60:空回り
――ルカーシュ、リナ先輩、チェルシー、オリヴェルさん、そして私の5人はトビアさんが精霊の飲み水を見つけたという例の森の入口に立っていた。
「これは、なかなか……迷いそうですね」
ぽつり、と零すオリヴェルさんの言葉に頷いた。
想像していたよりもずっと深い森だ。そう遠くまで見渡すことができない。気を付けなれば迷ってしまいそうで、ぐっと緊張感が高まる。
私は“私”の記憶を探ってみるが、流石に森の中のマップを丸暗記しているはずもない。中でもこの森のダンジョンは構造が複雑で、途中で分岐がいくつもあるのだ。ある程度まで行けば、精霊の飲み水まで一本道で行けた覚えがあるが――
「隊長ー! 遅れて申し訳ありません!」
背後からの大声に、びくっと肩が跳ねた。
慌てて振り返れば、初めてフラリア駐屯地を訪ねた際、出迎えてくれた少年がこちらに駆け寄ってくるところだった。彼はオリヴェルさんの元に――ではなく、私の元に駆け寄ってくると、肩で息をしながら口を開いた。
「シャルルであります! シュヴァリア騎士団の駆け出し魔術師です!」
そう言って勢いよく頭を下げた。駆け出し魔術師、という肩書には少々驚いたが、やはり彼はシュヴァリア騎士団に所属していたようだ。
この状況からして、彼も探索に同行してくれる、と考えてよいのだろうか。どちらにせよ自己紹介をしてくれたからにはこちらも返すべきだろう、と思い口を開く。
「王属調合師助手のラウラです。こちらが王属調合師見習いのリナ・ベーヴェルシュタムとチェルシー・ガウリーです。それで彼が私の幼馴染のルカーシュ・カミル。よろしくお願いします。えっと……シャルルくん?」
「お噂は聞いているであります! よろしくお願いします!」
ニパッと歯を見せて笑うシャルルくん。その純粋すぎる笑顔が眩しい。
私とシャルルくんの会話が一段落したところを見計らって、オリヴェルさんが後ろから声をかけてきた。
「シャルル、目印をお願いします」
オリヴェルさんの言葉にはい! と元気よく頷いたシャルルくんはすぐ近くの木に触れた。かと思うと、彼が触れた部分がポゥ、と光る。なるほどその光は暗闇の中で目印になりそうだ。
まじまじとその目印を見つめながら、私に思い至れなかった部分をオリヴェルさんが補ってくれたのだ、と情けなさが胸底に募る。毒薬や回復薬にばかり気をとられて、森での探索の仕方には全く気を回せなかった。経験の違いと言ってしまえばそうだが、こうなるとやはりオリヴェルさんのお力を借りられてよかった、と心から思う。
「ルカーシュくん、先頭お願いできますか。シャルルも彼の隣に立って、小まめに目印をお願いします。僕は最後尾につきます」
オリヴェルさんの言葉にルカーシュは頷いて私の前に立った。
先頭にルカーシュ、その隣にシャルルくん、数歩下がって私、その両隣にリナ先輩とチェルシー、そして少し離れた最後尾にオリヴェルさん。その並びで早速探索を始めた。
ひとまず真っすぐ、出来るだけ歩きやすい道を行く。シャルルくんはオリヴェルさんからの言いつけ通り十数歩毎に近くの木に触れ、これだけつければ絶対に迷うことはないだろう、と確信するほどの量の目印をつけていった。
――探索を始めること、体感時間1時間ほど。
「見つかりませんね……」
先頭を行くシャルルくんの口からこぼれた言葉とため息。その言葉に額に浮かんだ汗を拭きながら同意した。
歩けども歩けども、視界に入ってくるのは木、木、木。魔物との遭遇もないが、水音が鼓膜を揺らすこともなかった。
なんのあてもなく森の中を彷徨い歩いているのだから、簡単に見つかるはずがないと覚悟はしていた。けれど先ほどから頻繁に大樹の根っこに足を取られるあたり、疲労が溜まってきている自覚がある。どこから魔物が飛び出てくるかもわからない状況で、足元の悪い中を1時間も探索するというのは、こういった経験が少ない人からしてみれば過酷だ。
