61:精霊の飲み水
探索十日目。
いつものように先頭にルカーシュとシャルルくんが立ち、その後ろを私、リナ先輩、チェルシーが行き、一番後ろからオリヴェルさんが全体を警戒する――という体制で探索を続けていた。
しかし今日も今日とて、一向に収穫はない。
「……明日また休憩を入れましょう。一日じゃなくて、複数日。本格的に調べなおしてみます」
毎日深い森の中を歩くという身体的な疲労はもちろん、一向に手がかりを掴めないことによる精神的な疲労も溜まってきている。何日か休憩を入れ、心身ともにリセットするべきだろう。
私の言葉に、オリヴェルさんが大きく頷いたのが見えた。情けない話、彼に肯定してもらえると正しい判断を下せたのだ、と安心する。
リナ先輩とチェルシーに情報収集を手伝って欲しいとお願いするため口を開こうとした、その瞬間。
「チェルシーさん、後ろ!」
――オリヴェルさんの声が鼓膜を劈いた。
反射的に目の前のチェルシーの背後に目をやる。すると茂みに鈍い光を認めた。魔物の鋭い目だ。
思わずチェルシーに手を伸ばす。そして掴んだ服の裾を力任せに引っ張った。それによってこちらに倒れこんでくる体を抱きとめるようにして支え、目線を上げる。すると期待通り、淡い緑の髪が目の前で揺れた。
「オリヴェルさん!」
ルカーシュの焦った声と共に、魔物の足元に勇者の紋章が広がった。かと思うとその紋章から発せられた眩い光があっという間に魔物を包む。
反射的に閉じた瞼を開けば、もう魔物の姿はなかった。
ほ、と誰もが安堵の息をつこうとしたのだが――すぐに新たな魔物が茂みから現われたことによって、それは叶わなかった。
「下がって!」
オリヴェルさんが再び応戦する。大きな牙を持った猪に似た姿の魔物は先ほどの魔物より体も大きく、オリヴェルさんの眉間に深い皺が刻まれた。すかさず私たちを守るように前に出たシャルルくんが魔法で援護したことで、戦況が些かこちらに傾く。
そのタイミングを逃さずルカーシュも参戦しようとしたのだろう、彼が魔物に近づこうとしたその刹那。もう一体の魔物が茂みからルカーシュに向かって突進するように現れた。
「ルカーシュ!」
思わず幼馴染の名を叫ぶ。茂みから出てきた魔物は他の魔物より更に大きな、獣型の魔物だった。
不意を突かれた形ではあったが、日々の鍛錬の賜物か、ルカーシュは茂みから飛び出てきた魔物の牙を何とか剣で受け止める。しかし14歳のルカーシュよりも二回り以上も大きい魔物に力で敵うはずもない。牙を受け止めたはいいものの、彼は魔物によって簡単に薙ぎ払われてしまった。
ルカーシュが体勢を崩す。――その先にあったのは、崖だった。
あ、落ちる。そう思った瞬間、私は魔物のことも忘れて彼の元へ駆け寄った。
「ルカーシュ!」
視線の隅で、オリヴェルさんが猪によく似た魔物を切り捨てたのが見えた。そしてすかさずもう一体の魔物――ルカーシュを薙ぎ払った魔物――に切りかかっていく。シャルルくんもまた、リナ先輩たちを守りつつもオリヴェルさんの援護をしていた。
ルカーシュは寸でのところで体勢を整え、なんとか崖に掴まることができたようだ。しかし自身の重みにずるずると崖にかけた手が滑り落ちていく。その手が完全に崖から落ちる寸前、ようやく彼の元にたどり着いた私はルカーシュの手を掴んだ。
「手を離して! ラウラまで落ちる!」
「そんなこと出来る訳ないでしょ!」
馬鹿なことを言い出した幼馴染を叱るように声を張り上げた。
じわり、と額に汗が浮かぶ。私一人ではルカーシュの体を崖上まで引き上げるのは不可能だ。誰か助力を、と考えて、しかしそれも今は難しい状況にある、と絶望的状況に歯を噛み締めた。
オリヴェルさんは巨大な魔物と交戦中、シャルルくんはリナ先輩とチェルシーを護衛中。万が一シャルルくんたちが私たちを助けようと駆け寄ってきてくれたとして、オリヴェルさんと交戦している魔物に狙いを定められる可能性がある。それに他の場所に魔物が潜んでいるとも限らない。つまりは今、誰も迂闊に動けない状況だ。
ならばオリヴェルさんが魔物を退治するまでどうにか――と思ったものの、じわりじわりと手の中からすり抜けていくルカーシュの手に心臓がバクバクと鼓動を刻む。頭が働かない。この場を切り抜ける案が何も浮かばない。
ただ一つ分かるのは、この手を離してはいけない、ということだけ。
「ラウラ、手を離せ!」
「絶対嫌!」
いつもより低い、怒ったような声音。そして荒い言葉遣い。
ずるずると、掴んでいるはずのルカーシュの手がすり抜けていく。思わず前に乗り出し、両手で幼馴染の手を掴んだ――その瞬間。
ぐらり、と体が前に傾いた。足元の地面が崩れたのだと気が付いた時にはもう、私たちの体は暗闇へと吸い込まれていくように落ちていた。
「ラウラ――!」
鼓膜を揺らしたのはチェルシーの悲痛な叫び声。
ぎゅっとルカーシュに抱き寄せられたのが分かった。
***
――ぴちゃり。
目元に落ちてきた水滴で、私は覚醒した。
ゆっくりと瞼を上げる。目前には青色の衣服。そこでルカーシュに抱きしめられる体勢で倒れていることに気が付いた。
「ルカーシュ!」
「う、ううん……」
慌てて未だ意識のない幼馴染の顔を覗き込む。
彼は眉間に皺を寄せて、額には脂汗が浮いていた。出血している様子はなかったが、体を大きく打ち付けたのではないか。
