99:ベルタお師匠
――ルストゥの民が持つ光の力が精霊の飲み水に反応し、更には魔物にその効力が発揮されると分かったのが二日前の休日。その後すぐに私はディオナに協力を要請し、勇者である幼馴染のルカーシュに手紙を出した。
何度かディオナに協力してもらい、あの後も調合を続けたがあれ以上の成果は未だ得られていない。しかし大きな一歩を踏み出せたのだ、焦らず確実に結果を求めたい。
休日が明けて、私は誰よりも先にアルノルトに会いに行った。まだ始業時間前ではあったが、彼は大抵朝早くから自分の調合室に籠っている。今日も例外ではなかった。
調合室の扉をノックをして、返事があったのを確認した後、私は勢いよくドアノブを回した。
「アルノルトさんおはようございます! 精霊の飲み水の調合で、進展がありました!」
挨拶もおざなりに本題へと入る。椅子に腰かけなにやら文献を読んでいたらしい彼は、私の言葉に――というよりも、おそらくは私の勢いに――目を見開いた。しかし徐々に私の言葉を咀嚼したのか、ゆっくりと本を閉じ、そして私に近くの椅子に座るように促す。
私は興奮を抑えきれないまま、言われた通りに椅子に腰を下ろしてから言葉を続けた。
「精霊の飲み水に、ルストゥの民の光の力が干渉したんです。光の力が“調合された”精霊の飲み水は、魔物の前足を溶かしてしまうほどの効力がありました」
「興味深いな」
簡素な返事ではあったが、アルノルトの黒い瞳は私を射抜かんばかりにじっとこちらに向けられている。私が伝えた少ない情報から何かを導き出せないかと必死に考えを巡らせている最中なのだろう。
私はしっかりとアルノルトを見つめ返し、再び口を開いた。
「それで、ルストゥの民の力って勇者の力に似てるそうなんです。だから、ルカーシュの力ももしかすると……!」
まだ試してすらいない、私の憶測の話だ。だからそれ以上を口にすることはしなかったが、アルノルトはその先の言葉を容易に想像できたのだろう。
「すぐに手紙を出しました」
「調合を行う際は是非俺にも立ち会わせてくれ」
アルノルトの言葉に大きく頷き、始業前にお暇しようと椅子から立ち上がる。そして退出しようと振り返った私をアルノルトは呼び止めた。
「一つ報告だ。エルヴィーラをルストゥの民の街に連れて行く日付が決まった。それと……エルヴィーラと師匠、そしてベルタさんが帰ってきた」
ベルタさんが、帰ってきた。
その言葉に私の思考は真っ白になる。
お師匠は魔王の存在を知ったのだろうか。メルツェーデスさんと自壊病の正体について話したのだろうか。
アルノルトさんはそれ以上何も言わない。ただこちらをじっと見つめてくるだけだ。
――しっかりと落ち着いて、一度話さなくては、と思った。
***
その日の夜、私はお師匠が宿泊している宿屋の部屋の前までやってきていた。怖気づいて何度も王城へと戻ろうかと思ったが、ここで逃げてはいけないと鉛のように重い足を引きずるようにして、どうにかこうにかここまで来たのだ。
目の前の扉をノックする。名前を告げれば「入れ」と返事があり――私は一つ大きく息をついて、扉を開けた。
扉の向こうに立っていたお師匠の姿を捉えるなり、私の視界はじわりと滲む。
「お師匠……」
「なんじゃ、その情けない顔は」
「いえ、その……」
うまい言葉が見つからず、私は言葉を濁す。すっかり沈み込んでしまった私をお師匠は部屋の中へと招き入れ、椅子に座らせた。
「メルツェーデスに連れられて、エルフの村にいってきた。何度か行ったがいいところじゃぞ。人は暖かい、空気も澄んどる、飯もうまい」
やけに明るい声音で話題を切り出す。しかしうまく反応できずにいる私に、
「……アネットを連れて、何度も訪れたものじゃ」
お師匠は懐かしむような口調でそう言った。
アネット。その名前に私の心臓は跳ねる。自壊病によって命を落としたお師匠のお孫さんの名だ。
自壊病の正体を、最愛の孫の命を奪った本当の原因を、お師匠は聞いてしまったのだろうか。
「メルツェーデスから全部聞いた」
――ああ、と。知らず知らず私の口からは息がこぼれていた。
じわり、と額に汗が滲む。ずきずきと頭が締め付けられるように痛い。
私は相変わらず、何も言えないままだった。なんと言うのが正解なのか、分からなかった。
「お主が何を思ったかは知らんが、余計なことを考えるでないぞ」
ワントーン落ちた、どこか言い聞かせるような声音に私はパッと顔を上げる。お師匠はひどく優しい表情で私を見つめていた。
「自壊病の治療には……魔王討伐にはルストゥの民とやらの知恵と力が必要不可欠じゃろう。感情に惑わされてはならん」
私の迷いや考えなんてお師匠にはお見通しのようだ。
は、と知らず知らずのうちに短い息がこぼれる。お師匠は僅かに緩んでいた口角を下げて、真剣な表情で続けた。
「救えなかった命に足を取られるな。これから救える命のことを考えろ。お主は調合師じゃろう」
かけてもらった言葉にぐにゃり、と視界が歪んで――もうだめだった。
涙が頬を伝う。情けない泣き顔を見せまいと俯き、自分の涙が床を濡らしてゆく様を眺めていた。
「あぁもう、泣くな泣くな」
「ず、ずみまぜん……」
お師匠の苦笑が滲んだ声に余計泣けてくる。ずび、と鼻をすすって、ハンカチで涙をぬぐった。
「アネットの命を奪った病の原因を生きているうちに知れてよかった。……やっと自分の中の時間が進んだ気がするわい」
やっと時間が進んだ。その言葉に再び私は顔を上げる。そこには、どこか泣きそうに微笑んだお師匠の顔があった。初めて見る、憑き物が落ちたような笑みだった。
――メルツェーデスさんのいつかの言葉を思い出す。
お師匠はアネットさんが亡くなって、メルツェーデスさんたちの前から姿を消した。その後メルツェーデスさんが探し出したお師匠は、孫の死を受け入れた、というよりは、全てを諦めてしまったかのようだった、と。
アネットさんを亡くしたその日から、お師匠の中の時計は止まっていたのだろうか。その、止まっていた時間がようやく――本当の原因を知ることで、動き出したのだろうか。
私はアネットさんを救うことはできなかった。お師匠の苦しんだ日々を今更変えることはできない。けれど――
「自壊病の、治療のことで……っ、進展がありました」
泣きながら、言葉に詰まりながらも伝える。するとお師匠は目を丸くして「何があったんじゃ?」と先を促した。その瞳はらんらんと輝き、新しい調合法に対する興味で溢れていた。
その表情に、ああ彼女は根っからの調合師だ、と嬉しくなる。
「ルストゥの民……ある一族が持つ特殊な力に、精霊の飲み水が反応したんです」
「詳しく聞かせてくれ」
私は頷く。それから数秒お互い涙目で見つめ合い――何をやっているんだ、と揃って笑った。




