80:新たな問題
――研修終了後、一人で後片付けをしていたときのことだった。
突然コンコン、と扉がノックされる音が部屋に響いた。後輩のどちらかが忘れ物でもしたのだろうか、と思いつつ腕に抱えていた薬草の束を机の上に一旦置いてから扉へ近づく。
「どなたですか?」
「俺だ、アルノルトだ」
――扉の向こうから返ってきた声は予想していなかった人物のもので。
私は驚きのあまり勢いよく扉を開く。その先にいたのは、僅かに目を丸くした――突然目の前の扉が勢いよく開いたので驚いたのだろう――アルノルトその人だった。
「アルノルトさん、帰られてたんですね!」
「すまない、少しいいか」
挨拶もなしにアルノルトは私の腕を掴む。そしてそのままぐいと強く引っ張ると、どこかへ向かって歩き出した。
部屋の施錠もできず、どこに向かうのかも知らされず、私は腕を引かれるままアルノルトについていくことしかできない。何度背中に声をかけても、彼の足が止まることはなかった。
(もしかして、エルヴィーラちゃんに何かあったのかな……)
次第に心臓が嫌な音を立て始める。脳裏に浮かんでは消える様々な可能性にぶるりと身震いした。
連れてこられたのは王城に用意された客間の一室だった。中は簡素なベッドと机、そして椅子のみなのだが――ベッドに横たわっている小さな人影に気づいた。
まさか、と恐る恐るベッドへと近づく。そしてそっとベッドに寝ている人物の顔を覗き込んだ。
(エルヴィーラちゃん……!)
黒髪にエルフの証である尖った耳。見間違えるはずもない、エルヴィーラだ。
なぜ彼女がここに。まさか、最も恐れていたことが起こってしまったのか――
頭の中が真っ白になる。寝ているエルヴィーラを気遣うこともできず、大きな声でアルノルトに詰め寄った。
「どうしてエルヴィーラちゃんがここに!? まさか、自壊病が……!?」
「いや、自壊病の症状は出ていない」
自壊病の症状は――出ていない。
アルノルトの口から告げられた言葉に強張っていた体から力が抜ける。抜けすぎて、足元がふらついてしまった。
壁に寄りかかるようにして体を支えつつ、改めて尋ねる。我ながら情けない恰好だった。
「だったらどうして王都に連れてきたんですか?」
「故郷の村が魔物に襲われた。その際、エルヴィーラが魔物に狙われたらしい」
アルノルトの答えに、少しずつここ数日の出来事が見えてきた。
故郷の村が襲われた。その知らせを受けてアルノルトは王都を急いで発ったのだろう。しかし今、こうして彼が帰ってこられているということは、現状としては多少落ち着いているのではないか。
エルフの村が魔物に襲われたという事実にドキリとしつつも、その後のある言葉が引っ掛かる。
アルノルトは、エルヴィーラが“狙われた”と言った。
「狙われた?」
「魔物は他の村人には目もくれず、エルヴィーラだけを襲おうとしたそうだ」
アルノルトの言葉を瞬時に正しく理解することができなかった。
エルフの村が魔物に襲われた。しかし魔物は住民たちを無作為に襲ったのではなく、エルヴィーラ一人に狙いを定めていたと、そういうことか。そんな事例は聞いたことがない。
「ど、どうして、そんな……」
「分からない。分からないから保護するしかなかった」
ぐ、とアルノルトの眉間に皺が寄る。顔色が随分と悪く、追い詰められているような表情だった。
故郷の村が襲われたと聞いて、慌てて王都を発ったアルノルト。そしていざ村に行けば最愛の妹が執拗に魔物から狙われたと聞かされ、その原因は全く分からないときた。なぜ、どうして妹だけが――
アルノルトの心情を察するに、彼は今、心身ともに疲れ切っているはずだ。今の彼にあれこれ聞くのはよくないだろうと思い、緩やかな話題の転換をはかる。
「エルヴィーラちゃんはしばらくこっちで暮らすんですか?」
「ああ。王城に部屋を用意してもらった」
なるほど確かに、王城はこの国で一番安全な場所と言えるだろう。だがここに妹を置いてもらうためにも、アルノルトは奔走したはずだ。
アルノルトは疲れを凝縮したような深いため息をつくと、私に小さく頭を下げた。
「師匠についていてもらうが、お前にも世話になることもあるかもしれない。それを先に知らせておこうと思ってな……。すまない」
「いえ、そんな……」
こうも頭を下げられては、私としてもただ首を振って応えることしかできない。
