32:鼓膜を劈く、声
――翌朝。私が起床した時にはもう、アルノルトは屋敷を出ていた。
もしや早朝出勤か、と慌てて支度を済ませた私を食卓で出迎えてくれたのは、エミリアーナさんともう1人。アレクさん――ではなく、プラトノヴェナ支部所属調合師の1人、ヴィルマさんだった。
彼女は私の顔を見るなり笑顔で「アルノルトはアレクさんに連れられて、朝早くに出たよ」と説明してくれた。
アレクさんに連れられて出た。それらの言葉からして、おそらく。
「魔物討伐、ですか?」
「いいや、巡回さ」
そんな話、聞いていない。アルノルトからはもちろん、アレクさんも昨晩の夕食の場等で、それらしい発言は全くしなかった。
もしかすると突然のことだったのかもしれない、と思い至る。昨晩、もしくは早朝に魔物の群れが街の近くに現れ、巡回に出たのか。
戸惑いを抱きながらエミリアーナさんに目線を向けると、彼女は血の気の引いた青い顔をしながら、申し訳なさそうに微笑んだ。その表情を見て、きっとアレクさんの身を案じているのだろうと悟る。
大丈夫ですよ、とは言えなかった。だからただ、微笑を浮かべて頷きあった。
この街、プラトノヴェナ周辺には度々魔物の群れが現れている。巡回とはいえ、魔物と遭遇する可能性は大いにあるだろう。メタ的な表現になってしまうが、プラトノヴェナ地方はゲーム終盤に訪れる地方だ。それだけに、当然魔物も強いはず。遭遇すれば、怪我の一つや二つ、いいや、最悪の場合――
ふと、脳裏にヴェイクの顔が浮かんだ。
右目をなくした彼。私がどうにかこうにかうまく立ち回れば、その未来は変えられたかもしれない。その後悔は、思い出すたびに大きくなる。
未だヴェイクとは面会できていない。今回の出張から帰ったら、お見舞いに行きたいと考えている。いや、行かなくては。
「――ラウラ君はアルノルトとどういう関係なんだい?」
思考の合間に突然投げかけられた質問に、私は数度瞬きを繰り返した。
ヴィルマさんはすっかり固まってしまった私を見て、笑みを深めつつ再び口を開く。
「いや、なに。アルノルトは随分と君のことを買っているように思えてね」
ヴィルマさんは大層愉快そうに目を細めていた。
向けられる好奇の目には覚えがあった。脳裏に浮かんだのは、もじゃもじゃ頭の上司。
私はこぼれそうになったため息を飲み込んで、ついでにスープも一口飲み込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「どういう関係って言われましても……先輩です。王属調合師になる前、何度かお会いしたことはありますけど……それ以外は、何も」
カスペルさんもヴィルマさんも、なぜこのようなことを聞いてくるのだろうとつくづく疑問に思う。
確かにエルヴィーラの件で同じ目標を掲げることになったが、だからといって彼と仲良くなったとはこれっぽっちも思っていない。あくまで先輩と後輩、むしろそれ以上の距離が私たちの間には常にある。
端から見て、特別仲良く見えるという訳でもないだろう。会話は最小限で行動も必要に駆られなければ共にしない。考えれば考える程、疑問でしかない。
「ヴィルマさんはアルノルトさんと昔からお知り合いだったんですか?」
自分からどうにかこうにか話題を逸らそうと、ヴィルマさんに問いかける。プラトノヴェナに初めて訪れた際、彼女とアルノルトは以前からの顔見知りのように言葉を交わしていたのだ。
私の疑問に、ヴィルマさんはああ、と頷いた。
「私はアルノルトとリナの教育係だったんだよ」
思わぬ返答に、私は思わず手に持っていたパンを皿に置いた。そしてわずかに身を乗り出して、次の言葉を待つ。
「それはそれは生意気なガキだったよ。先輩のアドバイスなんて聞きやしない、ニコリともしない! ……あぁ、それは今もだったかな」
ヴィルマさんはにやっと口元をあげてみせる。私も思わず笑ってしまった。
見習い時代のアルノルト――14歳の頃のアルノルト――は、私も少しだけ知っている。なにせ、王属調合師の試験に同行したのだから。
当時も随分とかわいげがなくなってしまったものだと思ったが、どうやらそれは先輩の前でも同様だったらしい。ある意味期待を裏切らない男だ。
ぶすっとした、今よりいくらか幼いアルノルトの顔を思い出す。
「でも人一倍努力していたんだ。周りはアルノルトを天才と言うし、確かにそれはそうだと思うけれど、彼は相当の努力をしていた。それはきっと、今も」
とても優しい声音だった。声も口調も違うのに、どこかメルツェーデスさんを思い出させるような、慈愛に満ちた声音だった。
ヴィルマさんは真っすぐな瞳で、私を見ていた。からかい、ごまかすことをよしとしないその瞳に居心地が悪くなって、思わずふいと目線を逸らす。
「……なぜ私にそんな話を?」
「天才くんと天才ちゃんにしか分かり得ない話もあるんじゃないかと思ってね」
天才くんと、天才ちゃん。
ヴィルマさんの口から出てきた単語のチョイスに、ある人の影を感じた。
「……カスペルさんに何か吹き込まれました?」
「正解だよ」
はぐらかすことなく頷いたヴィルマさんに、私はがっくりと肩を落とす。ヴィルマさんとカスペルさんにどのような繋がりがあるのかは知らないが、どうやら余計なことを吹き込んでくれたらしい。
