173:雲一つない青空
――ゴゴゴゴゴ、と地面が揺れる。地震だ。一体何度目だろう。最初は地鳴りだけだったのが、次第に地面も揺れるようになり、今では昼夜問わず地震が多発している。
勇者と魔王が今この時、対峙しているのだろうか。私にはそれを感じ取る特別な力などない。だから起きているときはただひたすら胸の前で手を組んで、勇者一行の無事を祈っていた。
どうか彼らが無事に、一人も欠けることなく帰ってきてくれますように。それだけを願って。
『――ラウラ』
不意に名前を呼ばれた気がして、ハッとアルノルトを見やる。その瞬間――彼の背後から滲む黒靄に気が付いた。
私は反射的に立ち上がる。そしてアカリの名を叫んだ。
「ラウラ――!」
どしん、と勢いよくぬくもりがぶつかってきて、私はその場に倒れ込んだ。瞬間、目前で光がはじける。――爆発だ。
轟音に鼓膜をさらされながらも、衝撃は一切なかった。それはきっとアカリのおかげに違いない。まぶしい光にどうにかこうにか目を開ければ、目前にはふわふわの毛があった。どうやらそれはアカリの胸元で、私は狼の姿をしたアカリに押し倒されているようだった。
『ラウラ様、ご無事ですか!?』
シエーロ様の呼びかけが頭上から降ってきた。
あたりを見渡して、気がつく。辺りに黒靄が漂っている。どうやら私の体は結界で守られているようで、黒靄に触れることはなかった。
先程の爆発で、アルノルトを包んでいた結界が全て破られてしまったのだろうか――慌てる私の上に、ドサリ、とアカリのふわふわな体がのしかかってきた。
「アカリ!?」
ずるずるとアカリの体の下から這い出る。そして体を起こせば、傷だらけのアカリの姿が目に入った。――結界が破られたせいで、傷を負ったのだろう。
守るようにぎゅっと首元を抱いて、
『ラウラ! アルノルトが!』
ウェントル様の呼びかけでハッと顔を上げた。そしてアルノルトの姿を探す。
先ほどまで結界の中で穏やかな寝息を立てていたアルノルトは、石の床の上に横たわっていた。彼の体から立ち込める黒靄は、今にも彼を飲み込もうとしていて。
――封印魔法が、解けかかっている。
直感的にそう思った。
「ラウラちゃん!?」
扉の向こうからメルツェーデスさんの声が響く。先ほどの爆発音を聞きつけたのだろう。
――どうしよう。一体、どうすれば。
瞬間、脳裏に浮かんだのはルカーシュの悲痛な顔。そしてエルヴィーラの、覚悟を決めた笑顔。アルノルトの姿はどんどん黒靄に埋もれていく。もう、時間はない。決断するしか、ない。
私は抱いていたアカリの体をそっと床に横たえて、前を見据える。絶え間なく湧く黒靄はあっという間にあたりの床を覆い、結界で守られている私の周り数メートル以外は、石の床が目視できない状態で。結界が破られたことでアカリも傷つき、ぐったりと倒れている。こうなっては、再び結界で封じ込めることは極めて困難だ。
――試作品を処方しよう。聖域を開き、結界を解いて、魔王の力をアルノルトの体から解き放つ。
両の頬を叩き、私は扉の向こうにいるメルツェーデスさんたちに向って声を張り上げた。
「魔王の力を抑えきれません! これ以上アルノルトの体に負担がかかる前に、試作品を処方します!」
私は鞄の中にしまっていた試作品を一本取り出し、右手に握りしめる。
分かったわ、と固い声でメルツェーデスさんが答えてくれたのをきっかけに、二つの光の玉が両脇に並んだのが見えた。色からして、ウェントル様とシエーロ様だ。
結界を張ってくださっていたアカリ、ライカーラント様、アヴール様は先ほどの爆発で大きな怪我を負ってしまったのかもしれなかった。
『合図くれたら、聖域の扉も開けるぞ』
「待ってください!」
ウェントル様の言葉に私は思わず声を上げた。
今扉を開ければ、当然聖域に漂っている黒靄――魔王の力が一気に解放されることになる。それが無害な、ただの靄かどうかは分からない。もし黒靄が攻撃手段になり得るのであれば、ここで解き放ってしまっては最悪全滅する。
まず、魔王の力にダメージを与えるのが先だ。少しでもその力を弱めなければ。
「先に私が試作品を処方します。扉を開けるのはそのすぐ後に」
『……わかりました』
シエーロ様の返答を聞いてから立ち上がる。そしてアルノルトの許へ向かう前に、メルツェーデスさんたちに呼びかけた。
