51:謝罪と約束
帰省7日目。明日の馬車で私は王都へと帰ることになっているから、実質休暇最終日だ。
さて一体最後の一日を何に使うかと考えて――お師匠の書斎から持ち出した手記の存在が脳裏に浮かんだ。やはりきちんと謝り、その上で貸してくれないかとお願いするべきだろう。このまま黙って王都に帰ってはお師匠に不誠実だし、何より気にかかって眠れなくなりそうだ。
私は普段よりも気合をいれて身支度をし、家を出た。手記を入れた小ぶりの麻袋もしっかり持って、いつもより重い足をどうにかこうにか必死で動かして。
それでも零れ落ちるため息に、一度足を止めた時だった。少し離れた先、見慣れた二つの人影があることに気が付いた。あれはルカーシュと――ペトラだ!
思わぬところに遭遇してしまった。私は気づかれないよう、邪魔をしないようこっそりと足音を忍ばせて歩き出そうとしたが。
「あ……っ」
しまった、ルカーシュと目が合った。
こちらに今にも駆け寄ってきそうな幼馴染を右手で制して、私の方から近づく。ペトラの元をルカーシュが離れて遠くで二人話すより、私がルカーシュとペトラに近づき彼女にも会話を聞かせることで、不要な心配や誤解を招かないだろうと考えてのことだ。
「ラウラ! どこに行くの?」
「お師匠のところにちょっとね。明日にはもう帰っちゃうし、二人で話したいことがあって」
二人で、という部分を強調して言う。すると一瞬ルカーシュの唇がすねるように尖った。場合によってはついてくるつもりだったに違いない、先手を打っておいてよかった。
ルカーシュの肩越しにペトラと視線が合う。彼女はどこか気まずそうに微笑んだ。邪魔者は早く退散するとしよう。
「ペトラも、またね」
私の言葉にルカーシュがペトラを振り返った瞬間、口だけの動きで「頑張って」と伝えてみた。すると彼女は頬をわずかに赤らめて頷く。伝わったようだ。
早く二人の元を離れようと自然と駆け足になる。すると当然、お師匠の家にも近づくわけで。体が覚えてしまっているのか、気が付けば私はお師匠の家の前に立っていた。
ひとつ、大きく深呼吸。何度かノックしようとして、躊躇う。それを数度繰り返し、このままでは日が暮れると半ばやけくそになって、古びた扉を勢いよくノックした。
「お、お師匠―?」
声が裏返った。咳払いをして、喉の調子を整える。――とっくに喉はカラカラだったが。
私の呼びかけに、お師匠は寝室の方からひょっこり顔をのぞかせた。
「おお、ラウラか。お主、明日帰るんじゃろう」
「そうです。それでなんというか、ご挨拶に」
「ふぉっふぉ、相変わらず堅苦しい弟子じゃのう。ほれ、餞別じゃ」
投げるように渡されたのは一冊の古ぼけたノートだった。一瞬落としそうになったそれをどうにかこうにか受け取ると、数頁めくってみる。そこには見慣れたお師匠の字で、何やら調合方法がびっしりと書かれていた。
回復薬の調合メモかと思ったが、材料の欄を見てそれは違うと考えを改めた。なぜなら材料の欄に書かれていたものがほとんど毒薬だったからだ。
「これは?」
「ベルタ作! 毒薬の調合ノートじゃ。一時期毒薬の調合に凝っていた時期があってのう」
お師匠の毒薬調合ノート。その存在に驚きつつも、何やら物騒な言葉が聞こえた気がして、目の前のお師匠をおずおずと見上げる。
「……罪は犯してませんよね?」
「犯しとらんわ! 失礼な弟子め! 回復薬の調合と同じく、毒薬の調合も奥が深いんじゃ。単純な知的好奇心じゃ。……何かと巻き込まれるお主には、役に立つじゃろう」
どうやら私を心配してくれてのことらしい。お師匠の気遣いがじんわりと胸に広がった。その一方で、右手に持っている麻袋に包んだ手記がいっそう重みを増したように感じた。
