90:使命
――お師匠のことを想い流した涙はやがて、強い決意を私に抱かせるきっかけとなった。
しゃがみこみ、伏せていた顔をゆっくりと上げる。するとすかさずアイリスとバジリオさんが私の顔を覗き込んできた。彼らの手は優しく、私の肩や背中に添えられたままだ。
「ラウラ、大丈夫?」
アイリスの心配そうな声に私は頷いた。涙はもう止まっているが目は赤く腫れているだろうし、汚い話あれだけ泣いたのだ、涙と鼻水とその他もろもろで私の顔はぐちゃぐちゃだろう。
私はせめてもの応急処置としてポケットに常備しているハンカチで顔を拭う。そして情けない先輩を優しく受け入れてくれた後輩二人をそっと見上げ、口を開いた。
「うん、もう平気。……その、えっと、今回のことは」
アイリスはまだしも、バジリオさんは自壊病について全く知らない。仮に知っていたとしても、今回のような個人的なことを明け透けに言うのは躊躇われた。
言い淀んだ私に、すかさずバジリオさんが助け舟を出してくれる。
「無理して話してくれなくても大丈夫ですよ。ラウラさんが平気だと仰るのなら、僕らはそれで……ね、アイリスさん?」
穏やかなバジリオさんの言葉に、アイリスもまた大きく頷く。
彼らからしてみれば、薬草採りから戻れば突然先輩が泣きじゃくっていた――なんて、なんとも困惑する状況であろうに、何も聞かずにただ寄り添ってくれていた。優しい後輩たちに恵まれたと心から思う。
「ラウラ……家に戻れる?」
おずおずと尋ねてくるアイリス。泣きじゃくる私にかけてきた言葉を思い出すに、彼女はもしかすると私がリーンハルトさんたちに何か嫌なことを言われたのではないかと心配しているようだ。
「大丈夫、一緒に帰ろう」
微笑みかける。するとアイリスは強張らせていた表情を和らげて、私の手をとった。
アイリスに手を引かれて家の中に戻れば、私を待っていたのであろうリーンハルトさんが入口すぐ近くで待ち構えていた。アイリスが不安げに私を振り仰いだが、それに微笑み返す。そしてバジリオさんとアイリスを交互に見て、
「先に奥へ行っていてください」
そうお願いした。
バジリオさんは何かを察したのかすぐに頷いてくれたが、アイリスは不満げな表情だ。年下の同期をたしなめるようにバジリオさんは苦笑して、半ば強引に手を取り二人で奥へと歩いて行った。
リーンハルトさんと二人きりになった廊下に、少しの間沈黙が流れる。とりあえず突然飛び出たことを謝るべきだろう、と数歩歩み寄った。
「先ほどは突然飛び出してしまってすみませんでした」
「いえ。詫びるのはこちらの方です」
リーンハルトさんは目を逸らさずにじっとこちらを見つめてくる。覚悟を決めたような表情だった。
私に協力を断られる可能性を考えているのだろう。
「正直師のことを思うと、少し思う部分はあります。でも自壊病を治療したい、エルヴィーラを助けたいという想いは変わりませんから……。どうか、よろしくお願いします」
意識してゆっくりと、穏やかな口調でそう告げる。瞬間、ふ、とリーンハルトさんの肩から力が抜けたのがわかった。
エルヴィーラは絶対に死なせない。そのためにも、リーンハルトさんたち――ルストゥの民の力が必要なのは確かだった。
リーンハルトさんは大きく頭を下げる。そして「こちらこそ、よろしくお願いします」と力強い声で言った。
***
――その日の夜、眠ろうとしても目が冴えて仕方がなかった。
大人しく諦めて私はベッドから出る。勝手ながら水でも貰おうと一階に降りた。
昼間のことを引きずっている、という自覚はない。実際これからやるべきことはしっかりと見えているのに。
キッチンからコップを拝借し、水を飲む。しかしすぐに自室に戻る気も起こらず、リビングの電気をつけてしばらくソファに座りこんでいた。
はぁ、と大きく息を吐いてソファに体重を預ける。その瞬間、
「――ラウラ様」
呼びかけられて振り向けば、そこに立っていたのは――銀髪の少女、ディオナだった。
「え、あっ、ディオナさん! どうしたんですか?」
反射的にソファから立ち上がる。そして問いかければ、ディオナは恐縮するようにわずかに肩をすくめた。
「いえ、降りてきたらこちらの灯りがついていたので……」
「あ……夜遅くにすみません。ちょっと喉が渇いて」
苦笑すれば、ディオナは明らかに表情を曇らせた。
