35:決められた道
アネアの町に避難してきて、6日。私とエミリアーナさんは用意されていた宿屋の一室を拠点に、アネア支部で回復薬の調合を続けていた。
基本的に、朝から夕方までは私の調合の手伝い――それこそ薬草園から指定の薬草を摘んできてもらったり、調合に必要な道具を整えてもらったり、あけすけに言えば雑用――をエミリアーナさんに頼み、定められた終業時間後は、約束通り彼女に調合の指導をしている――のだが。
「あ、あれっ?」
「あぁっ、エミリアーナさん! 焦らないで!」
薬草を煮詰める真水が沸騰し、溢れそうになったのを見て、私は咄嗟に火を消した。エミリアーナさんは余熱でボコボコ泡立つ真水をじっと見つめながら、難しい顔をしている。
――エミリアーナさんへの指導は、はっきり言って順調とは言えなかった。しかしそれは彼女に才能がないだとか、そういった問題ではない。誰の目から見ても、私の指導の拙さが理由なのは明らかだった。
果てしなく自惚れた発言だと自覚しているが、私はこと調合に関しては天才型――感覚派だ。であるからして、的確な指示をエミリアーナさんへと伝えることができない。お手本を作りながら指導する際も「なんとなくいい具合に熱したと思ったら」だとか「手に伝わってくる感覚が少し変わったと感じたら」だとか、我ながら感覚的過ぎる解説が口から飛び出てきて驚いた。そしてそれ以上に、エミリアーナさんに申し訳なく思った。
――こんな先生、自分だったら絶対嫌いになる。
エミリアーナさんは私の不親切且つ不明瞭すぎる指導にどうにかついてきてくれようと一生懸命だが、その裏で嫌われてしまってはいないかと不安で仕方なかった。
「難しいですね……」
しゅん、とこうべを垂れるエミリアーナさん。
同じようなことがある度、私の説明が悪いんです、と幾度となく謝ってきたが、その度に彼女は全身で否定してくれるので、もはや私は何も言えずに首を振るばかりだった。何度も否定させてしまうのは申し訳ないし、いい加減しつこいと鬱陶しく思われかねない。
私はどうにかこうにか話題を変えようと、すっかり熱を失った回復薬数段階手前の液体を見た。確かにまだ、回復薬までの道のりはいくらかあるが、それでも。
「でも昨日よりずっと上達してます! 今回はちょっと火が強くなり過ぎちゃっただけで、真水の量や熱する時間はバッチリです! ……って偉そうですね、すみません」
「いいえ! お師匠様ですから偉くて当然です!」
お師匠様。向けられた単語に苦笑することしかできない。
自分はつくづく指導者に向いていないと今回実感したので、生涯弟子は取らないでおこう。エミリアーナさんが最初で最後の弟子だ。――そうは言っても、彼女のことを弟子だなんて偉そうに思ったことはないが。
「お師匠様じゃないですって、もう」
良くしてくれた人から、少しばかり知恵と経験を教えて欲しいと言われたから、力になりたかっただけ。お師匠様だなんて大層なものではない。
否定しつつ、口元には苦笑よりも穏やかな笑みが浮かんだ。それを見てか、エミリアーナさんもほっと頬を緩ませる。
――プラトノヴェナを離れて、それなりの日数が経過している。未だに何の音沙汰もなく、恐らくはこう着状態が続いているのだろう。いや、もしかすると未だ使いが到着していないだけで、今この時、アルノルト達は魔物と対峙している可能性も――
脳裏をよぎった不吉な妄想に、私は頭を振った。
エミリアーナさんも口にはしないが、アレクさんの身を案じていることだろう。そして彼女からしてみても、私がアルノルト達の身を案じていることは明らかなはずだ。しかし彼らのことを考えてしまえば、不安で何も手につかなくなるとお互いに分かっている。だからこそ私たちの話題に、プラトノヴェナという単語は一切出てこないのだ。
不自然なぐらい、和やかな雰囲気を保とうとお互いに必死だった。その必死さをひしひしと感じつつも、それに気づかないふりをして、私たちは微笑みを交わす。
更に付け加えるならば、お互い以外の人間とほとんど会うこともない。朝起きて支部に出勤し、割り振られた個室で調合を行い、夕方以降はエミリアーナさんに指導し、そして再び宿屋に帰る。突然アレクさんからの手紙一通で保護を押し付けられた私たちのことをどう扱えば良いのか、アネア支部の人々は戸惑っているようだった。
