晴れやかで素晴らしい一日と猫耳帽子
勝負の前に、すでに勝敗はついているものだ。
――と、そう思ったのは間違いであると強く痛感させられ、自尊心やプライドを打ちのめされた男というものは、女々しいほど大人しくなるものであるらしい。
彼は一時、いつもの張りの良い怒鳴り声すら霞んで、つい、しおらしい囁き声で「ああ」だとか「分かった」とばかり答えていた。もう、それ以上言葉は出てこないでいたせいだ。
素晴らしいほどの秋晴れは、東京を中心に全土に広がっているようだった。夏の暑さはほのかな陽だまりのようで居心地がよく、せかせかと足を交互に踏み出す通行人の間にも、自然と穏やかな雰囲気すら漂っているようにも思える。
素敵な午後だ。二時過ぎに硝子張りの喫茶店に入り、珈琲や紅茶と一緒に甘いケーキをつまみつつ、ゆっくりとした時間を過ごしている人間は、なんと贅沢な事だろう。
三十歳の相沢もまた、呑気な表情を浮かべて、他の客達と同様に幸せそうだった。店内にいる、ただ一人のとある人物を除いて、そこにいた八人の客達は、揃って外の日差しに幸福そうな笑みを刻んで目を細める。
「いい天気ですねえ。ここ最近は嵐も来ないですし」
ねえ先生、と続けられた眞純潤一郎は、どんよりとした目を少しばかり上げた。
「――陽気な秋が憎たらしい」
眞純の口からもれた呪いの吐息が、目の前のケーキを腐らせてしまうのではないか、と言わんばかりにテーブルを這う。
それを聞いた相沢は、ちょこっとばかり顔を顰めて、それからこう言葉を続けた。
「先生、しっかりして下さいよ。ほら、清々しい青空は、先生が好きな釣り日和だし、このレアチーズケーキも、すごくお好きなものでしょう?」
「確かに私は釣りが好きだ。そしてこのケーキも、この店がオープンした五年前から、本当に好き『だった』」
眞純は、つい過去形で語り、身体を震わせて「ぐうぅ」と呻ってしまっていた。
一見すると、その様子は、中肉中背の白髪が生え始めた五十歳が、目の前にある美味しそうなケーキを、食おうか食わないか苦悩しているように見える。
だから店内の客達は、それを不思議そうに見やるのだが、今の眞純には、呑気な顔をした彼らが、いかにも不審そうに眉を寄せて「何あれ……」という表情を浮かべているようにしか思えないのである。
疑心暗鬼の連続だった。家を出た時から、眞純は全ての人間が、次のようにして自分を悪く噂しているような錯覚にまで悩まされている。
「そういえばあいつは作家駆け出しの時に、スクランブル交差点で派手に転んだ奴じゃ」「実は二十才から白髪に困っていて、黒染めが手放せなかったんだって」
「あれ作家の※※大先生でしょ? 変な性癖があるって本当かしら」
自分のただの、被害妄想の産物の台詞である。
それは、眞純自身も理性ではきちんと解かっているつもりだった。
選考委員も務めるようになった眞純は、確かに若い時にスクランブル交差点で派手に転倒して救急車を呼ばれた事もあった。増え始めていた若白髪に困って、高校時代から黒染めを使用している事もあるが、週刊誌でいうような性癖や持病は持ち合わせていない。
そして、自分は決して癇癪持ちなどでもないのだ――とは、自ら主張している事である。
眞純は、決して臆病な性格ではなかった。新人であった時代もそうだが、周りを気にしない男であった。
プライドが高く、欠点がない事を全て確認して常に堂々としていた。娘が反抗期に入って手に負えなくなっても、「だからどうした」というのが、四十代の頃の口癖だったくらいだ。
くそっ。
眞純は、本日もう何度目か分からない己の醜態に俯いた。なんでこいつは平気なのだ、と、相沢に対して強い疑問が浮上するばかりである。大手出版社の新人だった彼とは、もう六年の付き合いになるのだが、未だに彼の性格や気質を把握出来ないでいる。
凹凸のない百七十センチの身体に、少しふっくらとした顔。細い髪質で、入社当時から張りがなく、その下にある顔には、印象の薄い小さな目と口が、とってつけられたようにあるばかりである。