「皆さんお疲れでしょうし、深追いはせず、今日はこのあたりにしておきましょうか」
オリヴェルさんの言葉に、両隣のリナ先輩とチェルシーが安堵のため息をついたのが分かった。
正直オリヴェルさんはともかく、他の四人は傍から見ても明らかに疲弊している。疲労が溜まればその分危険も高まる。彼の言う通り、深追いするのは避けるべきだろう。
オリヴェルさんの言葉に頷いて、フラリアへ帰るべくシャルルくんがつけてくれた目印を辿って行った。
***
探索開始から二日目。
成果なし。
三日目。
成果なし。
四日目。
休息を挟む。
五日目、六日目――休息を挟み本日、九日目。
成果なし。
(どうしよう……)
一日一時間以上の探索を続けているが、成果は全く得られていない。情報がないのだから仕方がない、と誰もが励ますように口にしたが、しかし流石に焦りが生まれ始めていた。
その焦りから私はここ数日、探索後に毎日図書館に寄り、本を数冊借りてきては何か新しい情報はないかと目を通している。正直王都の図書館の方が何倍も大きく、所蔵している本の冊数も桁違いだが、ここは精霊の飲み水伝承の“地元”だ。王都には伝わっていない新しい情報はないかと、夕食後からずっと探しているのだが――未だこちらも収穫ゼロ。
ちなみに借りている客間にいると疲労からすぐに眠ってしまいそうなので、いつも夕食後の食堂をお借りしている。
(やっぱり目新しい情報は何もない。もう一回トビアさんを訪ねてみるか……でも精霊の飲み水までの道のりについては、全く分からない様子だったし)
一度本から目線を上げて、はぁ、と大きくため息をつく。――と、いつの間にそこにいたのやら、食堂の入口でこちらの様子を窺っているルカーシュと目が合った。すると彼はこちらまで大股で歩み寄ってくる。
「ラウラ、今日もまだ起きてるの?」
「先に寝てていいよ。もう少し調べものしたいから」
もうそんな時間か、と内心驚きつつも、不安げに顔を覗き込んでくるルカーシュに安心させるように微笑んだ。彼は私よりもずっと疲れているはずだ。常に先頭に立ち、魔物の襲撃に警戒していたのだから。
私の言葉にルカーシュは痛ましげに眉根を寄せたけれど、長年の幼馴染なだけあって、ここでどうこう言っても私が大人しく部屋に帰るはずがないと分かっているのだろう。実際先日も似たような会話をした覚えがあるが、私が部屋に戻ったのはルカーシュがすっかり眠った後だ。
彼は「無理はしないでね」と強めの口調で言うと、食堂から出ていった。
再び一人になった食堂で、はぁ、とため息をこぼす。正直心は折れかけていたが、もうひと踏ん張りしてみよう、と再び借りてきた本を手にとった。
どんな些細な情報でもいい。絶対に見逃さないように、本を隅から隅まで読み込んで――
「――ラウラさん」
不意に名前を呼ばれてぱっと顔を上げる。そこにはエミリアーナさんの母・ルイーザさんが立っていた。
彼女は手にトレイを持って穏やかに微笑んでいる。トレイの上には繊細な模様が描かれた美しいティーポットと、おそろいのティーカップがのせられていた。
「メフィリーリエの蜜を入れた紅茶を飲んだことはありますか?」
「い、いえ……」
「でしたらぜひ。体が温まるんですよ」
突然のことに面食らっている私を気にも留めず、ルイーザさんは優雅な手つきで紅茶をカップへ注いでいく。瞬間、ほっとする甘い香りが鼻孔をくすぐった。
ティーカップとミルクを差し出してくれたルイーザさんは、私がそれに手を付けるよりも先に再び口を開く。美しい形をした唇が紡いだ言葉は、想像していなかったものだった。
「根を詰めすぎるのはあまりよくありませんよ」
「え……」
「熱心なのはいいことですが、それで体を壊してしまっては元も子もありませんからね。……優しい幼馴染さんも、心配されていましたよ」
