39:エルヴィーラ・ロコ
風の気持ちいいよく晴れた日だった。――私は今日、とうとうエルヴィーラと対面する。
アルノルトが魔物の角を手に入れてすぐ、実家のエルヴィーラを王都に呼び寄せたらしい。魔物の角が腐る前に、と急いだのだろう。アルノルトが王都に帰ってきてからそう日をおかずに、今日はやってきた。
今日一日、ずっと落ち着かなかった。調合をしようにもついぼうっとしてしまい、薬草を一つ無駄にしてしまったため早々に座学に切り替えた。魔物の角の調合法をどうにかこうにか編み出すためだ。エルヴィーラが来ると聞いて、それまでに何パターンか調合法を考えておこうと思っていたのだ。
見習いから助手になって、教育係がいなくとも1人で調合を行えるようになった。それに、一番小さい調合室を私用にと割り振られている。この部屋は私の作業部屋――城だ。
終業のチャイムがなる少し前、城の扉が叩かれた。扉を叩いた人物には心当たりしかない。アルノルトだ。
扉をあければ予想通り、黒の瞳が私を見下ろした。しかし予想とは違い、その表情はどこか険しかった。愛しの妹と会うのだから、てっきり穏やかな顔をしているとばかり思っていたが――
「師匠がエルヴィーラの付き添いで来ている、顔を見せてやってくれ」
ため息混じりに落とされたその言葉に、アルノルトの表情の訳を悟った。
アルノルトの師匠。緑の長い髪を持った、とてもとても美しい女性――メルツェーデスさん!
私に王属調合師の道を明確に示してくれた人だ。そして同じ師匠を持つ、兄弟弟子という関係でもある。
優しい笑顔を思い出して、期待に自分の頬が赤らむのを感じた。久しぶりにメルツェーデスさんと会えるなんて、思わぬ展開だ。
ぜひ! と大きく頷けば、アルノルトは深いため息でそれに応えた。
アルノルトについて王城を出る。城門の前に、その人はいた。しかしその傍に他の人影――エルヴィーラと思われる姿は見られない。宿屋に預けているのだろうか。
風に揺れる長い髪に、そして整った美しい横顔に見惚れていると、不意にその顔がこちらを向く。宝石のようにキラキラと輝く赤の瞳が、にっこりと細められた。
「ラウラちゃん!」
「メルツェーデスさん、お久しぶりです!」
久しぶりに会ったアルノルトの師匠兼私の兄弟弟子であるメルツェーデスさんは、相変わらず老いを感じさせない美しい人だった。最後に会ったのは確か、アルノルトの試験に同行した時であるから――今から2年ほど前になるか。
メルツェーデスさんは私の両頬をふわりと手のひらで包み込むと、まじまじと見つめてきた。
「あらあらまぁまぁ、美人さんになったわねぇ! ……ねぇ、アルノルト?」
「……エルヴィーラは今どこにいる」
ニヤニヤとアルノルトの小脇を肘でつつくメルツェーデスさん。そんな師匠を胡乱な目で睨みつけるアルノルト 。以前から思っていたことではあるが、アルノルトのメルツェーデスさんに対する態度は、師匠に対するそれとは思えない。
しかしメルツェーデスさんは失礼な弟子の態度を特に咎めるわけでもなく、それどころかいつものことのようにはぁ、と態とらしく呆れてみせた。
「久しぶりのお師匠様に挨拶もないのかしら? ……宿屋よ。長旅で疲れちゃったようだから、オリヴェルに見てもらってるわ」
オリヴェル。不満げな口調でメルツェーデスさんの口から飛び出た名前に、私は僅かに目を丸くする。
シュヴァリア騎士団の副団長と同じ名前だ。同じ名前の他人か、もしくは同一人物か。私には判断しかねたが、もし同一人物だとしたら一体どういった繋がりがあるのだろう。
脳裏に私の知っているオリヴェルさんの姿を思い浮かべる。淡いパステルグリーンの髪に、エルフの証である尖った耳。見下ろしてくる瞳の色は――
そこで、はたと思い至る。
メルツェーデスさんと容姿の特徴がよく似ている、と。
「……あの子を呼び寄せて、こうしてラウラちゃんと会わせるってことは……お願いしたのね?」
アルノルトは頷くことはせず、しかし目線を僅かに伏せた。そして私をちらりと一瞥する。目が合ったのはほんの一瞬だった。
アルノルトが私にお願いしたこと。それ即ち、エルヴィーラの件だろう。当たり前というべきか、師匠であるメルツェーデスさんはエルヴィーラのことを知っているようだ。
「ラウラちゃん、見返りは求めた?」
「へっ?」