そんな相沢はマイペースで人の好きそうな表情が常で、ドジを踏んでいる本人が気軽なばかりで、よく周りを苛ただせる男だった。
相沢は足元を見ない性格なのか、よく転ぶ。
それは、空き缶だったりバナナの皮だったり、ちょっとした段差だったり機械のコードだったり、時には人間だったりする。
それでも喜怒哀楽が少ない訳ではなく、素っ頓狂にびっくりした表情もするし、ある時は上司の命令に「え~……」と心底嫌そうな顔をしたりもする。まぁ、それはそれで至って失礼なのだが、相沢にとって、それは『眞純大先生』であろうと変わらないのだ。
だというのに、彼は全く何も言ってこないでいる。
その現状が、眞純は信じがたい。
上下関係やら常識やらで塗り固められた人間は、対応に困った時、とりあえず巻き込まれないように無視する事が相場となっているものだと、眞純は思っている。誰もが視線をもらし、見て見ぬ振りをしつつ、そそくさと退場するのだろう。
視線が合わない。――というより、眞純は怖くて視線を合わせられなかった。
だから実際、この東京に集まっている何万人という人間のひしめく中で、自分がどういう状況に置かれているのか考えるばかりで、眞純は『その反応』を実際に自分の目で確かめられないでいた。
きっとそうなのであろう、というお得意の常識を持って考えていたから、待ち合わせ場所に相沢が来て「先生!」と真っ直ぐに見つめて駆け寄って来た時は、うっかり感動した。
相沢は、打算や取り繕う事を知らない男である。眞純は彼の視界の中心に自分がいる事に安堵しつつ、彼の反応を待った。しかし、相沢はいつものように「打ち合わせの場所に行きましょうか」と言い、「そういえば昨日作ったガンプラが」と、眞純にとってどうでもいい彼の趣味を相変わらず熱く語り、現地につくと、例のケーキを注文して窓際に席についたのだ。
その間、眞純がそれとなく自分のあるところに注目させようと話題を振っても、無駄だった。そして、今に至る。
回りくどいと、相沢は気付かない事であったと思い出した眞純は、なんて奴だとぶるぶると震えた。いつも彼によって困らされている、付き合いの長い編集者の気持ちをようやく理解できた気がする。
とうとう我慢出来なくなって、眞純は「チクショー」と顔を上げると、あるところを指して相沢に怒鳴った。
「明らかに、この辺りがおかしいだろうが!」
「へぁ? なんなんですか、いきなり?」
だから私のファッションだ、と眞純は訴えたが、どうも『ファッション』という言葉がすんなりと口から出て来なかった。職業柄か、頭には平仮名の『ふぁっしょん』が浮かんで、そのようなイントネーションだったと評してしまう。
そういえば、派手な格好をするようになった娘に『スタイル』やら『ファッション』やらカタカナを使われるようになってから、嫌悪感が込み上げて口に出来なくなっていた事を思い出した。そのせいだろうと推測して、彼は頭をかきむしった。
娘は中学生になってから、髪を伸ばし始めた。ウェーブの入った栗色の髪をした母親を羨ましがり、携帯電話を持つ頃になると、すっかり眞純の知らない言語を話すようになった。
どうやら妻には通じているようだが、私には全くわからんぞ、と眞純は顰め面で唇をへの字にする事も増えた。しかも、彼女は一年生の夏休みから、綺麗な黒髪を栗色に染めていた。
そこまで短いスカートの女子高校生があるもんか、と怒鳴った事もあった。正確に言えば、怒りが噴火した初めての大喧嘩で放った言葉だった。すると、娘は若い頃の妻に似た美しい顔で、しらっとこう答えたのだ。
『こんなの普通ですけど。つか、ダサい』
十歳年下の妻は、四十でも若作りなのだが、まるで青春時代を日々送っていた彼女に言われているようで、眞純は「ぐっ」と言葉を詰まらせてしまったものだった。
現在は近くの短期大学に通っている娘は、自分の美しさを充分に自覚しており、それを際立たせるような派手なファッションで、都会のど真ん中のアパレルショップでバイトをしている。