その言葉に、おそらくはルカーシュがルイーザさんに相談したのだろうと悟る。自分が言っても聞かないなら、せめて紅茶を飲んで少しでも体を休ませろ――もしくは体を温めて早く寝てしまえ、といったところか。
もしくはルカーシュはただ言葉で相談しただけで、紅茶を持ってきてくれたのはルイーザさんの厚意かもしれない。
「……紅茶、頂きます」
手元のティーカップに口を付ける。途端、口の中に広がる優しい甘さ。飲み込むと、ほう、と口から思わずため息が出た。
「おいしいです」
「それはよかった!」
ほわ、と嬉しそうに微笑むルイーザさん。その笑顔はエミリアーナさんによく似ていた。だからだろうか、北の大地で今も励んでいるだろう友人の顔を思い出して、ルイーザさんに対しどこか構えていた心がするすると解けていく。
「すみません、毎日こんな遅くまで……」
「そんな、お気になさらないでください。エミリアーナが随分とお世話になりましたから、そのお返しです」
そう言いながらルイーザさんは私の隣の椅子に腰かけた。そして私の手元を覗き込むと、首を傾げる。
「調べものですか?」
「ええ、そうなんですけど……あんまり順調ではなくて」
恥じ入るように言えば、ルイーザさんは何か言葉を探すように視線を彷徨わせた。しかし再びその青い瞳は私をとらえる。その瞳は存外、強い光をたたえていた。
「だからこうして夜遅くまで? おひとりで? どなたかに頼ったりは……」
「私が無理を言ってみんなに付き合ってもらってるので。それに、みんな疲れてるでしょうし」
私の答えにルイーザさんは眉尻を下げる。悲しんでいるような表情だった。
「それはラウラさんも同じでしょう」
「ううん、でもやっぱり、私がやらないと」
アルノルトに前準備を全てしてもらい、優しい幼馴染・ルカーシュに無理を言って頼み、遠征研修だと言って関係のないリナ先輩とチェルシーを巻き込み、ヴェイク、そしてオリヴェルさんの厚意に甘えている。これ以上ないくらい、既に私は周りの人たちに頼り切っているのだ。だったらこれぐらいは自分でやらないと――いや、自分の仕事だと思った。
そこで、だんだんと襲い来る睡魔を自覚した。体が温まったせいだろうか。不安と緊張で知らず知らず強張っていた体から力が抜けたのか、酷使した足も筋肉痛に似た鈍い痛みを訴え始めている。
疲れているのだろう。単純に。
――こちらを見つめてくる青の瞳に思い出したのは、アネアでの張り詰めた日々だった。今の私の状況としては、もしかするとあの時に似ているかもしれない。じわりじわりと焦燥感に精神を蝕まれていく感覚には覚えがあった。
「ただ、少し……疲れちゃったかもしれません」
その言葉を誰よりも付き合いが長いルカーシュではなく、ルイーザさんにだけ吐露できたのはなぜだろう。そう考えて――彼女も私に力を貸してくれている人の内の一人だが、ルカーシュたちに抱いてしまっている「一方的に私だけが力を借りている、こちらは何も返せていない」といった後ろめたさは感じていないことに気が付いた。彼女たち含めこの屋敷の人々はみな、私がしたことの「お返し」だと言って手を貸してくれているからだろうか。
私が思わず口にしてしまった言葉に、ルイーザさんはなぜかとても嬉しそうに目を細めた。その表情の意味が分からず、私は首を傾げる。すると彼女はまるで母のような慈愛に満ちた表情で、そして母が子供に言い聞かせるような柔らかな声音で言った。
「……何も知らない私が無暗に口を出すことではないと分かっていますが、ひとつだけ。あなたが思っているよりずっと、ラウラちゃんは周りの人に愛されているはずですよ」
「え?」
「カスペルさんやアルノルトさんから、くれぐれもよろしく頼むとわざわざ事前にお手紙をいただいたんです。あとラウラちゃんが図書館に寄っている際、オリヴェルさんが疲れているだろうからとメフィリーリエの蜜を持ってきてくださいました。それと先ほどリナさんとチェルシーさんが、ラウラちゃんがずっと調べものをしていて心配だから、体が温まる紅茶の淹れ方を私に教えて欲しいと」