2人きりでなんとか立っているような日々。――正直、心身共に擦り切れる毎日だ。
***
「ラウラさんはどうして調合師を目指されたんですか?」
宿屋でお互いベッドに潜り込み、今まさにおやすみなさいと声をかけようとしたその瞬間、エミリアーナさんの口から思わぬ話題が飛び出てきた。その口調は、眠る前に親に御伽噺を強請る子供のようで。
恐らく彼女は眠気に襲われているのだろう。それなのに話しかけてきたということは、かねてから私に尋ねたいと思っていて、ずっとタイミングを窺っていたのだろうか。
なんと答えるべきか迷いが生まれた。小綺麗な嘘で誤魔化そうかと考えて――しかし口から滑り出た言葉は、自分でも予想していなかったものだった。
「……正直に話したら、エミリアーナさんに嫌われちゃうかもしれません」
エミリアーナさんの顔を見て話をするために寝返りをうった。
用意してくれた部屋はお世辞にも広いとは言えなかった。何も文句を言いたいのではない。アレクさんの言付けによって、一切の宿泊料なしに宿屋の一室を貸してくれている――向こうからしてみれば、少女達を保護している、という表現が適切だろうか――ことに、心から感謝している。このなんともコンパクトな部屋に、ベッドが2台寄り添うように置かれているのだ。違うベッドに寝ていながらも、添い寝しているような感覚に陥る。
エミリアーナさんは、私の曖昧な言葉を飲み込みあぐねているようだった。その表情が可愛らしくて、私は思わず笑い声をこぼす。するとますます難しい顔になったエミリアーナさんに、流石に罪悪感を抱いた。
「すみません、意地悪な言い方でした。……村から出たくて……出身が小さな村でしたから、世界を見てみたかったんです。その為には手に職だ! と思って、それで」
早口で一気にまくし立てる。それによって足りなくなった酸素を補おうと息を大きく吸ってからエミリアーナさんの様子を窺うと、彼女は驚きに目を丸くしていた。
落ちる沈黙。私の調合師になった理由を聞いて、エミリアーナさんはどう思っただろう。些かの綺麗な言葉に包んでみたが、自分本意の理由には変わらない。
「結構自分勝手な理由なんです。あはは」
沈黙に耐えきれず、笑い話にしようとわざと明るい声音で続けた。すると私の虚しい笑い声を、「いいえ!」とエミリアーナさんの凜とした声が止めた。
驚きに目の前の彼女を見つめる。青の瞳は真っ直ぐ私を射抜いていた。
「あの日……魔物が街を襲った日、屋敷を走り回るラウラさんがとても眩しかったんです。わたし、生まれてからずっと、決められた道を歩いてきました。お父様の言われるままに……アレク様と婚約を交わしたのも、全て。だから、わたしより若いのに自分の意思で決めた道を歩くラウラさんに、憧れてるんです」
予想外の言葉が返ってきて、一瞬息が止まった。
思えば、エミリアーナさんの出生を私は知らない。アレク・プラトノヴェナという一領地を治める貴族と婚約を結べるのだから、それなりの身分なのだろうとは予想がつく。あとは「精霊の飲み水」の伝承が伝わる、フラリア出身ということぐらいか。
しかしエミリアーナさんの口から語られた言葉は、どこか納得がいってしまうような説得力があった。これはあくまで私の印象だが、エミリアーナさんは大切に大切に育てられたお嬢さんなのだろうと感じていた。
「もちろん、今の人生を不満に思ってるとか、そんなことはありません! むしろとっても幸せで……幸せすぎて、怖いぐらいです。とても恵まれた人生であることは、自覚しているつもりです。でも……」
「それとこれとは話が別、ですよね」
言い淀んだエミリアーナさんの言葉を、自分なりに引き継ぐ。すると目の前の彼女は安堵したように息をつき、ふわりと目を細めた。
エミリアーナさんの今の話は、話す相手を見誤れば悪意をもって受け止められかねない。彼女は恵まれた立場の人間だ。恐らくはそれなりに権力を持つ家に生まれ、ゆくゆくは領主の妻として大切にされながら生きていく。そのような立場にありながら何を、と憤る人もいるだろう。
それを分かっているからこそ、恐らくエミリアーナさんは私の言葉に安堵した。
「ちょっとだけ、分かるような気がします。私が村を出たかったのも、このまま村にいたら決められた道を歩くことしかできないと思ったから……」
