69:兄弟子
お師匠は語り終えた後、今日はこれでお開きにしてほしいと苦笑した。その顔には色濃い疲労が浮かんでいて、私とアルノルトはすぐさま椅子から立ち上がり、労わりの言葉もそこそこに宿屋から立ち去った。
宿屋を出た瞬間、全身を襲ったとてつもない疲労感。話を聞いているだけの私でこうなのだ、当時の辛い記憶を詳細に語ってくれたお師匠の心労は計り知れない。
王城へと帰る道すがら、アルノルトが肩にかけていた鞄――お師匠が書き留めた多くの手記が入っている鞄――を示すように軽く叩いてから口を開く。
「最終的には全てに目を通したいところだが、正直言って時間がない。とりあえずは手分けをして読むぞ」
はい、と苦い顔をして頷いた。
当時の、リアルタイムで綴られたお師匠とそのお孫さん・アネットの剥き出しの苦しみを受け止めることは、あけすけに言ってしまえばとてもしんどい。けれどその中に、何か大きなヒントが隠されているかもしれない。
私はちらりとアルノルトの表情を窺った。眉間にはいつもより深い皺が刻まれていたが、顔色はそこまで悪くない。けれど彼の声音に、いつもより覇気がないように感じられたのは気のせいだろうか。
「近々エルヴィーラをまた呼び寄せる。どうにか時間をつくってフラリアを訪れたい。案内してくれ」
アルノルトの言葉に、今度こそ私は大きく頷いた。
明日また改めてお師匠に話を聞くとして、その後の行動としてはまずエルヴィーラをフラリアへと連れていくのが最優先だろう。精霊の飲み水をそのまま処方してどうなるか、その結果が分からないことにはどうにも今後の見通しが立たない。
しかし問題なのは、その時間をいつとることができるか、ということ。遠征研修の報告書を作らなくてはいけないのはもちろん、新しい調合材料を発見したということで精霊の飲み水の詳細資料も提出しなければならない。加えてお師匠の手記を読み込む必要もあるし――更に頭を抱えることがひとつ。魔物の襲撃が多発している今、いつどの街が襲われるか分からないため、通常業務が日々忙しさを増しているのだ。
(あっちもこっちも、時間が足りない)
ルイーザさんに優しく諭され、ルカーシュと頑張りすぎないと約束したばかりだというのに。
とにかく一つずつ確実に解決していくしかない、と頭の中でスケジュールを組み立て始めた。
***
翌日。心身ともに疲労していたはずなのにどうも眠りが浅く、いつもより早く目が覚めてしまった。お師匠との約束の時間まではまだあるが二度寝する気分でもなかったので、とりあえずは朝の散歩でもしようと同室のチェルシーを起こさないように部屋を出る。
中庭に面する外廊下に出れば、気持ちの良い朝日と対面だ。ぐぐぐ、と伸びをして、澄んだ空気を堪能していたところ、
「――おっ、嬢ちゃんじゃねぇか? はやいな!」
豪快な笑い声が鼓膜を揺らしたかと思うと、声をかけられた。
その声には覚えがある。いつの間に王都に戻っていたのだろうと思いつつ振り返り、朝の挨拶をするために口を開いた。
「おはようございます、ヴェイクさん」
軽く会釈をすれば細められる左の目。右の目は眼帯で隠されていて見えない。
「いつお戻りになられていたんですか?」
「ああ、つい先日な。といってもまたすぐに発つんだが。今度は北だ」
短期間でオストリア国各地を訪れているだろうに、疲れを感じさせない笑みでヴェイクは言った。
ヴェイクは私の故郷・エメの村にも訪れ、結界魔法の強化を行ってくれた。――数年後、魔王に体を乗っ取られてしまう若き魔術師、フロルと共に。
一度ヴェイクがルカーシュと共に王都へと帰ってきた際にお礼は言ったが、あのときは私の遠征研修の話もありバタバタしていたのだ。あのときよりはスケジュールが落ち着いている今、改めてお礼をするべきだと佇まいを直し、ヴェイクに向かって大きく頭を下げた。
「改めてになりますが、エメの村の件については無理を言ってしまって……本当に助かりました。ありがとうございました」
エメの村の結界魔法が強化されたことでルカーシュが長期間村を離れることができ、その結果精霊の飲み水の発見へと繋がった。それにオリヴェルさんの口ぶりからして、彼に私たちの護衛を口添えしてくれたのもヴェイクだ。