今こうして飲んでいる紅茶はリナ先輩とチェルシーが淹れてくれたもので、紅茶の中に優しく溶けているメフィリーリエの蜜はオリヴェルさんが差し入れてくださったものだったのだと、ルイーザさんの表情で分かった。それにまさか、カスペルさんとアルノルトがフラリア支部の支部長にならまだしも、ルイーザさんにまで手紙を送っていたなんて。
「それと――」
ルイーザさんは椅子から立ち上がる。そして食堂の入口を振り返った。――そこにはすっかり寝たとばかり思っていたルカーシュが立っていた。
「ラウラ、今日はもう寝よう」
そう言って右手を差し出してくる。気が付けば、私は椅子から立ち上がりその手を握っていた。
そこで机の上に置いてきてしまった本の存在を思い出す。慌てて振り返れば、本を手に持つルイーザさんが笑顔でこちらに手を振ってきた。そして彼女の唇が「任せてください」と音もなく言葉の輪郭をなぞる。
ぐい、とルカーシュに繋いだ手を引かれた。私は咄嗟に頭を下げる。すると彼女は嬉しそうに目を細めて頷いた。
長い廊下をルカーシュに手を引かれながら歩く。おそらく彼は、ルイーザさんと私の会話を聞いていたのだろう。若干の気まずさを感じていたら、ルカーシュは小さなため息の後、口を開いた。
「疲れたら疲れたって言って欲しいよ。ラウラが一人で全部抱え込んじゃったら、僕は何のためについてきたのか分からない。もっと頼って欲しい」
「うん、ごめん……」
あまりに切実な物言いに、そして何もかもを見透かしたような言葉に、私はただただ反省する。
これだけ力を借りているのだから、これ以上周りに甘えては駄目だと勝手に自分で線を引いて、結果的に更に心配をかけてしまった。ルカーシュだけでなく、オリヴェルさん、リナ先輩、チェルシーにも。
それと同時に彼らの姿が脳裏に浮かぶ。彼らは誰一人としてこの苦しい状況でも、言い出しっぺである私を責めるようなことを言わなかったどころか、私を励ますように笑ってくれたではないか。勝手に私が一方的に力を借りていると罪悪感を抱き、自分だけでこの膠着状態の打開策を見つけなければと焦っていた。
こんなの、一人で空回っていたようなものだ。
「ラウラは頑張りすぎるところがあるから心配だって、昔から言ってるのに」
ルカーシュの不満そうな物言いに苦笑することしかできない。それから思い出す。過去に似たようなことを言われたことがあったな、と。その時は自分はそのような心配をされる人間ではない、とルカーシュの忠告をうまく呑み込めずにいたが――
今回ばかりは認めよう。私は頑張りすぎるきらいがあるようだ。もっと正確に言えば、追い詰められると視界が狭くなり考え方も固くなる。今回は「自分がこの研修の責任者なのだから、どうにか自分で打開方法を見つけなければ」と強迫観念にも似た思考で自分を追い詰めてしまった。
責任感が強いと言えば聞こえはいいが、変なところで人に頼れない自身の不器用さにほとほと嫌気がさす。
「……ごめん、今の今まで全く自覚なかった」
「そう言うってことは、今回で自覚した?」
「……少し」
ルカーシュが振り返る。そして困ったように眉根を下げて微笑んだ。
「少しじゃ困るなぁ。ラウラに何かあったら、沢山の人が悲しむんだから」
そう言ったルカーシュの声はとても柔らかくて。
「うん、しっかり自覚する。……ありがとう、ルカーシュ」
――その日、私が眠るまでルカーシュはベッドの傍らに立ち、私の手を握って離さなかった。親に寝かしつけられるようでいくらか恥ずかしさを覚えたけれど、それ以上に手のひらに触れるぬくもりに安心して、なぜだかほんの少しだけ泣けてきてしまって。
意識が落ちる瞬間、おやすみ、と優しく囁く声が聞こえた。




