175:エンディングのその先
早朝、祭りの余韻が残る王都をルカーシュたちは出発することになった。王都の人々に知られてはまた囲まれてしまうだろうからと、王様含めお偉方と近しい人たちにだけ別れを告げて。
私はアルノルトと共に、彼らを見送るべく王都の入口にあるアーチの許まで足を運んだ。
「それじゃあ、みんな、また会おう」
ルカーシュが笑う。仲間たちは皆、笑顔で頷いた。
王様が用意してくれたらしい、それぞれの目的地へ向かう馬車に彼らは乗り込む。例外としてヴェイクは騎士団の部下を連れて、馬で各地を巡る旅に出るようだった。
――雲一つない、青空。東の空からのぞく太陽。希望にあふれた朝だ。
馬車がゆっくりと出発する。私は大きく手を振って見送った。
すっかり蹄の音も聞こえなくなって、すべての馬車が見えなくなった後も、私はしばらくアーチの下で佇んで――びゅう、と突然吹いた冷たい風に身を震わせる。まだ始業時間まで余裕があるとはいえ、体調を崩して業務に支障をきたしてはいけない。
「……朝は冷えますね。戻りましょうか」
アルノルトは頷いたが、その場から動こうとしない。
一人戻るわけにもいかず、その横顔を眺めていたら、
「ルカーシュは、旅に出るようだな」
はぁ、と白い息とともに吐きだされた言葉に、私は目を丸くする。
知っていたんだ、と驚いてのことだったが、よくよく考えなくても、友人であるアルノルトにルカーシュが話さない方が不自然だ。きっと昨晩あたり、二人で話す機会があったのだろう。
アルノルトは私をちらりと一瞥して、踵を返す。王城へと続く大通りを二人肩を並べてゆっくりと歩き始めた。
「随分と長い旅になるようだな」
「寂しくなります」
「……そうだな」
帰ってきたのは予想外の言葉で。
私は思わず足を止めて隣の彼を見る。
「アルノルトも……アルノルトさんもですか?」
思わず呼び捨てで呼んでしまったのを慌てて訂正した。
心の中ではずっとアルノルトと呼んでいたから、つい口に出てしまった。思えばディオナやエルヴィーラも最初は敬称をつけて呼んでいたのに、いつの間にか心の中での呼び方に引っ張られて、今ではすっかり呼び捨てで呼んでしまっている。そちらも訂正した方がいいかもしれない――
一人悶々と考え込んでいた私に、アルノルトはフ、と笑った。
「言い直さなくていい」
とてもやさしい声で、とてもやさしい瞳で、そう言うものだから。
――瞬間、脳裏に蘇ってくる声。
『好きだ』
思い出して、かぁ、と頬が赤らんだ。
告白されたあの日から今日まで調合仕事が忙しかったこともあり、二人きりで会話をするタイミングがなかった。そして今日も今の今まで、ルカーシュたちとの別れにすっかり意識が行っていて、帰りにアルノルトと二人きりになる可能性に気付けなかった。
――どうしよう。告白の返事って、私から切り出すべきなの? それともアルノルトの言葉を待った方がいい?