「あなた、相当困難なことに巻き込まれそうになってるのよ。見返りの一つや二つ、もらわないと割に合わないわ!」
思わぬ言葉に、私は思わず苦笑しかけて――メルツェーデスさんの真剣な瞳に上がりかけた口角をとめた。
エルヴィーラを助けることは、ひいてはこの世界を救うことになる。それを考えれば見返りを求めることなんて、思いもしなかった。
しかし馬鹿正直にその理由を告げるわけにはいかず、
「い、いえ、そんな見返りなんて……調合師の端くれとして、エルヴィーラちゃんの助けになれたらと……それだけなので」
綺麗事に包んだ誤魔化し半分、しかし確かな本心半分、その言葉を口にした。
数年後、この世界の人々の命を背負って戦う英雄たちに私ができる手助け。それは回復薬の調合と、エルヴィーラの件。私はこの世界にとってただの端役でしかないが、この世界のために、そして大切な人々のためにできる限りの事はしたい。
目の前の赤の瞳が大きく見開かれる。しかしすぐに三日月型に細められた。
不意にふわり、と鼻孔を甘やかな香りが刺激する。メルツェーデスさんによく似合う、花のような香りだった。
「いい子ね、本当。ラウラちゃんがこの馬鹿弟子の側にいてくれてよかったわ」
慈愛に満ちた表情、優しさに溢れた声音、甘やかな香り。なぜだろう、母親に甘やかされているような気分だった。
「アルノルトの師匠である私からもお願いします。どうかアルノルトに、そしてエルヴィーラに力を貸してください」
深く頭を下げられる。気がつけば、私は頷いていた。
きっとメルツェーデスさんにとって、弟子であるアルノルトはもちろん、エルヴィーラもとても大切な存在なのだろう、と何の根拠もないが分かった。一体どういった経緯で彼女がアルノルトの師匠になったのかは分からない。しかし、彼らの間には、師弟以上の絆――例えるならば、血縁のような濃い絆があるように私には思えた。
メルツェーデスさんもアルノルトも、そしてエルヴィーラもエルフだ。同じ種族にしか分からない、同じ種族にしか入り込めない絆もあるのかもしれない。
「でもアルノルト、あなた、近いうちにラウラちゃんを休ませてあげなさいよ。プラトノヴェナに出張してから働きづめでしょう」
メルツェーデスさんは私の両頬から手のひらを離すと、びしっとアルノルトの鼻先に指先を突きつけた。アルノルトはすぐさまその手を乱暴に振り払う。
「それは今カスペルさんに掛け合っている。近々長期の休暇をやれるはずだ」
それは初耳だ。
私は思わずアルノルトを見やる。すると彼は目の前の師匠にげっそりとした顔をして、それでもこちらを見て頷いてくれた。
確かにプラトノヴェナに発ってから、まともな休みをもらっていない。アネアでの避難生活は今思えば休暇とも言えるような日々だったが、常に気を張っており心身ともに休まるという状況ではなかった。
長期の休暇。どれくらいの日数かは分からないが、とりあえずはエメの村には絶対に帰省しよう、と固く心に決めた。
***
――王都の宿屋に、“彼女”はいた。
運悪く城門の前で先輩調合師に声をかけられたアルノルトを置いて――何やらアルノルトが所持している文献の貸し出しを申しつけられたらしく、一度王城に戻る必要があったからだ――メルツェーデスさんに手を引かれ、私は宿屋の一室に足を踏み入れた。その部屋にいたのは“私が知る”オリヴェルさんと、もう1人。黒い髪の小さな女の子、だった。
――ああ、彼女が、エルヴィーラだ。
どくん、と心臓が大きく鼓動を刻む。
女の子はベッドに腰掛けていたが、メルツェーデスさんの顔を見るなりこちらに駆け寄って来た。そしてメルツェーデスさんの衣服をぎゅっと握り込み、傍に立つ私を見上げる。
突然部屋にやってきた見知らぬ人間を警戒しているようだった。
「は、初めまして、エルヴィーラちゃん。私はラウラ・アンペールといいます」
にっこりと微笑んで、出来るだけエルヴィーラの警戒を解こうと試みる。
じっとこちらを見上げてくる黒く、つり上がった瞳。“私”が知るエルヴィーラよりずっと幼い。しかし一目見て、彼女が未来の英雄だと分かった。難病に冒されているとは思えないほど、強い意志を持った瞳をしていた。
未来の英雄との出会いに、心なしか興奮している。エルヴィーラは特にお気に入りのパーティメンバーだったのだ。彼女の魔法に何度助けられたことか!