東京には色々なタイプの人間がいるものだ、と眞純は自覚しているつもりだ。きっちりとスーツを着こなした者もいれば、明らかにパジャマと思われる服を着て、寝ぼけ眼で近くの店に入る強者もいる。
上品な服をきこなす妻のような婦人もいれば、一体それはなんだと目を見張ってしまうほどのゴージャスなマダムだって多い。老若男女様々だし、時代を映り変わるごとに『ギャル』だの『ガングロ』だの『オタク』だのといった言葉まで流行するが、――
しかし、しかし私は――、と眞純は思うのである。
「こんな事はありえない」
まるで泣き声を震わせるような、低く押し殺したそ呟きを聞いて、相沢が「大袈裟だなあ」とほんわかな笑顔を浮かべた。
眞純は、目の前に並べられた珈琲とレアチーズケーキを見つめていたから、彼の表情を目に留めて確認した訳ではなかったが、その気配から、現在浮かべられている表情を長い付き合いで読み取り、すぐさま奴をブン殴りたくなった。
「まあまあ、先生。落ち着いて下さいよ」
眞純の言いたい事にようやく気付いた相沢は、けれど変わらない様子で「そんなに変ですかねえ」と言う。
「まあ先生にしては珍しいと思いましたが、そうだったんですねえ」
そう呑気な感想を述べた彼の、爽やかな笑顔が憎たらしかった。眞純が忌々しく睨み付けると、奴は親指を立てて自信たっぷりにこう言い放った。
「大丈夫です、似合ってますよ! 僕もお揃いで買っちゃおうかなあ」
眞純は、途端に相沢がよく分からなくなった。まるで異人を見つめるようにして、じっくりと観察してしまう。そして、例の現在進行形の問題である、自分の頭の上の『ある物』指して尋ねた。
「……お前は、本当にコレが欲しいのか?」
「はい、欲しいですよ。一体どこに売ってるんですか?」
「…………コレが、本当に欲しい、だと?」
「可愛らしいじゃないですか。あちらこちらで見掛けた事があります」
「こんな物が、あちらこちらに売られているなんて見た事もないぞ!」
憤り立った眞純の頭上で、柔らかな生地で造られた【猫耳帽子】が、ふわふわと揺れた。
※※※
事は、先日の日曜日に遡る。
眞純は時間が合えば、今でも妻とのデートを楽しんでいた。それは買い物の荷物持ちや散歩、珍しい展示品巡りでも、なんでも構わなかった。彼は十歳年下の妻が大好きで、不器用ながらに傍にいたいと思っていたからだ。
百八十センチの長身に大柄な体格。決闘を挑むような武士の剣幕を横顔にたたえ、眉間や目尻、そして口元には強い頑固さを窺わせる深い皺を刻んだ彼――眞純潤一郎は、常に相手を威嚇するような顔立ちの男であった。
刺々しい口調で発言し、だんまりと腕を組む姿が板にはまっている。そんな彼の妻をはじめて見た者は、大抵ぎょっとする。
そんな彼の妻は、小柄でほんのりと花が咲いたような微笑みを浮かべている女性だった。初対面の人間にもすぐに好かれ、その笑顔は暖かく伝染していくように広がってしまうのだ。
いつまでも少女のように若々しく、ふんわりと花のコロンを漂わせる上品なスカートを着ている。長い髪は、細い背中に柔らかく流れていて、特に眞純の隣に立つと、始終幸福な笑みが絶えない女性だった。
眞純は、妻を心底愛していた。器用で料理が上手いばかりではなく――その美しい容姿に一目惚れした訳ではない――おっとりとした気性の中に、少女のような無邪気さを持っているところに惚れたのが始まりだった。
妻の好奇心は、いつまでも絶えず、最近は水上スキーやダイビングにも挑戦している。問題となったその日曜日も、眞純が誘うと喜んでくれて、すっかり天気の良い中で二人してゴルフへと出駆けたのである。
妻のゴルフの腕は平均的で、どちらかというとお茶目でミスもよくする、実に可愛らしい。しかし、ふわふわとした春の日差しのようなのんびりとした性格でありながら、なぜか運の良い、神様に愛されたような女でもあったのだ。