「試作品を処方した後、すぐに扉を開きます! 凄い勢いで黒靄……魔王の力が飛び出てくる可能性もあるので、戦闘態勢に入ってください!」
試作品を処方して、魔王の力が脇目も振らず外へと逃げていく、もしくはダメージを負って再び封印されるようであればいいが、黒靄が私たちを襲ってきたり、爆発反応が起きる可能性もある――そう、何が起こるかわからないのだ。アルノルトも私も、無事でいられるかは分からない。それでも、もう迷っている時間はない。
私は数度深呼吸をする。そして一歩ずつ近づいていった。
近づくにつれて、だんだんとアルノルトの姿が鮮明になる。先ほどまでの穏やかな寝顔とは打って変わって、アルノルトは眉間に皺を寄せ、苦しみに呻いていた。そして彼の体には黒靄がまとわりついていて、驚くべきことに、露出している肌の一部が黒く染まりひび割れていた。
まるで魔王の力にアルノルトの体が侵食されてしまったような光景に、私は言葉を失う。
「なに、これ……」
私を襲ったのは紛れもない恐怖だった。思わず足が止まる。
ぐっと下唇を噛み締めて、私は先ほどよりも早足で近づいた。――と、あと少しで触れられる距離まできたとき、
『ラウラ様、結界が……!』
シエーロ様が叫ぶ。え、と思ったときには、私を守ってくれていた結界がパリン、と音を立てて割れた。
おそらく魔王の力のせいと見て間違いないだろう。まさか、アルノルトはこんな強大な力をその身に封印していたなんて。
結界が割れたことで、あっという間に足元に黒靄が絡みつく。瞬間、指先に激痛が走った。
痛みに体を折って、自然と目線は足元に行く。そして気が付いた。靴の先が黒く染まっている。――これは、魔王の力に侵食されているのだろうか。
『ラウラ!』
遠くでウェントル様の声が聞こえる。結界を破られたことからして、精霊様たちは悪しき力のせいで近づけなくなっているのかもしれなかった。
痛みで意識が遠のき、思考が鈍る。ただ、今回の黒靄は人体に害を為すのは確かだ。あぁ、扉を開けなくてよかった。脂汗を浮かべながら一人呟いた。
(この痛みを、アルノルトも感じているんだ)
私は無我夢中で一歩、また一歩と踏み出す。足元からどんどん痛みが広がっていく。露出していた膝は黒く染まり、パリ、とひび割れてメッキのように表面が剥がれ落ちていった。
痛みは激しくなる一方だったが、自然と私の足は動いていた。
黒靄に試作品が触れないよう、容器の蓋を開けた後、両腕で胸の前に抱える。しかし黒靄はすぐに腕にまで侵食してきて、私は焦って口の中に試作品を“隠した”。
アルノルトの前までやってきたときにはもう、全身が黒く染まっていたことだろう。痛みすら感じなくなっていた。
しゃがみ込み、黒くひび割れた頬に手を伸ばす。その指先が黒く染まり、ぼろり、と崩れ落ちて、アルノルトの頬に私の指先だった黒い塵が落ちた。
(アルノルト……)
崩れ落ちた指先は元に戻るのだろうか。元に戻らなかったら、調合師を続けられないかもしれない。でも、それでもよかった。恐怖はもう消えていた。
身をかがめる。私の指先と同じように黒く染まり、崩れかけているアルノルトの手をそっと握る。そして――最後になるかもしれない、口づけを落とした。
***
――気づけば私は、何もない暗闇の中を彷徨っていた。ここには何もない。ただどこまでも深い暗闇が広がっている。
混濁した意識の中で、私は両親の顔を見た。それは走馬灯というには少しおかしな光景だった。
彼らは私の顔を覗き込んで、涙を流しながら笑っている。おめでとう、元気な女の子よ、としわがれた女性の声が言った。
両親の顔の向こうに、知らない女性の顔が見えた。長い前髪で表情はよく見えない。けれど彼女がとても穏やかな笑顔を浮かべていることを、私は知っていた。
女性は風のようにふわりと近づいてきたかと思うと、私の額にキスを落とす。瞬間、彼女の唇が触れた場所からあたたかい何かが全身に広がった。
我が子を慈しむような表情で私を見ると、その女性は空気に溶けるようにして消えてしまった。女性が自分の前から姿を消してしまったことがひどく悲しくて、まるで彼女に捨てられてしまったように思えて、私は大声をあげて泣いた。すると両親は困ったように笑いながら『元気ね』と明るい声で言う。