自壊病の再発という恐れが現実になることはなかったが、その代わりに、とでも言わんばかりに新たに浮上した問題。なぜエルヴィーラ一人が魔物に狙われたのか。
治療法が分かっていない自壊病と同じように、今回もまた原因が分からない。更に自壊病はまだ自分たちの専門分野と言えたが、魔物の行動に関しては完全な専門外。正直な話、疲労で身も心もすり減らしてしまうのではないかと心配だ。
だからこそ、というわけでもないが、少しでも彼の力になれたらと思わずにはいられなかった。
***
エルヴィーラが王城にやってきてから数日経ったある日のこと。突然ノックもなしに研修室の扉が勢いよく開かれた。
咄嗟に近くにいたアイリスを抱き寄せる。バジリオさんは警戒するように私たちの前に立った。
突然開いた扉の方へと目線を向ける。そこに立っていたのは――
「ラウラ・アンペール!」
「エ、エルヴィーラちゃん?」
黒髪のエルフの少女、エルヴィーラだった。
なぜ一人でここに、と思考が停止してしまった私を連れ戻したのはエルヴィーラの声ではなく、バタバタと慌ただしい足音だ。それは廊下から聞こえてきて――
「ラウラちゃん、こんな時間にごめんなさい! 今はお仕事中だからダメって言ったんだけれど……」
メルツェーデスさんが研修室へと飛び込んできた。そして慌てて入口で仁王立ちしていたエルヴィーラを抱き上げる。
アルノルトが師匠にエルヴィーラのことを頼むと言っていたが、彼女も王城にしばらく滞在するのだろうか。
とりあえず、抱きしめていたアイリスの体を離す。そして困惑の表情でこちらを見つめてくるバジリオさんに「知り合いです、大丈夫」と微笑んだ。
何やら言い争っているメルツェーデスさんたちに近づき、声をかける。
「あの、どうされたんですか?」
「ラウラちゃん、本当にごめんなさいね。王城内を散歩していたら、突然エルヴィーラが走り出して、それで――」
「回復薬の作り方、教えて」
メルツェーデスさんの言葉を遮ってまでのエルヴィーラからの依頼に、私は目を丸くした。
私が答えるより先に、メルツェーデスさんが小さくため息をついてから口を開く。
「もう、それなら私が教えてあげるって言ってるじゃない」
「メルじゃなくて、ラウラ・アンペールに教わりたいの」
「でもそれじゃあ迷惑でしょう? ラウラちゃんは忙しいんだから」
いや! と頬を膨らませるエルヴィーラは愛らしい。――などと、ぼんやり考えている暇はない。
なぜメルツェーデスさんやアルノルトではなく私を頼ってきたのか、正直疑問でしかないが、彼女は中々に頑固な性格だ。これといったらてこでも動かないのは“私”もよく知るところにある。
それに私はかねてから彼女と仲良くなりたいと思っていた。それは主に自壊病の治療のために、といった目的からで決してお気に入りのキャラクターとお近づきになりたい、などといった下心からではない――とは決して言えないが、ともかく今後のことを考えると距離を縮めておけば何かと動きやすいだろう。自壊病の再発の可能性も、まだまだ十分ある。
しかし研修中である今はアイリスとバジリオさんに迷惑がかかる。とりあえず今は帰ってもらい、夕方に改めて話そうとエルヴィーラを宥めるためにも口を開いた。
「ええっと、それじゃあ研修が終わった後に――」
「ねぇねぇ! 一緒にやろうよー!」
いつの間に近づいてきたのやら、アイリスが私の言葉を遮ってエルヴィーラに話しかけた。突然の思わぬ行動に驚いて、彼女が発した言葉をしっかり理解するのが遅れてしまう。
「……え? 一緒にって?」
「そっちの方がぜったい楽しいもん! いいよね、バジリオ!」
「はい。大歓迎です」
満面の笑みで振り返るアイリスに、大きく頷いて応えるバジリオさん。彼はその後私にも優しく微笑みかけてきた。
そこでようやくアイリスの言葉を正しく理解する。彼女はエルヴィーラに、自分たちと一緒に調合をしようと提案したのだ。そしてその提案は、バジリオさんにも受け入れられてしまった。
「で、でも……」
エルヴィーラに研修時間中に調合を教えるということは、それだけ二人に対する指導の時間が少なくなるということに他ならない。指導する後輩が一人増えたのと同じことだろう。
指導時間が減って一番不利益を被るアイリスとバジリオさんがいいと言っている以上、私が下手に口を出さない方がいいのではないかと思うが、しかし。
「いいからいいからっ!」
とうとうアイリスはエルヴィーラの手を取り、研修室の中へと招き入れた。
