169:急変
ここ最近の避難生活はとても穏やかなものだった。毎日朝と晩、アルノルトの様子を確認して、それ以外は調合に時間をあてている。
とにかく勇者一行の無事を祈る毎日だ。ルストゥの民の街に紛れ込んだ魔物も退治できたし、毒霧の森も無事に抜けられた。あとはもう、魔王との最終決戦だけだと思っていた――そんなある日のできごとだった。
「おはようございます」
いつものように朝、アルノルトの許を訪ねた。今日もベッドの上ですやすや寝息を立てているのだろうと彼を一瞥する前に、私は窓へ近づく。そしてカーテンを開け気持ちのいい朝日を部屋に招き入れてから、振り返った。
いい天気ですよ、といつも通りの言葉を投げかけようとして――眠るアルノルトの体から立ち込める黒い靄に目を見開いた。
「う……」
鼓膜を揺らした苦しそうな唸り声に、心臓をぎゅっと鷲掴みにされた錯覚に陥った。
――黒靄。それには、見覚えがあった。ありすぎた。
心臓がバクバクとうるさい。そんな、まさか。
私は息を切らして駆け寄った。
「ア、アルノルト?」
床に膝をついて、顔を覗き込む。アルノルトの寝顔は苦しみに歪んでいた。
目の前の光景が信じられず、私は数秒呆ける。そして――まるでこちらを挑発するように鼻先を過ぎさった黒い靄に、ようやく我に返った。
(魔王の力……!)
黒靄はアルノルトがその身に封印したはずの、魔王の力。それがこうしてアルノルトの体から立ち込めているということは――
正直、専門的な知識がない私には詳しくは分からない。ただ分かったのは、アルノルトの身に危険が迫っている、ということだけだった。
***
あの後すぐにメルツェーデスさんとイングリットさん、そしてジークさんにアルノルトの状況を伝えた。彼らは皆一様に驚き、急いでアルノルトの許へと駆け付けてくれた。
アルノルトの様子を診てくれたのはメルツェーデスさんだ。彼女は数分アルノルトの容態を観察した後、ゆっくりと言った。
「おそらく……だけれど、封印魔法が弱まってきているわ」
――封印魔法が、弱まってきている。
それはアルノルトの体力がもう限界を迎えようとしているからなのか、それとも。
すっかり黙り込んでしまった私たちに、メルツェーデスさんは続ける。
「正確に言えば、魔王の力の抵抗が強くなってきているんだと思うわ」
最終決戦が本格的に近づく今、魔王の許に戻ろうとしているのだろう。
街に潜り込んだ部下が失敗し、勇者の足止めもそう長くは続かなかった。魔王側も焦っているに違いない。だから強硬手段に出た、といったところか。
封印が弱まっているのなら――封印が破られてしまうか、封印しなおすか、どちらかしかない。
苦しむアルノルトに目線をやりながら、メルツェーデスさんに尋ねる。
「ど、どうすれば? 他の人に封印魔法をかけ直してもらった方がいいんですか?」
メルツェーデスさんは青ざめた顔を数度振る。
「いいえ。前も言ったけれど、封印魔法はとても危険な魔法なの。本来は人体にかけるような魔法ではない。危険すぎるわ」
イングリットさんやジークさんは先ほどから一度も口を開かない。メルツェーデスさんの言葉を静かに待っていた。
メルツェーデスさんは私たちに余計な混乱を与えないようにか、一つ一つ言葉を選ぶようにゆっくりとした口調で続ける。
「それに、今のアルノルトに外から封印魔法をかけてしまえば、魔王の力の一部だけでなく、アルノルトも封印の対象になってしまう」
つまり、今の状態のアルノルトに封印魔法をかけ直して、魔王の力を再度封印するのは極めて困難なことらしい。
それならば、残された道は――
「アルノルトが耐えてくれる可能性にかけるしかない、ということか」
イングリットさんがようやく口を開く。メルツェーデスさんは躊躇いがちに、しかし確かに頷いた。
沈黙が落ちる。重い重い、沈黙だ。
私に何かできることはないだろうか。今このときも、一人孤独にアルノルトは魔王の力と戦っているはず。そんな彼の力になることはできないだろうか。
「取り急ぎ神殿へ移動しましょう。できる限り強力な結界を張らせます」
ジークさんが話を切り上げるように言って、部屋の外にいるルストゥの民に指示を出した。そうすれば複数人のルストゥの民がすぐさまやってきて、慎重にアルノルトの体を運び出す。
運ばれていくアルノルト。その後に続くイングリットさんとメルツェーデスさん。彼女たちの背中を追おうとして、しかし足が地面に縫い付けられてしまったかのようにその場から動けなかった。
部屋に残されたのは私とジークさん。彼の窺うような目線を感じたが、それに応える余裕はなかった。
(どうしよう、どうすればいいんだろう……)