「ねえ、私が勝ったらコレ、つけてくれない?」
ゲームを盛り上げようと、またしても事前に忍ばせて持ってきたのか、妻がその【猫耳帽子】を取り出して、にっこりと笑ってそう言った。
勝負の前から買ったも同然だと信じていた眞純は、「ああ、いいよ」と気前よく言った。彼は妻の前だと、深い皺を柔和にする。
「じゃあ俺が勝ったら、君がかぶってくれるのか?」
「ええ、勿論よ。月曜日いっぱい、朝から晩までかぶるの」
「ほぉ。朝から晩までか」
どこから買って来たのか分からないが、まあよしとしよう。
その時も、やはり眞純は妻に対して寛大だった。いつの間にやら寝室に置かれていた巨大なテディーベアを、彼女が抱いて眠っているのを見つけた時も、思わず「可愛いなあ」とほっこりしてしまったほどである。
妻は眞純に細い小指を差し出すと、一番可愛らしい角度に小首を傾けて、まるで少女のように微笑んだ。
「約束よ。私が勝ったら、あなたが月曜日にコレをつけてね」
「分かった。男というものは、約束を守るものだ。俺が負けたら、君のためにソイツをかぶって、明日の打ち合わせも行ってやるさ」
「本当? 嬉しい!」
妻は両手を叩いて喜んだ。眞純はそれを見て、目元を和らげ「ああ、なんとも愛らしい妻だ」と、他の誰にも見せない穏やかな男の顔で笑ったのだった。
そして、勝負の行方はというと――
偶然としか思えない奇跡が、彼女のボールに何度となく起こって、早数時間後、眞純は完膚なきまでに妻に負かされていた。
※※※
月曜日の朝、茶色をしたその【猫耳帽子】を妻にかぶせられ、「まあ可愛い」と微笑みをもらって玄関から見送られたのは、数時間前の事である。
妻は非常に嬉しそうで、それでいて楽しそうだった。悪戯が成功した事を無邪気に喜んでいるようだった。
けれど眞純は、鏡の中の自分を見て絶句してしまった。愛しい妻の頭に、この猫耳帽子があるのを見たかったという願望を抱いた事に対して、神様が「コイツめ」と自分に罰を与えたのかというほどに不似合いだったからだ。
思い返せば昨日、彼女のゴルフボールが、入るべき穴へと吸い込まれるようにユーターンしたのを眞純は見た。湖に落ちかけたボールは、風に吹かれて止まり、大フライングした先に偶然カラスが通りかかってボールを跳ね返した。
中盤の勝負では、あと十センチというところでボールは止まったものの、眞純がほっとする暇もなく、そばにいた白い鳥が「なんじゃコレは」と軽蔑の目でボールを見やって、彼が「まさか」と思っていると、鳥が器用に足でボールを蹴り、そのまま見事にカップイン……――
「間が悪かったんだ」
今に至るまでを回想したところで、そう言って思わず項垂れた眞純を見て、相沢は「まあまあ」と明るい調子で励ました。
「ははは、その言葉だけ聞くと、うっかりよからぬ事を勘違いしてしまいそうですよね!」
「そんな三流小説なんて、あるもんか」
私は今、お前に事の始まりからを全部語っただろうが、と眞純が組んだ手を額に押しあてたまま言う。相沢は「まぁ、小説だったら端折って短縮する部分かな、と思いまして」と相槌を打つ。
相沢は、けれど感心した様子で、素直に従うなんて可愛いところもあるんだなあ、と口の中で小さく呟いた。気付かないまま項垂れている眞純に、「外では取っても平気でしょ、奥さんいないんだから」とアドバイスしても無理そうだと考え、「ケーキ、美味しいですよ」と自分の舌を打つ甘さを堪能した。
「でも、びっくりしましたよ、先生。この前の恋愛小説、すごく反響良かったですよ」
「あれくらいなら、私にも書ける」
「だって、いつも難しい感じの作品書いているじゃないですか。いやぁ先生って、意外とロマンチストなんですねぇ」
そこで相沢は、「くふくふ」と笑った。
「物語を彩るエピソードも良かったなあ。ウブな主人公が、動転して自転車で川に突っ込むシーンなんか、先生と重ねたりすると面白かったです。ほら、先生の場合は仏頂面だし、純真なんて言葉が思いつかないぐらい手厳しい人なんで、自分が川に落ちる前に『お前が落ちろ』と相手の女性に襲いかかりそうで」