持ってきた鞄が近くに落ちていないかと慌てて辺りを見渡した。あの鞄の中には回復薬が入っているのだ。
幸い、探し物はすぐ傍に落ちていた。慌てて駆け寄ると中身を確認する。ほとんど容器が割れ中身がこぼれてしまっていたが、ひとつだけ無事な回復薬を見つけた。そこまで強い効力のものではないが、応急処置には充分のはずだ。
近くの葉を適当にちぎって、回復薬の容器を拭いた。毒薬とは別の鞄に入れていたから、この容器を濡らしているのはこぼれた他の回復薬であると分かっていたが、それでも念のためだ。
しっかりと水分をふき取った後、念には念を、と服の内側の裾で飲み口を拭う。そうしてようやく準備を整えると、回復薬をルカーシュに処方した。
ゆっくり、ゆっくりと瞼が開かれ、青い瞳が現れる。その瞳が私をとらえた瞬間、「なんで!」と幼馴染は飛び起きた。
「なんで手を離さなかった!」
「っなんで手を離せなんて言ったの!」
反射的に言い返す。
真正面から睨み合う形になって、先に目を逸らしたのはルカーシュの方だった。俯いた幼馴染は、ぐっと拳を握りしめる。
「こうして二人とも無事だったからよかったものの、もしラウラになにかあったら……」
ぐ、と下唇を噛み締めるルカーシュ。言葉尻を濁した彼だったが、続けるならば私に何かあったらみんなが悲しむ、といったところか。
心配してくれていることは嬉しかったが、その言葉はルカーシュにも当てはまる。
「それこそ私としてはルカーシュに何かあったら、だよ」
そう返せば、ルカーシュは押し黙った。
――今思えば、未来の勇者様であるルカーシュがこんな場所で死ぬはずがない。実際それなりの高さの崖だったようだが、生い茂る木々がクッションになってくれたのか、私もルカーシュも致命的な怪我は負わずに済んだ。
未来の勇者様という存在自体が生存フラグなのだ。何せ彼は、本編に一番欠かせない存在なのだから。先ほどは冷静さを欠いてこの世界の大前提にすら思い至れなかった。
幼馴染の危機に慌ててしまったといえば聞こえはいいが、イレギュラーな場面こそ前世の記憶を活かせるようにならなくては。
ようやく落ち着きを取り戻してきた思考で、今何をするべきか改めて考える。少なくとも言い争っている場合ではない。まずは――
「とにかく、オリヴェルさんたちと合流しよう」
何よりもそれが先決だ。ルカーシュに肩を貸し二人で立ち上がる。
ルカーシュと行動を共にしている点から、無事に森の外に出られることは確定しているようなものだが、それにしてもここからどうやってオリヴェルさんの元へ向かえば良いのか。言い出したはいいものの、途方に暮れて目の前に広がる森を凝視し――大きな切り株を見つけた。
大樹のものと思われるその切り株の根元には、白の花が一輪咲いている。この森で花を見るのは初めてだ、と思い――瞬間、“思い出した”。
「待って、この道……」
見覚えがある。精密なグラフィックによって描かれた風景が、脳裏に蘇る。
そうだ、「ラストブレイブ」でこの道を私は通った! 間違いない。そしてこの先には――
「ルカーシュ、こっち!」
いきなり足を進め始めた私に驚きつつも、私に肩を借りているルカーシュは言われた通りに進むしかない。
不自然に開かれた木々の間を行く。まるでそれは、“プレイヤー”を導く道のようだった。
私の記憶が正しければ、そして「ラストブレイブ」とこの森の構造が全く同じなのであれば、この道の先には湧き水が湧いている。そこは収集ポイントとなっており、調べれば――アイテム・精霊の飲み水を入手することができたのだ!
もしかすると、という期待から速まりそうになる歩調を自覚し、意図してゆっくりと確実に地面を踏みしめる。しかしルカーシュが左目を手で押さえたことによって、足が止まった。
「ぐ、ぅ」
「どうしたの!?」
「左目が熱い……」
その言葉に慌ててルカーシュの顔を覗き見る。すると明らかに勇者の紋章が光を発していた。
記憶を掘り起こしたが、ゲームでこのような描写はなかったはずだ。何かに共鳴しているのだろうか。それとも勇者を導こうとしているのだろうか。
「ルカーシュ、ごめん。もう少しだけ頑張ってくれる? そうしたら休憩しよう」
顔を覗き込んだまま言う。本来であれば今すぐ休憩するべきなのだろうが、精霊の飲み水があった場所までは本当にあと少しなのだ。そこまでたどり着ければ、もしかしたら傷を癒すこともできるかもしれない。
ルカーシュは私の言葉に苦し気に微笑む。それを答えとして受け取り、再び歩き始めた。
不意に木々が開けた場所に出る。まるで人の手が加えられたかのようにここ一帯だけ木々がない。いや、正確には他の木々とは明らかに違う大樹――幹の太さが桁違いだ――がそびえたっており、その大樹を中心に周り半径十数メートルほどは一切木々がなく、まるで自然の広場のようになっている。また木々の代わりと言わんばかりにぽつぽつと白や青の花が咲いており、それがいっそう誰かの手によってこの場が整えられたのではないか、と思わせる一因になっていた。
実際この場は神様によって作られた場所であるのだが、そんなことは今はどうでもいい。私は隣で息を飲むルカーシュを気にかけつつも歩き出した。
立派な幹がぼこぼこと地面に段差を作っている。それに足を取られないよう気を付けつつ、確実に一歩ずつ根本へと近づいていく。
そこには――
「……あった」
湧き水が湧いていた。