なぜそのような反応を示したのか分からず、何か失言してしまっただろうか、と不安に思っていると、
「今日は本当に申し訳ありませんでした」
突然頭を下げたディオナに、彼女の表情の意味を悟った。
私が眠れないのは、今日のあれこれを引きずってのことだとディオナは思っているのだ。
「い、いえそんな! こっちこそ突然飛び出しちゃったりして、すみません」
「あなたのお師匠様のことをリーンハルトから聞きました。謝ってどうにかなる話ではありませんが、私には謝ることしかできず……」
随分と胸を痛めているようだった。
恐る恐るといった様子で顔をあげるディオナ。血の気の引いている表情に、少しでも安心させてやりたいと微笑んだ。
お師匠の件に関しては、全て納得できた訳ではない。どうしようもなく、どこにぶつけることもできないこのモヤモヤは永遠に晴れることはないだろう。しかしルストゥの民もまた、様々な複雑な感情を抱え生きてきたに違いない。
分からないことは数多くある。しかしこれだけは確かだ。ルストゥの民を、ディオナたちを責めるのは間違っているし、責めたところで何も変わらない。
「悪いのは魔王ただ一人で、あとはそれぞれに抱えていた事情があったってことは、分かってますから」
「でも……。何のお詫びにもなりませんが、何か私に答えられることがあれば何でも聞いてください」
なおも食い下がるディオナに、いっそのこと彼女が言う通りこちらから質問をして罪悪感を少しでも軽くしてやった方がいいかもしれない、と思い直す。
どのような質問がいいだろう。少しばかり聞くことに躊躇いを覚える内容で、それでいて本当に越えてはいけないラインは越えない、そんな質問は――
少しの間考えて、一つの質問が脳裏に浮かんだ。
「そうだ。それじゃあ、ルストゥの民のことを少し教えてくれませんか? ちょっと興味があって……もちろん、駄目だったらいいんですけど」
断れるように冗談めかして笑顔でそう言ってみたものの、ディオナは笑み一つ浮かべなかった。こくりと頷くと、私が座っていた椅子の向かいに腰かける。
琥珀色の瞳が私を射抜く。彼女が浮かべた真剣な表情になんだか緊張してしまう。
「ルストゥの民の祖先は、始まりの勇者の従者だと伝えられています。始まりの勇者……大いなる闇に支配されていたこの地を救い、この地に生命を生み出した最初の勇者――創造神です。彼は付き従っていた従者に力を分け与え、その力を分け与えられた従者が、ルストゥの民の始まりだと」
創造神というスケールの大きな単語が飛び出てきて、思わず目を丸くする。
「ラストブレイブ」の設定では、古代種は「神の使い」と名乗っていた覚えがある。しかし創造神といった単語は一切出てこずに、長い間勇者に力を貸してきた一族、という曖昧な説明しかなかったはずだ。
しかしディオナの今回の説明によれば、「神の使い」は比喩表現でもなんでもなく、そのままの意味だったらしい。始まりの勇者――創造神の従者を祖とするルストゥの民は、文字通り「神の使い」だ。
「なるほど、だからルストゥの民の皆さんは勇者の力と似た光の力を持ってるんですね」
「はい。しかし我々の祖は、創造神から分け与えられた勇者の力を完全に得ることはできませんでした。祖は優秀な従者ではあったものの、勇者ではありませんでしたから。だから勇者の力と我々の持つ光の力は違うのです」
勇者についての説明は「ラストブレイブ」でも少ない。魔王の目覚めが近づいたとき、勇者が生まれるという伝承があるだけだ。
だから勇者の力がどのような形で次の勇者へと受け継がれていっているのか詳細は分からない。私のように前世を持つ生まれ変わりなのか、勇者として相応しいとされる人間に勇者の力が宿るのか。
私はおそらく後者ではないかと思っているが――ルカーシュに前世の記憶がある、という描写は「ラストブレイブ」でも一切なかった――事実は明らかになっていない。
「祖は、ルストゥの民は創造神から、この世界を影から守るように命じられました。創造神は勇者の力、光の力は平和な世には必要ないものであるとし、この力を巡って余計な争いが起きぬように、ルストゥの民の存在はできる限り隠すように言ったと伝えられています」
――“私”の率直な感想としては、よく聞くような設定だ、と思ってしまった。力を持つ者がその力を利用されないように身を隠すというのは、前世でそれなりに耳にした覚えがある。