「ぶっ飛ばすぞ」
「冗談です。あ、ケーキ追加注文しますか?」
「いらん」
甘い物を食べたあとしばらく、眞純は自分がかぶっている猫耳帽子の事を少しは忘れる事が出来た。何故なら、恋愛をテーマとした短編集の打ち合わせに、全部の意識が向いたからである。
二人が席を立ったのは、午後の三時四十分を回った頃だった。途端に眞純は、五十代の厳つい顔をしたおっさんが猫耳帽子をつけている様が思い出されて、必要以上に他人の目が気になった。
若い女性店員は、相変わらずの営業スマイルで、本物としか思えないほど暖かな微笑みを浮かべて「ありがとうございました」と見送るし、店を出る間際に店内を素早く見渡してみても、少ない客達の一人とも目は合わなかった。
いや、きっと皆心の底では笑っているに違いない。不格好な私を笑って、気付かれないようにそれとなく装っているのだ。私達がいなくなったあと、もっぱら私について笑い明かすつもりなのだろう。
眞純は、若造としか思えない年齢ばかりの客達を、店の外から睨みつけた。日中より増えだした外の人間の全員がそのように思えてきて、なんだか返って腹が立ったので喧嘩を買うつもりで表情を構えた。
「どうしたんですか、先生? 怖い顔なんかして」
「いつもの表情だろ」
「いーえ、先生は普段から仏頂面ですけどね、その仏頂面にも色々とバリエーションがあるんですよ。今は、ちょっと怒っている顔ですね。あ、大丈夫ですよ、先生。恥ずかしくありません。その猫耳帽子は、まるで先生の頭にフィットするように作られているみたいで、本当によく似合っていますから!」
「ぶっ飛ばすぞ」
眞純と相沢は、並んで歩き出した。人混みの雑踏は足早で急く靴音が溢れ、それぞれが自分の世界を忙しく動き回っているようだった。
どうしてこうも東京には人間が集まっているのだろうか、と眞純は思った。娘のような『今時のファッション』をしている若者の中に、大人びた真っ直ぐな視線を持ったスーツなどの正装を、ぎこちなく来た青年を見掛けて、ふっと目で追ってしまう。
愛嬌や甘さなんて通じない大人の世界に、夢を持って立ち向かうその姿は誠実だ。精一杯なひたむきさが眞純を惹きつける。
俺にもあんな時代があった。夢を追って上京し、そうやって皆、東京に集って来るのだろう。
くたびれて、いずれは忘れていた自分を思い出した時に、人は故郷へと帰っていくものだと眞純は思っていた。海に面した自分の出身地を、彼だってはっきりと覚えていたが、そこはもう今はない風景の中に閉ざされてしまっている。それは、過度に進んだ近代化のせいだった。
その時、ふと、眞純は「あれ見てみろよ」という耳障りな少年の声を聞いた。雑踏の中に視線が合い、にやけていた茶髪の二人組が、ハッとしたように身構える。
自分が置かれている状況を思い出した眞純は、威勢よく少年たちを睨みつけた。すると、彼らは慌てた様子で踵を返して、素早く人混みの向こうへと紛れてしまう。
またしても、誰もが自分を嘲笑っているような気がしてならなくなった。妻に罪はないが、どうしてこんな帽子を選んだのだと泣きたくなる。
隣の相沢が「あのお店って、娘さんがバイトしているところですよね」と言った。悔しさはふつふつと怒りに代わって、負けず嫌いな気性が眞純の闘志を呼び起こした。
目を向けたその店には、露出が多く機能性がよく分からない、派手な色彩の女性服ばかりが店内にびっしりと並んでいた。大きなガラス窓には、ティーンズ向けのブランド名が色鮮やかに記されている。
店先で足を止めるのは、派手な髪色と格好をした女性達ばかりだった。そこで一際目を引いたのは、そんな彼女達に尊敬の眼差しをちらちらと向けられる、我が娘の姿だ。
「相変わらずな美人ですねぇ」
のんびりとした相沢の褒め言葉に、眞純は答えなかった。