「さて、そろそろ行こうか」
げっそりとした表情の私に申し訳なさそうに微笑みながら、ヴィルマさんは席を立った。私もそれに続く。するとすかさずエミリアーナさんも「玄関までお見送りします」と立ち上がった。
広い廊下を歩き、大きな玄関を過ぎ、門の前で大きく手を振るエミリアーナさんに振り返す。なんてことない雑談をしながら歩き出し、見てくれだけは立派な支部がもう少しで見えてくる、といったところまで来た、その時。
——女性の悲鳴が、鼓膜を劈いた。
「悲鳴……!?」
声のした方を振り返る。恐らくは町の入り口近くか。
突然の悲鳴の理由を、頭が勝手にフル回転して探し出そうとする。いや、そんな必要はなかった。答えはほぼほぼ、一つしかない。
――魔物の襲撃。
ヴィルマさんに腕を掴まれた。恐怖で足が地面に縫い付けられてしまったように動けなかった私を、引き戻すような力強さだった。
「魔物だ!」
すぐ近くで男の声がした。
――魔物だ。
その言葉は私の頭をぐわんぐわんと掻き回す。とにかく身の安全を確保するべきだ、と、辺りを見渡した。
昨日はあれほど目に付いた兵士達が、やけに疎らだ。かと思うと兵士が1人、ある方向へ向かって走り抜けていった。恐らくはその方向に魔物がいるのだろう。その方向とは、自分たちが向かおうとしていたまさにその先。支部がある方面だ。
だとしたら、とにかく反対方向に逃げるべきか。
そうこうしているうちにも、悲鳴はどんどん近づいてきている。それだけじゃない――魔物の咆哮も、近づいてきていた。
私はヴィルマさんの腕を、今度は自分から掴んだ。そして駆け出そうとした――したのだが、ヴィルマさんはぐっとその場で足を踏ん張り、私の手を振り払った。
私は慌てて振り返る。ヴィルマさんは使命感に駆られた、凛とした表情をしていた。
「怪我人がいるに違いない、回復薬を届けなければ!」
なるほどその判断は、王属調合師としては誇り高く、今この場に一番適していると言えた。しかし、1人の女性としてはあまりにも危険すぎる。今から彼女が向かおうとしている場所には、おそらく魔物がいるのだ。
離れていく背中を追いかけようと、私は無謀にも駆け出してしまった。ヴィルマさんを安全な場所へ、という気持ちが私から冷静な判断を奪ったのか。そう小さくない背中に、追いかければすぐに連れ戻せると、まるで“そうしなければならない”というように私の足は自然と動いてしまった。
――何より、嫌な予感がした。彼女の背中に、あの日見なかったはずのヴェイクの影がなぜか重なった。
なんて馬鹿な真似をしてしまったのだろう。2人で屋敷に戻るのが最良だった。あのときヴィルマさんの手を掴み直すべきだった。
――それに気がついたのは、これまた愚かなことに、背後から獣の咆哮が聞こえたときだった。
いつの間に背後に回られていたのか。中型ながらも鋭い牙を持った獣型の魔物が、こちらを睨みつけていた。
「――逃げるんだ!」
どこから現れたのだろう、2人の兵士達が魔物に向かっていった。しかし呆気なく薙ぎ払われてしまう。ぐぅ、と傷を庇うように丸まった様子を見て、死んではいないと安堵した。
それもつかの間、つり上がった獣の目が、私を獲物としてとらえているのに気がつく。ぞわっと背筋が凍って、逃げなければならないというのに足が竦んで動けなかった。
――あ、これ、死ぬ。
その感覚に、私の脳は呑気にも6年前を思い出していた。ルカーシュが勇者の力に目覚め、そして同時に“私”が目覚めた、あの日を。
そうだ、あれはまだ私が8歳だった頃。もう6年経つのか。あれから王属調合師を目指して――負けヒロインにならないように、村を出ようと――必死だった。
両親の笑顔が、ルカーシュの笑顔が、お師匠の笑顔が、エメの村の人々の笑顔が、脳裏に蘇る。過ごした日々がやけに鮮明に思い出せて、あぁ、これが走馬灯というやつか、なんて馬鹿みたいなことを思った。
この世界のラウラ・アンペールはここで呆気なく魔物に食い殺される運命なのか。勇者様に惚れない勇者様の幼馴染は、この世界に――「ラストブレイブ」に不要ということか。
せめてエルヴィーラの件を解決してから、いいやもっと我儘を言えば、ルカーシュがこの世界を救うところを見たかった。
はは、と口元に乾いた笑みが浮かんだ。
目の前の魔物はやけにスローモーションで近づいてきて、それは永遠にすら感じられる一瞬だった。
あの日のルカーシュの叫び声が鼓膜に蘇る。きっと彼を悲しませてしまうだろう。あぁどうか、幼馴染の死という出来事が、優しい勇者様の心に傷を残しませんように――
目を伏せた。魔物の牙が自分の体を貫くのを想像して、ぎゅっと身を縮こませた。
「アンペール――!」
鼓膜を劈く、その声。
鼻先でボッと何かが燃えたような、ひどい熱を感じた。ともすれば、顔面が火傷してしまいそうな熱さだった。
どさり、と何か塊が地面に落ちた音がする。その音と、いつまで経っても訪れない痛みを不審に思い瞼を開ければ、私に牙をむいていた魔物が目の前で黒焦げになっていた。
――どうして。
喜びよりも疑問が先に湧く。
唖然と焦げた肉の塊を見下ろしていると、ふっと人の気配を感じた。力なく顔を上げれば、
「……無事か」
右腕を庇いながら、息を切らしてこちらを見つめるアルノルトの姿が、そこにはあった。