私はヴェイクから与えてもらってばかりで、何も返せていない。もちろんこのままにする気はなく、今後何らかの形で返していくつもりだ。
不意にヴェイクがしゃがみ込んだかと思うと、頭を下げたままの私の顔を下から覗き込んできた。それに驚いて反射的に頭を上げると、彼はこれまた豪快に笑う。そして、
「十四、十五の女の子がそんな風に大人に気を遣うんじゃねぇよ。寂しいじゃねぇか」
眉尻を下げ、豪快な笑みだったものをどこか寂しそうな笑みに変えて言った。
「俺みたいな単純な男は、頼ってもらえると嬉しいんだからよ」
ヴェイクは立ち上がり、私の目を見る。彼は昔を懐かしむような、どこか遠くを見るような目をしていた。
幼い頃に両親を亡くしたヴェイクは、もしかすると大人を頼れない子どもだったのかもしれない。彼自身、自分の過去を私に重ねているとは思えないが、それでもどうも頼るのが苦手な私の姿を見て、思うところがあるのだろうか。
どういった理由にせよ、ヴェイクから向けられる無償の愛にも似た優しさはただただ嬉しく、心地よく、全身に染み渡るようだった。「ラストブレイブ」でも彼は人格者として多くの人々に慕われていたが、ヴェイクを慕いその背中についていきたいと言った彼らの気持ちがよく分かる。
「また何かあったら相談してくれ。力になるぜ」
どん、と自分の胸板を叩いたヴェイクに控えめに、けれど確かに頷いて応えた。そうすれば彼は満足げに口角を上げる。
そこで一度会話が途切れる。どこかへ向かう途中だったのではないか、と気を遣いその場を離れようとしたのだが、それを引き留めるようにヴェイクは再び口を開いた。
「ああ、そうだ。そういや今、あの人が来てるんだろ? ほら、嬢ちゃんのお師匠さん」
思わぬ話題を振られて、私は数秒固まった。
なぜお師匠が今王都にいることをヴェイクが知っているのだろう。そのことを知っているのは私とアルノルトだけのはずだ。隠すようなことではないから口止めしていないが、アルノルトが話したとも考えにくい。彼がべらべらと話すような人ではないのはもちろん、はっきり言ってそこまで親しいわけでもないヴェイクに話す、なんてことはないだろう。
だとすると、可能性としては。
「え、ええ。もしかしてお師匠……ベルタとお知り合いですか?」
お師匠とヴェイクは昔からの知り合いで、お師匠から王都を訪れる旨を連絡したのではないか。
しかしその可能性はヴェイクが首を左右に振ったことにより、あっけなく否定された。
「一方的に俺が知ってるだけだ。俺がシュヴァリア騎士団に来た頃にはもう、お師匠さんは王属調合師をやめてたからな。ただ凄腕の調合師がいたんだって噂は何度も聞いた。エメの村に行ったとき挨拶できるかと思ったんだが、留守にしてたみたいでな」
お師匠の現役時代の話を聞いたことはないが、やはり城内でも有名な存在だったらしい。なにもかもをなくし、失意の果てにこの場所を去った高名な調合師は多くの人々の噂の的だったのだろう。
「どなたからかお聞きになったんですか?」
王城はお師匠の古巣だ。古くからの知り合いもまだいるだろうし、その人物からヴェイクは話を聞いたのだろう、と見当をつけて尋ねてみる。するとそれは正解だったようで、ヴェイクは大きく頷いた。
「ああ。カスペルから聞いてな」
――しかしヴェイクの口から出てきた言葉は、予想もしていなかった名前だった。
カスペル。カスペルとは、私の上司であるカスペル・クラーセンだろう。同名の人物は確かいなかったはずだ。
それは瞬時に理解できたのに、カスペルさんとお師匠が結びつかない。もしかするとカスペルさんは見た目以上に歳を重ねていて、お師匠の現役時代の新人調合師だったとか、勉強熱心だったカスペルさんが隠居後のお師匠を追いかけていったとか――
「久しぶりにお師匠さんが王都に来るんだから顔ぐらい見せたらどうだって言ったんだが、あいつ、頑なに頷かなくてな。ああ見えて結構頑固なところあるんだよな。なぁ、兄弟子になにか言ってやってくれよ、嬢ちゃん。せっかくの師弟なのに仲が悪いなんて寂しいじゃねぇか」
――兄弟子。
間違いなく鼓膜を揺らした単語に私は固まる。
ヴェイクが言うには、カスペルさんのお師匠は私のお師匠でもあるベルタで、私にとってカスペルさんは上司であり――兄弟子だったらしい。