長い茶髪にウェーブをかけ、すっかり化粧の似合う年頃になった娘は、小さなシャツと短パンの下から長く白い肢体を、惜しみもなく晒していた。爪は家事も出来ないほど色と装飾で飾られていて、金の輪のピアスが西日に照ってキラリと光る。
「あんのバカ娘が」
思わず呻いた眞純に、相沢が不思議そうな視線を送った。
「どうしんたですか、先生?」
「今、決心したぞ。私は、断固としてアイツと戦う」
「は? なんでまた、そのご決断に達したんですか? いい子じゃないですか、必要経費をバイト代から出しているっていうし、奥さんが自慢げに話していましたよ~」
眞純は続く言葉も聞かず、大きく足を踏み出すと、店先で呼びこみをしている娘目掛けてずんずんと歩き出していた。
「ちょ、待って下さいよ、先生!」
「待たん。いくらアレが妻に似ていようが、教育を怠るわけにはいかないのだ」
「あ~、そういえば先生って、娘さんにも頭が上がらないっすよねぇ。奥さんが好きすぎるんじゃ――」
「ぶっ飛ばすぞ」
人混みをかきわけながら、眞純は力強く足を前へと進めていった。あとから続く相沢は、人にぶつかるごとに「すみません」と謝りつつ、必死にその後ろから続く。
相沢は時折見掛ける娘の方を見やり、遅れて今の状況を思い出して「これはヤバイ」と目を見開いた。ちょっとのんびりしていられないぞ、というように声を張り上げて「待って下さい先生!」と叫ぶ。
六年の付き合いで、相沢は、眞純という人間を理解していた。不器用で意外と愛妻家なこの『先生』は、非常に自尊心が高いのだ。
「先生、待って下さいってば! 説教は、家で会ってからでもいいんじゃないですか?」
「生活サイクル的に会わん。アレは、いちいち言うなと言って、私の事を一部嫌っているんだ。中学生の頃から反抗的だし、短期大学も勝手に決めたんだぞ。今言わなくてどうする」
「ですが先生、突拍子すぎますって! ほら、今はちょっと怒りを抑えて――」
「しつこいぞ、相沢」
やけに食ってかかるな、とアパレルショップのある通りへ出た途端、眞純はぎょっとして足を止めた。
通りはたむろする若者や、比較的若い男女の大人で溢れ返っていた。眞純は娘のいる場所まで七メートルの距離に迫っていたが、シルバーアクセサリーの展示が目立つ店の前にいた少年達が、ふと会話と携帯電話の操作を止めて振り返るのを見て、硬直する。
普段ならば、何も気にする必要はなかった。しかし、自分は今、猫耳を象徴する起伏がついた茶色の帽子をかぶっているのだ。
少年達の口が、途端に「あ」という形になるのに気付いて、眞純は恥ずかしさと怒りに震えた。このまま逃げ帰る事も、そして見物になり続ける事も彼のプライドは許さなかった。
駆けつけた相沢が「先生」と呼び掛けて、不意に言葉を切って視線を移動させた。眞純も、彼が見ている方向に気付いてハッとした。
娘が、ゆっくりとこちらを振り返ったのだ。その仕草も、女性らしい品があった。派手な格好をしていなければ、若い頃の美しい妻に瓜二つだ。
それでもどことなく妻との違いを感じるのは、きりっと吊り上がった大きな瞳の奥に、父親である自分と同じ、気の強さを宿しているからだろう。
眞純は嘲笑う観衆の中に、自分が滑稽に立っているような気持ちに襲われた。気取って怒鳴る事も、いつものように「馬鹿が」と父親らしく言う事も出来ないでいた。
今の自分は、猫耳帽子に威厳の全てを奪われてしまったのだ。大袈裟だが、そんな事が眞純の脳裏に過ぎった。きっともう、娘にはすっかり呆れられてしまっただろう。
それでも、彼はその元凶である帽子を、取る事が出来なかった。
何故なら、嬉しそうに自分の頭にその帽子を乗せた、妻の顔が脳裏に強く残っていて離れなかったからだ。約束よ、と言われて、約束だ、と返した気持ちは、何一つだって偽りたくない。
眞純のそんな不器用で真っ直ぐな性格を知っている相沢は、「どうしたものか」と先生の娘に目配せした。彼女とは面識はあったが、一体どういう行動に出るかは予測が難しかった。父親同様に不器用な対応が出るのか、母親に似た性格が出るのか?