口は固く閉ざした状態で、ただ見上げてくる黒の瞳に感じてしまった居心地の悪さを解消するためにも、私はしゃがみこんでエルヴィーラと目線を合わせた。そして友好の気持ちを分かりやすく表すために、右手を差し出す。
「……あ、あなたのお兄さんの、後輩です。いつも色々お世話になってます」
尚も見つめられる。口元が緩む様子もない。突き刺さる視線に気圧されつつ、それでも笑顔は崩さなかった。
そんな私に警戒心を解いた――ということはないのだろう。メルツェーデスさんに「ご挨拶は?」と促されて、ようやくエルヴィーラは口を開いた。
「エルヴィーラ」
それも、名前だけ口にすると、ふいとそっぽを向かれてしまう。それきりこちらを見てくれもしなかった。
確かにエルヴィーラは愛想がいいとは言えないキャラクターだった。特に序盤の彼女は自分の才能に驕った部分があり、主人公である勇者にも上から目線であれこれものを言うのだ。
「こーら、エルヴィーラ? そんなところまで、お兄さんに似なくていいのよ」
エルヴィーラを抱き上げて、小さく可愛らしい鼻にぐりぐりと指を擦り付けるメルツェーデスさん。その指先を煩わしそうに小さな手で払ったエルヴィーラの表情は、先程、同じくメルツェーデスさんの手を払ったアルノルトによく似ていた。
「ごめんなさいね、兄妹揃って愛想がなくて」
メルツェーデスさんは苦笑してエルヴィーラの代わりに、というように謝ってくる。それに私もまた苦笑を返すことしかできない。
ラストブレイブの主人公であるルカーシュも、エルヴィーラとしっかり心を通わせることができたのは中盤以降だ。あえて悪い言い方をすれば、クセのあるキャラクターであるエルヴィーラと1日2日で仲良くなれる訳もないと分かってはいたが――
「ラウラさん、よろしければミルクでもどうぞ」
「――あ、オリヴェルさん。ありがとうございます」
不意に背後から飲み物を差し出してくれた男性は、シュヴァリア騎士団副団長オリヴェルさんその人だった。
メルツェーデスさんが先ほど言っていた“オリヴェル”とは、どうやら彼で間違いないようだった。それも部屋に着くなり「私の双子のオリヴェル」とさらっと紹介を終えられてしまい、私もエルヴィーラに意識を持っていかれていたため、それ以上のことは分かっていない。
「まさかお2人がごきょうだいだったなんて」
いただいたミルクを一口飲み下してから、素直に心の内の驚きを口にすれば、オリヴェルさんはどこか申し訳なさそうに眉根を寄せて微笑んだ。
「そういえば、カスペル殿から紹介された時にきちんと姓まで名乗っていませんでしたね。とんだご無礼を。改めまして……オリヴェル・ブルームと申します」
「ちなみに私の方が姉よ。ほんの数分だけれどね」
オリヴェルさんの隣に並んで、メルツェーデスさんは態とらしく弟と顔を近づける。こうしてみると、なぜ2人の間の血の繋がりを察せなかったのかと思うぐらい瓜二つだった。
「アルノルト殿と同じく、調合師助手になられたんですね。素晴らしいです」
「いえ、そんな……」
咄嗟の謙遜の言葉。うまく言葉を続けられず落ちた沈黙に、私の頭の中でひとつの疑惑が首を擡げはじめていた。
副団長のオリヴェルさんならば、知っているはずだ。――ヴェイクの今、を。
聞いていいものかと悩んだ。しかし多くの人物の面会を拒絶しているらしい彼の噂は全く私の元まで届いてこない。怪我は治ったこと、ただ右目の視力は失ったこと、それだけだ。
