華族の薬研家! 牛鍋をご一緒に・下
参考文献:日本ビアジャーナリスト協会 (www.jbja.jp/archives/33532)
「よう来たなぁ。ま、座りなさい。お前たちも、さぁ」
馬車に乗って連れて来られた店は、着古した着物姿の俺達きょうだいが場違いな程現代的なロマン風な店だった。店にある時計は、もう午後二時前を指していた。
この店に来ているのは、大半が洋装の上品そうな男女ばかりだ。案内された個室にも、立派な髭を整えた洋装の男が座っていた。年の頃は、四十後半から五十前半に見えた。細身だが、しっかりとした体格の男だ。そよをにこにこと眺めて、俺らにもそう声をかけてくれた。言葉に、関西風のなまりがあった。
「お邪魔します――あんたたちも、行儀良く座りなよ。薬研様、今日は息子の為にありがとうございます」
先ほどの態度と違い、深々と頭を下げてからそよは男の向かいの椅子に腰を掛けた。俺としのもそれに倣ってから、そよの隣に座る。尊は、多分父である薬研と呼ばれた男の隣に座った。
「うちが悪い事で、しかも謝罪が遅うなった。儂が名古屋に行ってる時に事故に遭ったみたいで、それを知ったんが遅くなったんや。しかし、無事で安心した。本当にすまんかったな、坊主」
愛想が良いのは、商売人だからかもしれない。俺が無言で頷くのを見てから、薬研は女中さんを呼んだ。
「エビスビールと、牛鍋を人数分頼む――よひらも、飲むかい?」
「いえ、今日は子供もおりますので」
よひらは、日本橋で芸者をしているそよの源氏名だ。花びらが四枚ある事から、紫陽花の事らしい。おっかさんは、紫陽花が綺麗に咲いた頃に生まれたんだっけ。「かしこまりました」と、女中は奥に入って行った。俺はその後ろ姿を追いかけたくなった――勿論当時の厨房を、純粋に見たかったからだ。
しかし、ビール……しかも、もうエビスビールがもうあったのか。俺はビールの歴史には、詳しくなかった。
「薬研様、ビールは外国のものじゃないの?」
俺は思わず、そう尋ねてしまった。そよが驚いた顔をしたのが、後で妙におかしかった。
「ん? 坊主は確か――恭介か。ビールを知ってるのか? 徳川将軍の時代に阿蘭陀から仕入れていたんだが、明治になると我が国でも作り始めたんだよ。明治十年ごろに、開拓使麦酒醸造所がサッポロビールを作ってから色んな会社が作り始めたんだ」
この頃から、もう北海道に札幌という地名があったのか。俺は興味深げに、うんうんと頷いた。サッポロビールに続いて明治二十一年にキリンビールが出来て、明治二十三年にはエビスが出来たそうだ。
「エビスは恵比寿様を看板にしてるんや」
自慢げにそう語る薬研氏は、同じ商売人として誇らしく思っているようだ。
「父さん、もうそれぐらいにしておきなよ。今日は、恭介に牛鍋をふるまって謝る日だよ」
「すまんすまん、恭介が真剣に聞くからつい話したくなってな。恭介は、ビールか商いに興味があるのか?」
「いえ……その、料理が好きで……」
確か昔は孟子の言葉から、『男子厨房に入らず』と言われていた気がする。もしかすると、料理が好きだなんて恥ずかしい事なんじゃないか? と思って、声を小さくしてしまった。
「恭介ならいい料理人になるよ、父さん。俺は、恭介が作ったコロッケを食べた。とても美味しかったよ。恭介には、きっと洋食の才能がある」
「尊が食べたのか? そうか、料理人になりたいのか。いいな、良い夢だ。これからなら、コロッケの様な洋食を作るといい。いい息子をもったな、よひら」
思ってもいない言葉を言われて、俺は少し驚いて薬研親子を見返した。確かに、むしろ明治である今は料理人に男は多い筈だ。おかしな事ではないのかもしれない。
じゃあ、俺は明治時代で料理人になる夢も持ってもいいのか?
俺がそう考えている間に、ビールが運ばれてそよが薬研に酌をしていた。そうして、良い匂いがして女中が揃って牛鍋を持って来た――じゅうじゅうという音に、辺りに漂う出汁と味噌と醤油の匂い。
熱々の鉄鍋に牛脂を押し当てて溶かして油を塗った所に、葱と大きめに切った牛肉。割り下は、醤油が多めで味噌に砂糖だろう。
「すみません、よければ味付けを教えて頂けますか!?」
「まあ、坊ちゃんは珍しいことを聞かれますねえ」
「味噌は少し赤いような気がするんですけど、もしかして赤味噌ですか?」
俺は運んできて下がろうとした女中を追いかけて、丁寧に聞いた。しかし気がつけば次から次へと質問がこぼれてしまう。女中は最初こそ驚いた様子だったが、料理の話だったことが嬉しいのかきちんと答えてくれた。
赤味噌を使っていることと、カツオ出汁にみりんも入っている事が分かった。牛鍋の味付けを詳しく知らなかったので、勉強になった! すき焼きの元と言っても、やっぱり調理法が違うんだな。
「ほらほら、作り方は何時でも聞いてあげるから熱いうちに食べなさい」
熱心な俺に、薬研氏は笑って席に戻るように促した。隣では、クスクスと尊が笑ってる。そよとしのは俺の行動に、少し驚いているようだった。どうやら本物の『恭介』は、こんな大胆な事をしない性格だったのかもしれない。
俺は「ごめんなさい」と言ってから、席に戻った。そうして、箸を手にする。熱々の鍋から漂う、空腹を刺激するいい香り。牛肉の匂いは、俺に少し現代を思い出させた。ふぅふぅと息を吹き、肉を口に入れる――口の中で溶ける肉の油が、美味い!
俺は、感激して咀嚼もほどほどに飲み込んでしまった。少し厚めの肉は、噛み応えがあり少し肉本来の油も感じる。赤身と脂身が良いバランスの部位だ。きっと薬研家の為に、良い所を使っているんだろう。味付けも出汁を使っているのでしょっぱさを強く感じず、肉に合ういいバランスの味付けだった。赤味噌が、肉の臭みを消している。
しかし俺なら――少し酒で肉を揉んでから、使っていたかもしれない。俺の時代の肉より、肉を強く感じる強い味だったからだ。葱も、僅かにシャキシャキ感が残っていてアクセントでちょうどいい。
「恭介、良かったら飯も食べないか? 牛鍋に合うぞ」
必死に食べている俺に、尊がそう話しかけてきた。
「はい、食べたいです!」
この強い味付けには、絶対にご飯が合う。俺は条件反射で、そう返事をした。俺の食べっぷりを笑っている尊は、先ほどの女中さんに飯を頼んだ。すぐに出てきたのは、まさかの白米!
俺は残っている肉と葱と汁をその飯の上に乗せて、即席の牛丼を作った。そして、ガツガツと腹に収める様に食べる。お昼が遅くなって、腹が減りすぎていた俺には我慢できなかったのだ。
そしてなりよりも、久しぶりに食べた肉の満足感!!
「ははは、良い喰いっぷりだ。沢山食べなさい」
「恭介、誰も取らないからゆっくり食べろ」
薬研氏は笑い、少し顔が赤くなっているそよが注いだビールを一口飲んだ。尊も、にこにこと俺を見ている。
「兄ちゃん、本当によく食べるねぇ」
しのが、感心した表情でそんな俺を眺めていた。