――それは”私”がラウラ・アンペールとしてこの世に生を受けた瞬間の光景だった。
不意に両親の顔が遠ざかっていく。そしてあっという間にあたりに暗闇が戻った。あの光景は、あの女性はなんだったのだろう。
何もわからない。答えを導き出せないまま、私は再び暗闇の中を揺蕩い――今度は、男性の声を聴いた。
『この子は私たちの宝物だ』
とてもとても、優しい声だった。心の底から相手を慈しんでいるのだと分かる、そんな声。
『大切な人たちを守るために努力を惜しまない、そんな優しい子に育ってほしいよ』
それは父から子に向けられた、切なる願いだった。私に向けられたものではないのに、誰に向けられたものかもわからないのに、胸がいっぱいになる。
男性と女性の声が遠ざかる。思わず待って、と声を上げようとした、その瞬間だった。
闇が吸収され、あたりに光が満ちる。ふわりふわりと浮かんでいた足が、気づけば地面を踏みしめていた。
「……ここは?」
眩しさに目を細めつつ、あたりを見渡す。しかし何もない。ただ暗闇が光へと変わっただけだ。
とりあえずどこかに出口がないかと一歩踏み出して、足元がふらついた。先ほどまでずっと宙を漂っていたせいだろう。踏ん張ることはせず、そのままぺたんと地面に座り込む。
ここは一体どこなのか。
あれから――アルノルトに試作品を処方してから、どうなったのか。
自分が生きているのか、死んでいるのかすらわからない。
分からないことばかりで、私は思わずはぁ、とため息をついた。――と、そのとき。
「随分と無茶をしたな、アンペール」
後ろから声をかけられて、私は目を見開く。すぐに振り返ることはできなかった。
――アンペールと、呼ばれた。その名で私を呼ぶ人物は一人しかいない。
そんな、まさか。本当に?
私はごくり、と生唾を飲み込んで、ゆっくり振り返る。呼びかけてきた人物は私のすぐ後ろに立っているらしい、ただ振り返っただけでは足元付近しか見えず、顔を確認することはできなかった。
視線を上にあげていく。足、腰、胸元、首、と順番に辿り――とうとう、黒い瞳と目が合った。
私の後ろに立っていたのはアルノルト。彼は呆れたような表情で私を見下ろしていた。
「ア、アルノルト!? ここは!?」
どうして彼がここにいるのだろう。まさか、二人とも死んで――
私は慌てて立ち上がり、感動の再会よりも先に現状把握のために問いかけた。
「俺の意識の中だ。おそらくアンペールは、俺の封印魔法に巻き込まれてしまったんだろう」
謎の空間はアルノルトの意識の中。私は封印魔法に巻き込まれていた。――正直、すぐに意味を理解できなかった。
よほど間抜けな顔をしていたのか、アルノルトは双眸を眇めて説明を続ける。
「試作品のおかげで魔王の力は弱体化し、俺は再び力を封印することができた。だがそのとき、アンペールは近くにいすぎた。魔王の力のせいで体が崩れ落ちて……なんと言えばいいのか、俺とアンタの境界が曖昧になっていたせいもあるだろう、アンペールの意識も俺の封印魔法に巻き込まれたようだ」
淡々とした説明に徐々に状況を理解する。
どうやら試作品の処方はうまくいったようだ。そして魔王の力も無事再び封印できた。これ以上ない結果だった。しかし――すぐ近くにいた私の意識もまた、封印魔法で封印されてしまった。
意識を失う直前の景色を思い出して、巻き込まれるのも無理もない、と思う。私の体もアルノルトの体もボロボロに崩れ落ちていく最中だったし、お互いの体から崩れ落ちた塵はきっと混ざり合っていただろう。私とアルノルトの境界線がかなり曖昧な状態だったのだと安易に予想がついた。
先ほどまで漂っていた謎の暗闇は、封印魔法によるものだったとすれば納得がいく。――が、しかし、それならば今のこの状況はどういうことなのだろう。暗闇が晴れて光に満ちた空間で、アルノルトとこうして会話をしているという、この状況は。
「えっと、今は一体どういう状況ですか?」
「封印魔法を解いている最中だ」
「え……」
封印魔法を解いている最中。
それは、つまり。
「もう俺の中に魔王の力は存在しない。……ルカーシュたちが無事、魔王を打ち破ってくれたようだ」
アルノルトは僅かに笑っていた。
封印しなければならなかった魔王の力は消えた。それが意味するのは――勇者側の勝利だ!