決められた職業から逃れるために、私はこの道を選んだ。今ではこの道の先にあるものはそれだけではなくなったけれど、畏れ多くも、エミリアーナさんの気持ちがほんの少し分かるような気がした。
ほわり。エミリアーナさんの顔が幼く解ける。
この数日、エミリアーナさんと常に行動を共にしていた。となれば当然距離も近づいたし、彼女に対してそれなりの情――親近感も湧いてきている。しかしだからと言って、お互い胸に秘めていた思いを吐露するには早すぎるように思えなくもなかった。
それもこれも、恐らくは今置かれている状況のせいだ。親しい人たちを戦地に残し、彼らの様子は何も分からず、ただただ次の指示を2人で待っている。今抱えている不安は相手としか共有できない――などと考えれば、一足二足飛びに仲が深まったように錯覚しても、おかしくないかもしれない。
浮かない顔をして、宝石のような青の瞳を濁らせるエミリアーナさんに、気休めにもならないと分かりつつも声をかけた。
「決められた道でも、歩くのは自分ですから」
決められた道が目の前にあって、その道を進んでいるとしても、何も他人に操られているわけではない。目の前の道から逸れて、自分の道を進もうという意思さえあれば、いつでもそれは叶う。
しかしエミリアーナさんはそれを望んでいるようには見えなかった。ただこの状況に少しばかり心が弱り、揺らいでいるのだろう。
エミリアーナさんに微笑みかける。彼女も微笑みかけてくれた。
――その夜、それ以上の会話はなく、2人で睡魔に身を委ねた。
***
昼頃、アネア支部の調合師が私達の元を訪ねてきた。
「あ、あの、ラウラさん」
「……どうされたんですか?」
咄嗟に名前を呼ぼうと思ったが、出てこなかった。
彼は私たちの世話を任されているらしかったが、会話をしたのは二回目だ。この支部を訪れた時に一回、そしてたった今が二回目。
「王都からあなた宛にお手紙が」
目前に差し出された白の封筒に、私は息を飲んだ。
「カ、カスペルさんからです、あの、どうぞ」
一瞬躊躇って、しかしすぐに受け取る。
大丈夫。プラトノヴェナからの手紙ではない。そんなに怯えることはないはずだ。このままアネアに滞在し続けるにしても、上司からしっかりとした指示をもらわなくてはどうにも身動きが取れない。
そう分かっているのに正直な私の心臓は、いつもより幾分早い鼓動を刻んでいた。我ながら小心者だと笑ってしまう。
封筒を開ける。入っていたのは便箋1枚だけ。それも僅か数行で、辛うじて読める殴り書きのような文字たちに、恐らくカスペルさんは時間に追われているのだろう、と安易に想像がついた。
「な、なんと……?」
後ろから不安げな声がかけられる。エミリアーナさんだ。きっと彼女は笑みを浮かべようとして失敗しているのだろう、と、見てもいないのに想像がついた。
――王都に戻ってきてください。一緒に避難している方がいらっしゃるなら、その方も一緒に。あなたと入れ違いになる形で、アネアには調合師を派遣しますので、ご心配なく。あなたがご無事なようでよかった。
手紙に綴られていたのは、たったこれだけだった。
「……王都に一度帰ってこいと。入れ違いに、他の調合師の方がこちらに来るようです」
薄々はそうなるだろう、と分かっていた。
私はこのカスペルさんからの指示に、いくらかホッとしていた。きちんとした指示ももらえず、プラトノヴェナの情報も満足に入ってこない上、突然私たちの保護を頼まれたアネア支部の方々からどう扱っていいものかと困惑される毎日は、私の精神をじわじわと蝕んでいた。
王都に戻ればカスペルさんから的確な指示をもらえるだろうし、肩身の狭い思いをすることもない。今以上に調合に集中できるはずだ。それに王都にいた方が、情報も入りやすくなるのではないだろうか。距離は圧倒的にアネアの方が近いが、王都にはすべての情報が集まってくるだろう。それにカスペルさんはアルノルトやアレクさんの情報が届いたら、私たちに包み隠さず伝えてくれるに違いない。今の状況では、情報が届いているにもかかわらず私たち――小娘2人に教えるようなことはない、と情報が遮断されている可能性もあり得なくはなかった。
そんな発想に至ってしまうほど、私たちは放置されている。
とにかく現状から抜け出せる。それは喜ばしいことのはず。
私は控えめな笑顔でエミリアーナさんを振り返った。しかし振り返った先の彼女は、私とは打って変わってその顔を歪めていた。