何もわからない。ただただ気恥ずかしくて、落ち着かなくて、私は俯いた。
「あー……少し、歩かないか」
アルノルトの探り探りの提案に、私はそろり、と顔を持ち上げる。すると彼は顔こそこちらに向けていたものの、瞳を泳がせていた。
「……どこへ?」
「そうだな……薬草園は、どうだ」
もう、頷くだけでいっぱいいっぱいだった。
王城の薬草園へ、二人無言で足を運ぶ。いくら勤勉な人が多い王属調合師といえど、こんな早朝に薬草園を訪れる人はさすがにおらず、私たち以外の姿は見えなかった。そのことにほっと安堵しつつ、ゆっくりとした足取りで薬草園をぐるぐる回り始める。
――沈黙が、気まずい。
先ほどから何回か、隣のアルノルトが口を開いて、そして何も言わずに閉じている。きっと話を切り出そうとしてくれているのだろう。
どうしても視線は下に落ちる。――と、視界の隅に懐かしい薬草を見つけて、思わずしゃがみ込んだ。それはアルノルトと初めて出会ったあの日、彼が私を試すために選んだ薬草だった。
「あ、懐かしいですね、この薬草」
背後でアルノルトが私の手元を覗き込むように腰を曲げる。振り仰ぎ、彼によく見えるように葉を手に取った。
「初めて会ったとき、あなたにこの薬草を知ってるかって問題を出されて、私が答えたら拗ねたでしょう」
ふふ、と笑って見上げれば、アルノルトの眉間に皺が寄る。
「……あったか? そんなこと」
「あ、とぼけてる!」
アルノルトらしくない反応に、あはは、と声を上げて笑った。そうすれば彼の眉間の皺はより深くなる。――出会ったあの日であれば、アルノルトのこの表情におびえていただろうけれど、今は怖くない。彼が本当はどんな人か、怖い表情の下で何を考えているか、私はもう知っているから。
アルノルトと初めて会ったのは九歳の頃。今は十六歳だから、単純計算で出会いから七年ほど経っている。
「あれからもう七年かぁ……早いような、そうでもないような……」
振り返れば、とても濃い七年間だった。
アルノルトと出会って王属調合師という職を知り、試験を受け、エルヴィーラの自壊病の治療に取り組み、とにかく毎日必死だった。思いもよらない展開の目白押しで、息をつく暇もなかった。
七年後、私はとっくに二十歳を超えている。アルノルトは二十五歳。一体私たちはどこで何をしているだろう。何も予想がつかない。それが不安でもあるけれど、嬉しくもあった。
「今から七年後、みんな何してるんでしょうね」
「さぁ、な。ただ……」
アルノルトは私の横に膝をついて座った。ぐ、と近づいた端正な顔に私は思わず体を後ろに逸らしたが、真正面から見つめられて、息を詰める。
何かを決意したかのような、とても真剣な表情だ。下手に声をかけるのも憚られるぐらいに。
アルノルトは何度か深く深呼吸をした後、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、エルフと人間の混血だ。混血の子どもはごく稀で……俺の寿命がどれくらいなのか、正直わからない」
一つ一つ、慎重に言葉を選んでいるのは明らかだった。
エルフは長寿の種族だ。しかしそこに人間の血が混ざったとき寿命がどうなるのか、本人もわからないという。もしかしたら同じ時間を生きられるかもしれないし、生きられないかもしれない。
「かなり無茶をしてきた自覚もある。エルフの中で禁忌とされた魔法も使った。この先、俺の身に、俺の人生に何があるかは分からない。しかしきっと平坦な道ではない。器用な生き方は、俺にはできない」
「…………」
私は何も言わず、ただアルノルトの言葉を聞いていた。
「他人を巻き込んでいいような人生ではないと、分かっている。それでも――」
そっと、右手を取られる。そしてぎゅう、と強く握られた。
――その温もりは、あの日、私が求めたもので。
握られた手に視線を落とす。アルノルトの手は大きく、あたたかかった。それでいて手のひらは乾燥していて、魔法を使っているせいか、指先の皮膚が数か所引きつっている。
アルノルトは私の手を何度か握りなおす。それから眼鏡のレンズ越しに黒の瞳で私を見つめて、そして。
「俺は、ラウラが好きだ」
――空気が、鼓膜が、心が、震える。
「これから先、許してくれるのなら……共に歩いていきたいと思っている」
縋るような目でアルノルトは私を見た。彼の手は震えていた。
――共に歩いて“欲しい”とは言わなかった。いいやきっと、彼は言えなかったのだ。混血という自分の産まれ、そして不器用な生き方しかできないと称した自分の性分のせいで。