じっとこちらを見つめていた娘が、化粧を施した美しい顔を少し顰めて、それから突然思い出したように歩き出した。歩行速度を、ゆるやかにたもっていた通行人の間を慣れたように抜けていく。
眞純は、防衛本能のように仏頂面を深めたが、女性にしては長身の娘が目の前に立つと、直前に膨らんだ威厳代わりの勇気も、すっかりしぼんでしまっていた。
眞純は「なんだ」という具合に、口をぱくぱくとさせた。
けれど声は出て来なかった。娘は隣の相沢にちらりと目配せしたかと思うと、「ふうん」と特に興味もなさそうな声を発して、再び自身の父親をじろじろと観察する。
長い時間そのようにしていたようでもあるし、それは自分が長いと感じるだけで、たった数秒の間の事であったのかもしれない。
不意に、観察を終えた娘が、自分が若い頃のような勝気で意地悪で、そして色気もない具合にニッとした笑みを浮かべたのを見て、眞純は目を小さく見開いた。
彼女にそんな楽しげな顔を向けられたのは、久しぶりである気がした。
「可愛いじゃない。それ、今流行りの帽子なんだよ。ウチの店にも置いてあるの!」
「じゃあ、僕にも一つオススメの売ってくれないかな」
相沢がそう言って、眞純の隣からひょっこりと口を挟んだ。すると娘は、父親譲りの険悪な顰め面を作ってそちらを見やった。
「あなた、ウチに来ても、私に気安く話しかける人じゃなかったはずよね?」
「ん? だって僕は先生の担当者であって、娘さんの君に会いに来ているわけじゃないし。そんな小さな事は、とりあえずはいいじゃないの」
「よくないわよ。お父さんには『いきつけのカフェだ』って言っていた癖に、週末前にチラッとしか見掛けないし」
「へえ、僕の事よく見ているんだね」
「私の美貌に興味がない男なんて、サイテーよ」
「あらあら、僕も嫌われたもんだねぇ」
去っていく娘と、「なんで怒ってるの?」と追い駆ける相沢の後ろ姿を、茫然と見ていた眞純は、ハッとして遅れて自分を取り戻した。
途端に周りの音が騒音になって、耳に入り込んできた。見渡すと、誰もこちらの事を注目していないと分かった。先程の少年達は、相変わらずチラチラと見つめてきていたが、彼はその中に、自分と同じ猫耳帽子をかぶっている小柄な少年に気付いた。
少年は、自分の白い猫耳帽子に手をやり、少し恥ずかしそうにニッと笑った。他の少年達のうちの一人が、「おっちゃん、お揃いだな」「うちの親父も分かってくれないのに、おっちゃんスゲーや」と、ちょっと困ったような、それでいてはなかんだ笑顔を返してきた。
眞純は、娘と相沢のあとを追うように優雅な姿勢で歩き出しながら、少年たちにこう言った。
「妻が選んだからな、悪くなかろう」
歩きながら視線を上げて、視界に広がる素晴らしい秋の青空を目に留めた。傾いた西日が、ビルに遮られて影を落としている。
もう二時間ほどで、そこの青空も茜色に染まってしまうのだろう。素晴らしい一日の終わりが来るのは、もう少し待って欲しいものだ。
眞純はそう思いつつ、若者達の間を堂々と歩いて、娘と相沢の元に向かったのだった。