よかった、と喜びを口にしようとして、それより先に涙が零れ落ちた。一粒零れ落ちてしまえば、それを追うように次から次へと涙が頬を伝う。
「よかった、よかった……みんな……!」
ルカーシュ、ディオナ、ヴェイク、マルタ、ユリウス、エルヴィーラ。
勇者一行の顔が脳裏に浮かんでは消えていく。彼らは今頃王都へ戻っている真っ最中だろう。誰一人欠けることなく、誰一人大きな怪我をすることなく、戻ってきてくれることを祈ろう。そして盛大に出迎えるのだ。私たちの英雄を。
脳裏に浮かんだ幼馴染の顔に、はたと思い出す。ルカーシュから言付かっていたことがあった。
私は両の手で涙を拭った。そして歴史的勝利にもかかわらず、相変わらずクールな表情を浮かべているアルノルトに声をかける。
「ルカーシュ、結構怒ってるので、目が覚めたら覚悟しておいてくださいね」
「……あぁ」
アルノルトは今度こそ相好を崩す。その表情に、二人の友情を垣間見た気がした。
組んでいた腕を解いて、アルノルトは私を見る。
「またアンタに助けられた」
「精霊様たちとルカーシュたちのおかけです。私はただ試作品を処方しただけですから」
「今日だけの話じゃない」
小さく首を振ったアルノルトは、納得がいかないような表情だ。そこまで言うなら、と冗談めかして言う。
「そう思うんだったら、目を覚ましたあと、色々手伝ってください」
色々、と曖昧な表現を使ってしまったが、早い話が街の調合師への支援を彼にも手伝ってもらいたかった。主に、上司説得の面で。
アルノルトは「あぁ」と何かを思い出したかのように小さく頷く。
「街の調合師を指導して回ると言っていたな」
「そうです。準備が大変そうで、はやくも気が遠くなってるんです。知恵を貸してください」
「分かったよ」
楽しいな、と思う。胸の奥からあたたかな気持ちが絶え間なく湧き出てくる。これからもこんな風にアルノルトの近くにいられたらいい、と思って――ふと、そのささやかな願いが叶うのかどうか気にかかった。
アルノルトが王属調合師を目指していたのは、妹・エルヴィーラの自壊病を治すためだ。勇者の旅に同行していたのもその目的の延長線上のようなものであって、魔王封印が叶った今、彼の目的は完璧に達成されたことになる。だとしたら、アルノルトはこれからどうするのだろう。王属調合師を辞め、自分の人生を生きるのだろうか。――離れていって、しまうのだろうか。
ここで聞いておかなければきっと後悔する。そう思い、私は勇気を振り絞って尋ねた。
「あの、後処理が落ち着いたらどうするつもりですか? 王属調合師をやめたり……」
「今のところそのつもりはない。カスペルさんには数年分の借りがあるから、辞めたくても辞めさせてもらえないだろうしな」
「あはは、それは私も同じですね」
カスペルさんに数年分の借りがあるというのは私も同じだ。数年分どころではないかもしれない。とにかくしばらくは、カスペルさんの手となり足となり、どんな無茶ぶりにだって応えなければ。
王属調合師を辞めるつもりはない、というアルノルトの言葉に、私は安心していた。もうしばらくは同じ職場で働けるのだ。その間に芽生えた感情としっかり向き合おう。この想いを伝えるにせよ胸の内に秘めるにせよ、私にはもう少し時間が必要だった。
「それに――」
アルノルトが何かを言いだそうとしたそのとき、どこからともなく女性の声が響いてきた。
『ラウラちゃん! アルノルト!』
その声はメルツェーデスさんのものだった。続いてアカリ、イングリットさん、お師匠の声まで聞こえてくる。彼女たちはどうやら私を目覚めさせようとしているようだった。
驚き慌てる私とは対照的に、アルノルトは冷静に言う。
「そろそろ封印魔法が完全に解ける。巻き込んですまなかった」
なるほど。封印魔法が解けかけているから、こうして外の声が聞こえるようになったのだろう。
真っすぐこちらを見つめてくる黒い瞳から目を逸らすように、私は大きく首を振る。だめだ。以前のように顔が見られない。もしかすると頬が少し赤らんでいるかもしれない。
変に思われていないか心配になりつつも、私は視線を下げて口を開く。
「いいえ。えっと、それじゃあ、また」