握られた手を握り返す。びく、とアルノルトの肩が揺れた。大げさな反応に私は思わず笑ってしまう。
顔を上げて、背伸びをするように踵を上げて、できるかぎりアルノルトと目線を合わせる。彼は耳まで真っ赤に染め上げていた。
「……顔、赤いですよ」
思わず指摘すれば、アルノルトは空いていた左手で顔を隠すように覆う。そして吐き捨てるような早口で弁明した。
「勘弁してくれ。慣れてないんだ、こういうの」
「だからあのとき言い逃げしたんですか?」
我ながら意地の悪い突き方だと思いつつも、言わずにはいられなかった。告白するだけして寝るなんてずるい。あの日から今日まで、度々思い出しては悶々とさせられていたのだ。
さすがに自覚があったのか、アルノルトは顔を隠したまま肩を落とす。
「それは……そうだ。卑怯な真似だった、すまない」
「本当ですよ」
指の隙間から、アルノルトの瞳がこちらに向けられているのが見えた。
――顔が見たい。ちゃんと、見つめ合いたい。
そう思い手を伸ばす。そして彼の顔を隠す大きな手をそっと握って、外した。抵抗はなかった。
両手を繋いで、見つめ合う。あぁ、私もきっと、顔が赤くなっている。
「返事させてくれなかったの、怒ってるんですから」
「……顔、赤いぞ」
仕返しとばかりに指摘されて、私はごまかすように笑うことしかできなかった。
自覚があるから否定もできないし、先に意地の悪いことを言ったのは私だから怒ることもできない。
「あはは、私もこういうの、慣れてないんです」
言えば、アルノルトもふ、と目元を緩める。
「お互い調合一筋でやってきたからな」
「アルノルトは魔術もやっていたでしょう」
突っ込むように言えば、アルノルトは目線を伏せた。そして、ぽそり、と呟く。
「……それで、返事はもらえないのか」
返事。それはつまり、告白の返事だ。
繋いでいた手をぎゅ、と強く握られた。
恥ずかしい。けれど今は羞恥なんてかなぐり捨てて、きちんと言葉にしなければならない。
一度俯いて呼吸を整えてから、顔を上げてアルノルトを見つめる。黒の瞳は逸らされなかった。
陽の光が薬草園へ差し込む。寒さでこわばっていた体から自然と力が抜けて、私は気づけば微笑んでいた。
「アルノルト、私もあなたのこと……好きです」
声が震えた。きちんとアルノルトに伝わったか、不安だった。
アルノルトの顔から表情が消える。じわじわと彼の瞳が見開かれて、そして――破顔した。
眉尻を下げて、目を細めて、頬を赤らめて、口元を綻ばせて。これ以上なく幸せそうに、しかしどこか泣きそうに、笑う。
彼は握りしめていた私の右手を己の頬にあてた。そして目を伏せる。
「ありがとう。その言葉だけで、もう十分だ」
アルノルトの声もまた、震えていた。声だけでなく私の手を掴む両手の指先も、先ほどよりもさらに大きく震えている。
それがひどく愛おしかった。
「指先、震えてる」
「緊張していたんだ」
「ふふ」
あぁ、あぁ、どうしよう。意識せずとも、口元が笑ってしまう。
我慢しきれずに、私は目の前のアルノルトに勢いよく抱き着いた。「おい!」と耳の横でアルノルトが焦った声を上げる。ぎゅう、と抱きしめられて――というよりも受け止められて、私はますます嬉しくなった。
「あはは!」
声を上げて笑う。耳元で、仕方ないなと言わんばかりにアルノルトも笑ったのが分かった。
――これから先、私たちがどのような人生を歩んでいくのか、誰にも分らない。もしかしたら、アルノルトと同じ時間を生きることはできないかもしれない。私たちの道が分かれる日が来てしまうかもしれない。
しかしそれでもよかった。どんなに一時であっても、こうして大切な人と寄り添い、心を通わせられるのなら。この日の選択を私は一生後悔しない。
ぎゅう、と更に強くアルノルトに抱き着く。すると彼の腕が背中にまわり、とても強く抱きしめられた。思わず「苦しいですよ」と笑う。しかし腕の力が緩められることはなかった。
「楽しみですね。これから先、何が私たちを待っているのか」
目の前に広がるたくさんの道。時間はたっぷりある。やらなければならないことも、沢山ある。
困難に見舞われることも数多くあるだろう。遠回りをすることだって、間違えることだって、後悔に涙を流す日だってきっとある。けれど、私たちは生きてゆく。歩みを止めることはしない。
「そうだな、ラウラ」
――エンディングのその先。ハッピーエンドの、その先。ゲームでは語られることのなかった、未来。
それをこれから自分の目で見に行こう。大切な人たちと、共に。
あと一話だけ続きます