私がアルノルトにできること。ショックですっかり動きの鈍ってしまった脳をどうにかこうにか動かして――脳裏に浮かんだのは、数か月前、この街で行われたエルヴィーラの実験のこと。
「試作品……」
ぽつり、と私の口からこぼれた単語に、視界の隅でジークさんが反応したのが分かった。
顔を上げて傍らに立つジークさんを見る。彼はその時点で、私が言おうとしていることを理解しているように見えた。
「ジークさん、ルカーシュとディオナと連絡取れますか?」
「すぐに」
頷いて、ジークさんは部屋から駆け足で出ていく。私はすっかり空になったベッドを数秒眺めて、それから外に出た。
光の器がある部屋へ向かう途中、小さな声でその名を呼ぶ。
「アカリ、アカリー?」
水の精霊が作り出す精霊の飲み水。それが試作品には必要不可欠だ。
私の呼びかけに応えてくれたのか、数分後、アカリは空間を裂くようにして目の前に現れた。私は慌てて駆け寄り、その小さな体を抱き上げる。
ただ事ではない私の様子を見て何かを感じ取ったようで、アカリは不安そうな表情をしていた。
「ラウラ?」
「お願い、力を貸して」
アカリはこくん、と頷いて私の胸元に顔を寄せた。あたたかい。不安に飲み込まれそうな私を慰めようとしているのかもしれない、なんて思う。
解けかけた封印魔法。外から魔法を再度かけ直すことは極めて困難。
封印を解こうと、魔王の力の一部が暴走でもしたら? それこそ、自壊病と同じような現象が起こってしまうかもしれない。もしかしたら、アルノルトの命は――
私は脳裏を過ぎ去った不安を振り払うように頭を振った。そして駆け足で光の器がある部屋へと向かう。私が訪れたとき、既に水面にはルカーシュとディオナの姿が映っていた。
『ラウラ、話を聞きました。アルノルトさんの容態が……』
努めて冷静な声でディオナが切り出す。その隣で、ルカーシュは青い顔をして俯いていた。
私は器の前の椅子に座って、声が震えないように気を付けながら、手短に用件を伝える。
「そうなの。それで、エルヴィーラのときと同じように、試作品で対抗できないかと思って」
『魔王の力をアルノルトから追い出すってこと?』
ルカーシュの硬い声が問いかけてくる。彼は顔は俯いたまま、目線だけこちらに向けて上目遣いで私を見ていた。
――魔王の力を、アルノルトの体から追い出す。エルヴィーラのときと同じ結果を辿るのであれば、そうなることになる。しかしそれはアルノルトの意思に逆らうのではないか、と思う。
アルノルトが長い眠りにつく直前、彼は試作品を飲むのを拒否した。魔王の力を削ることを最優先としたのだ。
私が試作品を使ってアルノルトの体から魔王の力を追い出せば――当然、その力は魔王の許に戻るだろう。それは彼の望むところではないはずだ。それに魔王側の戦力が強化されれば、ルカーシュたちもより苦戦を強いられることになる。
一番の理想は魔王の力の抵抗を試作品によって弱めて、アルノルトの封印魔法で再び抑え込める状態になること。しかしそううまく話が進むだろうか、とも思う。
「も、もしくは、今アルノルトの中で暴れてる力を弱めることができたらって……」
『わかった。すぐに作ろう』
迷いで声が震えたが、ルカーシュは力強く頷いてくれた。
どういった結果になるにせよ、とにかく対抗策は練っておかなければ。処方するかしないかは別として、試作品は作っておいた方がいい。
『ねぇ、ラウラ』
不意にルカーシュに呼びかけられる。その声は震えていた。
『アルノルトの封印魔法を解いたら、駄目なのかな。アルノルトが魔王の力を解放すれば、それで……』
ルカーシュは悲痛な面持ちで、こちらにむかって体を乗り出した。
――彼はアルノルトの命が失われてしまう可能性を、心の底から恐れている。大切な仲間を失うぐらいなら、自分たちの戦いが険しいものになっても構わない。そう思っているようだった。
仲間を見捨てるという選択肢を持たない、優しい幼馴染らしい言葉だ。けれど。
『封印魔法は本人にしか解けない』
割り込んできたのは幼い少女の声だった。
ルカーシュはバッと体ごと振り返る。彼の後ろに、兄によく似た真っ黒な瞳でこちらを見つめるエルヴィーラがいた。
彼女は泣いていなかった。大切な兄の危機に誰よりも動揺しているだろうに、凛と一人で立っている。
『お兄ちゃんは絶対に封印魔法は解かない。自分が死ぬことになっても』
それは誇り高き魔術師の言葉であり、兄を誰よりも知る、妹の言葉でもあった。
エルヴィーラは断言した。思う、なんて曖昧な表現を使わずに、絶対にそうだと確信しているようだった。
『お兄ちゃんは昔からずっと、そういう人だから』