あぁ、と短い返事が頭上で聞こえた。瞬間、強い力で引き上げられるような感覚に襲われて、意識が一瞬遠くなる。
――次に目を開けたとき、視界に飛び込んできたのはメルツェーデスさんの美しい顔だった。
「メルツェーデス、さん……?」
ぱちりぱちり、と瞬きを繰り返して、それから上半身を起こした。一体どれだけ眠っていたのだろう。体が重い。
どうやらルストゥの民の民家の一室に寝かされていたようだった。メルツェーデスさんの肩越しに、安堵の表情を浮かべているお師匠とイングリットさんが見える。先ほどから足元に感じているぬくもりは、きっとアカリのものだろう。
「あぁ、よかった!」
ぎゅ、とメルツェーデスさんに抱きしめられた。おずおずと抱きしめ返した後、彼女の肩越しにお師匠の潤んだ瞳と目が合い、微笑む。あぁ、随分と心配をかけてしまったようだ。
横から低い唸り声が聞こえてそちらを見やれば、隣に並べられたベッドにはアルノルトが眠っていた。いいや、今この瞬間、彼は目を開けた。――ようやくお目覚めだ。
「う、ううん……」
「アルノルト!」
イングリットさんがいの一番に起き上がったアルノルトを抱きしめる。呼びかけた声は涙で震えていた。
母親に抱きしめられて、アルノルトはどこか居心地が悪そうな表情で、しかししっかりと抱きしめ返していた。その光景を微笑ましく見守りながら、美しい親子だなぁ、なんて呑気なことを思う。
数言交わし、私もアルノルトも意識がはっきりしていることを確かめた後、もうしばらく休んだ方がいいとメルツェーデスさんたちは退室していった。そのお言葉に甘えてもうひと眠りしようと思ったのだが、その前に――まだ目覚めたアルノルトと会話をしていない。そう思い隣を見やれば、こちらを見つめる黒い瞳と視線がかち合った。
数秒じっと見つめられて、思わず頬が赤らむ。私はおそらく、たぶん、この人に特別な感情を抱いている。
「お、おはようございます」
「あぁ」
たどたどしい挨拶を交わしたそのとき、頬を風が撫ぜた。どうやら窓が開いているらしい。
風に誘われるように窓の外を見やる。――そこには雲一つない青空が広がっていた。
この空は、ルカーシュたちが取り返してくれたのだ。思わず息も忘れて青空を眺める。
「うわぁ……いい天気ですね」
「あぁ、一生忘れることのない青空だろうな」
感慨深そうにアルノルトも呟く。
彼の言う通り、今日の青空を忘れることはないだろう。大切な人たちが取り戻してくれた平和な日々をこれから生きていくのだ。
「ラウラ」
呼ばれて、反射的に振り向いた。そこには当然、アルノルトしかいない。
――今、ラウラって呼んだ?
そう自覚した途端、心臓が変な動きをみせた。そわそわと落ち着かなくて、今までになく目が泳いで、今にもこの場から逃げ出してしまいたい気持ちになった。
アルノルトの顔が見られない。私はぎゅう、とマットレスを握りしめる自分の手の甲を見つめて――
「好きだ」
「……へ?」
彼が何を言ったのか、わからなかった。私の思考は完全に停止する。
――好きだって、何が?
私は思わず顔を上げた。そうすればアルノルトと目が合う。とてもやさしい瞳だ。そんな優しい瞳で、私を見ていたなんて。
すっかり動きの止まってしまった私にフッと笑うと、アルノルトはこちらに背を向けて横になった。どうやらこのまま眠るつもりらしい。
「返事は今度聞かせてくれ。今振られでもしたら、回復に支障が出る」
返事? 振られる?
――私は今、好きだと言われた? 私は、アルノルトに、告白された?
「ちょ、ちょっと! アルノルト!」
大声で眠ろうとするアルノルトに呼びかける。眠っているはずがないのに、アルノルトは決して応えなかった。それがひどく憎たらしくて、混乱のあまりなんだか泣きそうになって、ごちゃ混ぜになった感情をぶつけようと立ち上がったのだが――瞬間、くらり、と眩暈にも似た眠気に襲われた。
さすがに逆らうことはできず、しぶしぶ横になる。そうすればすぐさま睡魔に意識が飲み込まれていった。
ぼんやりと見える、アルノルトの背中。眠りに落ちる直前、先ほどのアルノルトの声が鼓膜に蘇った。
『好きだ』
――つい先日私の心の中に芽生えたばかりの感情は、誰でもないアルノルト本人によって、あっという間に大輪の花を咲かせようとしていた。