じくじくと良心が痛む。やはりこのまま黙って持ち出すわけにはいかない。
私は緊張から震える足でぐっと地面を踏みしめて、口を開いた。
「ありがとうございます! ……あの、お師匠」
ん? と首を傾げたお師匠に、大きく腰を折って麻袋をそのまま差し出した。
頭上でお師匠が首をかしげた気配がしたが、情けなくもとても顔があげられるような状態ではなく、私は古びた床を凝視しながら言葉を続ける。
「黙っててすみません! これ、一昨日お師匠の書斎から見つけちゃって……!」
ふ、と手にかかっていた重みがなくなった。お師匠が麻布を手に取ったのだろう。
カサリ、と控えめな布こすれの音が鼓膜を揺らす。手記を出したのだ。そして続いて聞こえてきたのは、頁をめくる音。その間お師匠は一言も発さなかった。
耳に痛いぐらいの沈黙。長い長い、永遠にも感じられる沈黙。それを破ったのは、お師匠の深いため息だった。
――呆れられた。
せりあがってくる何か、を抑え込もうと私はぐっと下唇を噛み締めた。
「……お主、馬鹿じゃのう。黙って持ち出せばよかったじゃろうに」
予想していたよりもずっと優しい声音に、思わず顔を上げた。
するとしょうがない奴め、と苦く笑うお師匠と目が合う。その赤の瞳には、私の思い上がりでなければ、弟子に対する慈愛のような感情が浮かんでいた。
ほっとしたのもつかの間、とにかく謝罪を重ねようと口を開く。
「黙って持ち出したら、ずっと、ソワソワしちゃいそうで……本当にすみません」
馬鹿正直に言えば、お師匠はふ、と笑った。確かに笑ってくれた。
どっと強張っていた体から力が抜ける。あからさまに安心した顔を見せた私にお師匠はとうとう声を上げて笑って、それから手記をこちらに差し出してきた。
「持っていけ。役に立つじゃろう。……じゃが、そのことについては、少しだけ時間をくれんか」
緩んだ空気が再び張り詰める。
そのこと、とは手記に書かれていることで間違いないだろう。やはりこれは、お師匠が書いたものなのか――
そこまで考えて、数度かぶりを振って思考を振り払った。お師匠がいずれ話してくれるというのだ、無暗に詮索するのはやめよう。
私が言葉なく頷くと、お師匠はふと瞼を伏せた。
「黙っとって悪かったのう。じゃが……わしとしても、あまりいい過去ではなかったんでな。近いうちにそういった場を設けよう」
今まで見たことのない、憔悴しきったお師匠の姿に動揺してしまい、気の利く言葉ひとつかけられない。情けない弟子だと己を叱咤しつつ、ひとつ、お師匠に尋ねたいことがむくむくと胸の内で首を擡げ始めた。尋ねたいこと、というよりお願いしたいこと、といった方が適切か。
この場でそれを伝えるのは躊躇ったが、今を逃すとずるずるとタイミングを逃し聞けなくなりそうで、おずおずと口を開く。
「あの……その場に私以外の人を呼んでもいいでしょうか」
できるならアルノルトもその場に呼んで一緒に話を聞きたい。
お師匠は誰を呼びたいのか尋ねることもせず、ただ頷いた。
「お師匠、す……ありがとうございます」
一瞬謝罪の言葉を口にしようとして、それよりも感謝の言葉の方が適しているだろうと大きく頭を下げる。それにお師匠は反応を見せず、「少し外の空気を吸ってくる、留守番は頼んだぞ」と私の横を通り抜け、小屋を出ていってしまった。
一人残された私は、思わず傍らにあった椅子に勢いよく腰かけた。ギィ、と椅子が悲鳴を上げたが、正直気にかけてやれるほどの余裕や体力は残っていない。
私はお師匠から改めて渡された手記を見やる。帰りの馬車の中でじっくりと読み込んで、王都についたらアルノルトにも相談してみよう。
そう考えつつ、お師匠が出ていった扉をしばらくぼうっと眺めていた。