エルヴィーラはどこか満足げに胸を張ると、アイリスに手を引かれるまま歩みを進める。
「ねね、名前なんてゆーの?」
「エルヴィーラ・ロコ」
「あたしアイリス! それでこっちバジリオ。よろしくねー」
私のことなんかそっちのけでアイリスとバジリオさんはエルヴィーラを調合台へと案内する。そして早速調合器具についての基礎的な知識を教えてあげているようだった。
後輩二人のあまりの適応力の高さに私が面食らってしまう。本当にいいのだろうか。
「ちょっと、エルヴィーラ! ……ラウラちゃん、迷惑だったら本当に断ってね。エルヴィーラの我儘なんだから」
心配そうに、申し訳なさそうにメルツェーデスさんが顔を覗き込んでくる。彼女としても、この状況は予想外だったのだろう。
「私としては、アイリスとバジリオさんがいいというなら断る理由はないので……」
そうこうしている内に、とうとうお手本と称してアイリスがエルヴィーラの前で調合を始めた。
やけにアイリスが張り切っているように思えるが、もしかすると妹が出来たようで嬉しいのだろうか。末っ子が、自分より年下の子にお姉さんぶりたがる、あの心情だ。
「それで次は火を起こして――わっ!」
ボッ、といきなり調合器具に火がともる。エルヴィーラの魔法だ。
自壊病のこともありエルヴィーラが魔法を使ったことにドキリとしたが、どうやら特に異常はなさそうだ。
「すごーい! エルヴィーラ、魔法が使えるんだー!」
アイリスはキラキラと目を輝かせて驚きの声をあげる。その様子を見るに、彼女はあまり魔法を見慣れていないのかもしれない。
はしゃぐアイリスと、真正面から褒められて得意げなエルヴィーラ。その光景を微笑ましく思いながら見守っていたが――いくらなんでも火が強すぎる!
バジリオさんが水を用意したのと同じタイミングで、私もまた慌てて駆け寄った。
「ちょ、ちょ、エルヴィーラちゃん! 火を弱めて!」
結局その後も何かと騒がしい調合指導は続き――気が付けば、エルヴィーラへの調合指導で本日の研修は終了した。
***
あの後、アイリスとバジリオさんがエルヴィーラに調合を教える、といった形で研修を進めた。人に教えるということは、自分の勉強にもなるのだと私は身をもって知っている。
特にアイリスはエルヴィーラが研修に参加することを楽しんでいたようだし、バジリオさんも嫌な顔は一切見せなかった。しかし一応アルノルトには報告しておいた方がいいだろう、と彼の調合室の前までやってきた。
さて、どのように報告しようか――と考えつつ、扉を数度ノックする。するとすぐに扉は開かれた。まるで私が来るのを待っていたかのようだ。
「アンペールか」
「アルノルトさん、遅くにすみません」
「いや、謝るのは俺のほうだ。今日エルが迷惑をかけたと聞いた。すまない」
アルノルトは大きく頭を下げる。どうやら今日の出来事は、既に彼の耳に届いていたらしい。
「そんな、迷惑だなんて。アイリスは特にはしゃいでいたし、いつもとはちょっと違った研修ができました」
私の言葉にアルノルトは僅かにではあるが目元を緩めた。安心したようだ。
アルノルトが纏っている空気がいくらか穏やかなものになったことにほっとしつつ、言葉を続ける。
「これからも一緒に調合しますから、お時間があったらアルノルトさんもエルヴィーラちゃんの顔を見に来てあげてください」
実際にあの和気藹々とした空間を見れば、アルノルトもより安心できるだろう。ただおそらくは今、忙殺されているであろう彼に研修を見に来て欲しいというのも酷なように思えて、曖昧な言い方に留めた。
はぁ、と小さく息をついてからアルノルトは口を開く。
「邪魔だったら師匠に言って退室させてくれ。新人たちの教育の邪魔になるのは本意ではない」
「本当にお気になさらないでください。賑やかで楽しかったですし」
あはは、とわざと声をあげて笑う。実際、その言葉に嘘はない。
とにかく今回のことでアルノルトに余計な心労をかけないよう心掛けた。
「今度顔を出す。ありがとう」
先ほどよりいくらか皺の薄くなった眉間を見て、ほっと安堵の息をつく。それにしても相変わらず顔色が悪い。
疲れ切った表情のアルノルトに、エルヴィーラが突然私の許を訪ねてきた理由をなんとなくではあるが悟った。彼女はおそらく、大好きな兄のために自分で回復薬を作ってあげたいのだろう。
アルノルトとエルヴィーラ。大切に思い合う兄妹のために、微力ながら力になってあげたいと強く思った。