪魔になるからさ。これなら、何でも切れるんだよ!」

 俺が遠慮しているのかもしれない。と、おっかさんは思っていたのだろうか。おっかさんは、店に並んでいた包丁の種類の多さに、少し驚いていたような顔をしていた。おっかさんは本当に、家事は苦手なようだ。

「昔は、野菜切る包丁と魚を()ろす包丁だけだったけど……今は家庭でも、牛や豚も切る事が多くなったらしいね。本当に、どんどん便利な世の中になるねぇ」

 おっかさんの仕事先でもあるお座敷で出される料理も、どんどん洋風なものが増えているのだろう。そう、文明開化の名残りを感じる。これから日本は、急速に発展する――同時に、俺が恐れている軍事国家となっていく……。日露戦争があったように、戦争が次々と始まる。


「辛いっ!」


 俺の蕎麦をすすったしのが、小さく声を上げた。その声に、俺は不安になりそうな思いを断ち切って、隣で舌を出しているしのを見つめた。今は、まだ先の事を心配していても仕方ない。隣で泣いている妹の方を、優先しなくてはいけないようだ。

「そんなに辛くないよ。ほら、お茶を飲みな」

 呆れたようなおっかさんが、しのにもう冷めたお茶の入った湯飲みを渡した。しのは涙目になりながら、その湯飲みを受け取った。

「多分辛さの先に美味しい所があるんだろうけど、辛くて我慢できないよ。おっかさんも兄ちゃんも、よく平気で食べれるね」

 お茶を飲んだしのは、頬が僅かに赤くなっている。俺は汁を吸ったが、普通のカレー南蛮蕎麦だ。だが、カレー粉を出汁に溶いただけらしく少し尖った味がするような気もした。

 よくよく考えてみれば、今まで家での食事は唐辛子的な辛いものはほとんど出した事が無かったな。良かったと思うと同時に、これからはしのの為に気を付けようと思い直した。


「でも、おっかさん。今日はこんなにお金使って……大丈夫だった?」

 俺は、そっちの方が心配だった。心配そうな顔をしていたのかもしれない。おっかさんは、俺を見返してにっこりと笑った。

「まだまだあたしの人気はあるんだよ? まぁ、若い頃より少しは人気が落ちたかもしれないけどね。心配しなくても、数日仕事に行けば今日の支払いの分はちゃんと稼いでくるよ」

 確かに、今日はどこの店でも「よひら姐さん」と優しく声をかけて貰っていた。おっかさんは、俺が心配するより芸者の仕事を楽しんでしているのかもしれない。それに、俺が馬に蹴られた時の慰謝料もあるもんな。


 俺達は遅めの昼飯を食べると、仲良く並んで長屋へと帰って来た。と、その長屋の前で洋装の男とまつさんが話しているのが見えた。

「あ、そよさん!」

 俺達に気付いたまつさんが、大きく手を振ってくる――よく見れば、洋装の男には見覚えがあった。薬研(やげん)家の執事の門田さんだった。

「よかった、お宅にお客さんだよ」

「お出かけで忙しい時に、連絡もせず伺ってしまい申し訳ございません」

 手に何かの包みを持った門田さんは、深々と頭を下げた。「すみませんでした」とまつさんに礼を言うと、彼女は「気にしないで」と笑って隣の家に入って行った。

「何か――先日、ご無礼を……?」

 おっかさんの後ろで、俺としのは並んで立っていた。おっかさんの不安そうな声音に、門田は慌てて首を横に振った。

「いえいえ、違います。実は、(たける)様から恭介様としの様への贈り物を預かって参りました」

 その言葉に、俺達はぽかんとした顔になる。

「明日は、お二人の誕生日と聞きました。おめでとうございます」

「はぁ、ありがとうございます」

 おっかさんも戸惑いながら、門田さんに礼を言った。すると彼は、手にしていた包みをおっかさんに差し出した。

「これで明日は楽しいお食事をしてほしい、と。尊様より、そう言付(ことづ)かっております」


 もしかして、また食材!?


 俺は、おっかさんが受け取った包みの中が気になって、ドキドキした。

「それでは、私はこれで失礼いたします。どうぞ、明日はよい日でありますように」

 門田さんは丁寧に礼をすると、道の端に止まっていた馬車へと向かって去って行った。

「お金持ちは、風変わりだねぇ。わざわざ、誕生日を調べたのかい」

 おっかさんは、包みを手に首を傾げた。

「ま、とにかく一服しようじゃないか。あたしは仕事に行く用意もあるからね」

 おっかさんの言葉に、俺達も一先ず家の中に入った。

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