エルヴィーラは笑った。仕方ないなぁ、と、そう言いたげな、呆れるような、けれど溢れんばかりの愛情を滲ませた笑顔だった。
――彼女はもう、覚悟を決めている。いや、兄の覚悟を受け止めているのだ。誰よりもはやく、誰よりも真正面から。
「できる限りのことは、全部、やってみる」
気づけばそう口にしていた。
このまま何もしなければ、アルノルトが命を落としてしまうかもしれない。だからといって試作品を処方して、魔王の力をうまく抑え込めるかは分からない。アルノルトに封印魔法を解く意思がない以上、試作品が魔王を外に追い出そうと作用すれば思わぬ反応が起きてしまうかもしれないし、万が一力が外に出るようなことがあれば、ルカーシュたちに負担がかかる――
どの道を選ぶべきなのか、分からない。でも時間も魔王も、待ってはくれない。
エルヴィーラはきゅ、と下唇を噛み締めて、大きく頷いた。そんな彼女にルカーシュはこれ以上言い縋ることはできなかったのか、たくさんの言葉と生唾を飲み込むようにごくりと喉を大きく上下させ、再びこちらに向き直った。
『僕たちもできるだけ早く、魔王の許にいけるようにする』
そう、全ては魔王を倒せば解決すること。そのときをただ、祈りながら待つべきなのか――
通信を切って、退出する。そして当てもなく歩きはじめた。
こんなとき、アルノルトならどうするだろう。彼は、どの選択肢を選ぶだろう。
気づけば、つい先ほどまでアルノルトが寝かされていたベッドの前に来ていた。そっとマットレスに触れてみるが、冷たい。今頃アルノルトは神殿に寝かされて、ルストゥの民の結界に守られているのだろう。
「アルノルト……」
アンペール、と呼ばれた気がした。――違う、その声が聞きたいのだ。
彼はいつだって冷静で、前を見据えて、決して諦めることなく、誰よりも最初に腹を括って行動する。妹が難病に伏せったときだって、治療法を探すためだけに調合師を志した。魔王にその身を乗っ取られたときも、最後の最後まで抵抗して、しまいにはその身に力の一部を封印してしまった。
そんな彼を、私は近くで見てきたのだ。だから――私も、腹を括って前に進もう。彼と同じように。
エルヴィーラのときのことを必死に思い出す。
(エルヴィーラに精霊の飲み水を飲ませたとき、魔王はダメージを受けて回復するために、彼女の体の中でじっとしていた。その後、試作品をエルヴィーラに飲ませたら……勇者の力や光の力を嫌って、外に出てきた)
しかし前回と決定的に違うのは、今回の魔王の力は外へと脱出するタイミングを虎視眈々と狙っているということ。そしてアルノルト自身に封印魔法を解く気はおそらくないだろう、ということ。早い話が前回とお互いの狙いが逆転しているのだ。
エルヴィーラのとき、私たちは魔王を追い出したくて、魔王は寄生し続けたかった。今回は逆に魔王側は外に出たいと思っていて、私たちはアルノルトの体の中で大人しくしていて欲しいと願っている。
それなのにエルヴィーラのときと同じように試作品を処方して大丈夫だろうか。精霊の飲み水を処方した際、一度エルヴィーラの中の魔王が大人しくなったのも、魔王が“そこ”にいたかったからで、今回も同じようにただ大人しくなるとは限らない。
前例がないだけに、何が起こるか分からないのだ。それにアルノルトと魔王の力は、今この時も激しく争っているところだろう。そこに下手に干渉しては、思わぬ反応を引き起こしてしまう可能性がある。
(賭けに出るには危険すぎる)
ここで選択を間違えれば、最悪この世界が魔王の手に渡ってしまう。
そう考えると試作品の処方を検討するよりも、ルカーシュたちが魔王を倒すその日まで、どうにかアルノルトの封印魔法を保たせる方法を考えた方が、安全かつ確実に思える。ならば私たちが今すぐ取り掛かるべきなのは、魔王の力への直接的な干渉ではなく――
(外に出てきて欲しくないなら、魔王の力が出ていきたくないと思う環境を作るしかない。出ていったところで、大きなダメージを食らってしまうような、そんな環境を)
やはり脳裏に浮かぶのは、試作品の存在。
魔王が嫌う聖なる力でアルノルトの体を包みこんでしまえば、それは魔王の力にとって出ていきたくない環境にならないだろうか。それに万が一、封印魔法が破られて力が外に出てきてしまったとしても、聖なる力によってダメージを与えることができれば、魔王側の戦力の強化を抑えられるかもしれない――
一秒でも時間が惜しい。私の考えが全くの的外れだったとしても、とにかく動き始めなければ何も始まらない。
私は再びアカリを呼んだ。アカリだけじゃない。精霊石を授けて下さった精霊様全員を。
「あの、ご相談があるのですが」
そうして、作戦会議が始まった。