ただ一点、できる限り隠すように、との言葉が引っ掛かった。この話は私が聞いてもいい話なのだろうか。
「あの、聞いておいてなんですけど、私に話してしまっても大丈夫ですか?」
「リーンハルトから、もうラウラ様には一切隠し事をしないよう言われておりますので」
ディオナの言葉に私は苦笑し、僅かに目線を下げる。昼間の出来事をリーンハルトさんたちは随分と重く受け止めているようだ。
「それに勇者様の幼馴染であるラウラ様には、知っておいていただいた方がいいのではないかと思いまして。ルカーシュ様は、ラウラ様を随分頼りにされているようでしたから」
柔らかな笑みを浮かべたままそう言われ、気恥ずかしさを覚えて俯いた。
そういえば初対面のとき、ディオナは私のことを遠くから見ていた、と言っていた。つまりは私の今までの言動を彼女はそれなりに知っているのだ。情けない姿も見られているかもしれないと思うと、ますます頬が赤らむ。
恥ずかしさを誤魔化すように、私は口を開いた。
「ええっと、ルストゥの民は創造神である最初の勇者から力を分け与えられた従者の血を引いている、特別な一族ってことですよね? それでずっと身を隠して暮らしている、と……」
「はい。結界を張った街で、誰の目にもつかぬように。……アイリスがあまり外に出たことがないと申し上げたのも、そのせいです」
自分の部屋を案内してくれたアイリスは、確かにそのようなことを言っていた。
あのときの寂しげなアイリスの表情を思い出す。
「ルストゥの民は滅多に結界の外に出ません。その一生を街の中だけで終えた者も多くいます。……決して、血を絶やさないために」
ディオナは低い声で続ける。
「ルストゥの民は複数の街を作り、一族を分けています。万が一、別拠点に不測の事態が起こっても、生き残る者がいるようにするためです」
息をするのも忘れて、ディオナの言葉に耳を傾けていた。
ルストゥの民が現在どれほどの人数存在しているのか見当もつかない。どれだけの人が結界の中で暮らし、外に出ることなく一生を終えるのだろう。
「アイリスはその才能をリーンハルトに見出され調査員となりましたが、多くの子どもは結界の中で身を守ることが一番の仕事です。……女性は子を産み、血をつなげていくことが何よりも大切な仕事になります」
――似ている、と思ってしまった。
小さく閉鎖的な村と、故郷のエメの村と似ている、と。
この世界の人々は大なり小なり、生まれつき背負わされた職業に囚われているのだ、きっと。私は自分に与えられた職業から逃げおおせたが、ルストゥの民ともなればそんなことはできない。そんなことでもしたら、最悪世界が滅びてしまうのだから。
目の前の華奢な少女の背中には、どれだけの重責がかかっているのだろう。
「……みなさん、すごいですね」
「いいえ、そんな。使命ですから」
使命だと笑顔で言い切るディオナが、私の目からは眩しく映った。
彼女は使命から、自分に与えられた職業から逃れようだなんて露ほども思っていない。それは“私”にとって、そして未来の勇者にとっても心強いことであった。
――ディオナがルストゥの民の使命を背負い、この世界のヒロインとして存在する限り、この世界は救われるのだから。
「勇者の幼馴染としては本当にほっとしてます。これだけ世界のことを考えてくださっている方々が味方についてくださるんだって思うと……」
「お任せください。何があっても、私たちルストゥの民は勇者様の味方です」
――そう、ディオナは、ヒロインは何があっても主人公の味方だった。人々からの期待が重いと主人公がこぼした夜も、魔王が復活した夜も、いつだって。だからこそプレイヤーは主人公と同じくディオナに心を傾けていくのだ。
聡明で、力を持ち、心優しいディオナ。彼女なら絶対に主人公を――ルカーシュを支えてくれる。そしてルカーシュもまた、使命に生きてきたディオナに一人の少女としての幸せを与えてやれるはずだ。
世界は救われ、世界のために奔走した主人公とヒロインが結ばれてハッピーエンド。それが一番美しい。
「ルカーシュを、よろしくお願いしますね」
少しの寂しさと、重い使命を背負って生きる少女が勇者と出会い、幸せになる未来に対しての期待を込めて、そっと呟いた。