けれど、オリヴェルさんならば。
私は俯きかけていた顔を勢いよくあげた。そして。
「あ、あの! ヴェイクさんは……」
「山に篭って鍛え直してますよ。随分と体がなまったって。……大丈夫、もうすっかり元気です」
私の心の内の不安を全て見透かしたように、オリヴェルさんは優しく微笑む。その笑みに、そしてオリヴェルさんの答えに、自然と肩から力が抜けた。
山に篭って鍛え直している。なるほど豪傑なヴェイクらしい行動だった。
「――エルヴィーラ」
「お兄ちゃん!」
背後でバン、と音を立てて開かれた扉。目の前の幼い顔に浮かんだ笑顔。アルノルトがやってきたのだと振り返らずとも分かった。
エルヴィーラはメルツェーデスさんの元を離れ、私の傍を通り、部屋の入り口へと駆けていく。彼女の背を追うように私も振り返れば、そこには今まさに妹を抱き上げようとしているアルノルトがいた。
黒い髪。黒い瞳。尖った耳。共通する容姿の特徴。ああ、ロコ兄妹だ。なぜだか少し感動した。
「元気にしてたか、エル?」
(わ、笑ってる……)
見たこともない、柔らかな笑顔だった。心から妹を慈しんでいるのだと分かる、良い兄の表情だ。
思わずまじまじとアルノルトの横顔を見つめてしまう。自分に向けられる不躾な視線に気づいたのか、彼はすっと口角を落としてこちらを向いた。
「挨拶はしたのか?」
「は、はい、一応……ね、エルヴィーラちゃん?」
ぱちりと確かに一度あったはずの視線が逸らされる。それはあまりにあからさまな態度だった。
私としてはただ挨拶をしただけなのだが、何か彼女の気に障るような言動をしてしまっただろうか。人見知り、と形容するにはあまりに警戒心が表に溢れ出ている。
妹と後輩の間にあまりよくない空気を感じ取ったのか、アルノルトは探るような瞳を一瞬こちらに向けて、それから口を開いた。
「エル、彼女は俺の後輩だ。ラウラ、ラウラ・アンペール」
「しらない。エルには関係ないもん。なんでお兄ちゃんのコウハイが、エルに会いにくるの?」
「これから世話になるからだ」
「……せわになるって?」
「エルの痛みを和らげようと、俺に力を貸してくれるんだ」
兄の言葉に、エルヴィーラはひどく傷ついたような表情をした。そして、声を荒げる。
「それはお兄ちゃんがやってくれるんでしょ!? 他の人なんていらない!」
わぁっ、とアルノルトの肩に顔を埋めてエルヴィーラは泣き出してしまう。アルノルトは戸惑ったように僅かに眉根を寄せて、それから妹の頭を優しく撫でた。その際にエルヴィーラを落ち着かせるように、背中をぽんぽんとゆっくり叩いている。
目の前で繰り広げられる光景だけみると、兄妹愛の象徴のような美しい光景だ。しかし、その背景を省みると――正直どうしていいか分からない。
エルヴィーラは私を快く思っていない。詳しい理由は分からないにしろ、それは紛れもない真実だ。ただ人見知りが激しいだけならば良いのだが、生理的に無理だなどと言われてしまっては困る。今後は回復薬のことで度々会うだろうし――
ぐるぐると考えを巡らせる私の肩に、ぽん、と手が置かれた。突然のことに弾かれたように振り返ると、そこには申し訳なさそうに苦笑するメルツェーデスさんがいた。
「ごめんなさいね、ラウラちゃん。ロコ兄妹はシスコンブラコン兄妹なのよ……」
「い、いえ……」
――時間は1日でも惜しいくらいなのに。難病の回復薬を開発するより先に、他の問題を解決しなければならないようだ。