161:名前
それはリーンハルトさんたちに用意してもらっていた調合室で、一人黙々と調合していたときの話だ。
「おい、ラウラ!」
「うわぁ!?」
誰もいなかったはずの背後から声がして、私は調合器具を手から滑らせた。幸い割れることはなかったが、落とした調合器具を慌てて自分の許に抱き寄せる。そしてバッと勢いよく振り返った。
振り勝った先には、緑髪の少年。どこかで見覚えのあるこの少年は――
「ウェ、ウェントル様……?」
呼びかければ、少年――ウェントル様は「ん」と口をへの字にしてこちらに大きな鞄を差し出してきた。中を見れば、ルカーシュたちが立ち寄った先の街で買ったのか、お菓子や果物といった類のお土産と、手紙が一通入っているのが確認できる。
ありがとうございます、と目を見てお礼を言えば、若干不機嫌そうだったウェントル様はまんざらでもない顔で頷いた。
「今、ルカーシュたちはどこに?」
「ゲールって村で休んでるぞ。村の近くに精霊の住処があったから、色々届けるついでにアルノルトとラウラの様子を見てきて欲しいって言われたんだ」
精霊をこき使いやがってー! と声をあげるウェントル様。どうやら不機嫌の原因はそれだったらしい。
先日、水の精霊が手紙を届けてくれたときにも思ったことだが、高位の存在である精霊を便利屋のように使うのは不敬にあたるだろう。不機嫌になりつつも頼みを聞いてくれる彼らの慈悲深さに感謝しなければ。
「わざわざすみません。アルノルトの顔、見ていきますか?」
「ぐーすか寝てるんだろ?」
「ま、まぁ、そうですけど……」
アルノルトの様子を見てくるように頼まれたと言っていたから、彼が寝ている民家まで案内しようと考えたのだが、ウェントル様はあまり乗り気ではないようだ。へそを曲げているのだろうか。
苦笑しつつも、私は食い下がる。
「手紙に返事を書きたいので、その間だけでも」
「しょーがないなー」
しぶしぶ、といった様子でウェントル様は私の手をとる。どうやら案内しろ、と言いたいらしい。
私は机の上の調合器具を散らばらないように箱の中にまとめて――後でしっかり洗って片付けよう――ウェントル様と手をつないだまま、調合室を後にした。
パタン、と扉を閉めた瞬間、足元にまとわりつく温もりと毛の感触。不思議に思った私が足元を見るより先に、ウェントル様が「あ!」と声をあげた。
「オマエ! ついてきたのか?」
ウェントル様が片手で若干強引に抱き上げたのは、大方の予想通り、水の精霊だった。はっはっ、と舌を出して息をしているのを見るに、ウェントル様の後を走って追いかけてきたのだろうか。
ついてきたのを無理やり帰すこともないので、二人と一匹でアルノルトの許を訪れる。見張りのルストゥの民たちは精霊様のこともしっかり把握済みなのか、初めて見る少年と子犬の姿に特に驚くことなく、そして問い詰めてくることなく、出迎えてくれた。
アルノルトの寝顔をじろじろ観察するウェントル様を横目に、私は荷物の中に入っていた手紙に目を通す。魔王の許に魔物が集まっている影響か、道中特に邪魔は入ることなく、順調に進んでいるらしい。
「なぁ、名前つけてやったのか?」
返事を急いで書いていたところに、ウェントル様が問いかけてくる。
一瞬なんのことか分からなかったが、“名前”という単語でピンときた。水の精霊に私が名前をつける約束をした件だろう。
私はペンを一度置いて、苦笑する。
「いいえ、まだです。思いつかなくて……」
「えー! かわいそーになー。ずっと待ってるのになー」
ウェントル様が水の精霊を抱き上げて話しかける。そうすれば水の精霊は同意するように「ワフ」と鳴いた。
待たせてしまっていることに罪悪感はあるものの、そうそう簡単に決められるものではない。
「で、でも、精霊様に名前をつけるなんて恐れ多くて……」
「飼ってる動物に名前つけるのと一緒だって。別に名前に大した意味なんかないぞ」
「えぇー……」
ペットに名前をつけるのと、生まれたばかりとはいえ散々助けてもらった精霊に名前をつけるのは全く違う! と反論したいものの、こればっかりは精霊と人間の考え方の違いだろう、と思い飲み込む。
未だ覚悟の決まらない私を見て、ウェントル様はおおげさなため息をつく。そして水の精霊を抱いたままこちらに近づいてきたかと思うと、ずい、と私の鼻先に子犬の鼻先を突きつけてきた。
「自分の名前でも、周りの人の名前でも、適当に思いついた名前でもいいって。むしろ早く決めてもらわないと、なんて呼んでいいのか困るんだよー」
なんて呼んでいいのか困る、という点においては同意だ。実際私もずっと「水の精霊」と呼んでいることに違和感があったし、呼びかけにくい。
ウェントル様は私に突き付けていた水の精霊を再び自分の胸元に抱えなおすと、小さな子どもに話しかけるような声音で言う。
「オマエはラウラでもいいよなー?」
ラウラ、なんて、それだけは勘弁してほしい。いくら本人がよくても、私が落ち着かない。
しかし水の精霊は同意を示すように上機嫌に「ワフ」と鳴いた。
「もう一つの名前とか持ってないのかー?」
「そんな無茶な……」
ウェントル様の無茶苦茶な言葉に、私はがっくりと肩を落とす。
名前なんて二つも持っているわけがない。何らかの理由で偽名を使っている人ならともかく――
(もう一つの、名前?)
そこで、はたと思い出す。そうだ、“私”は名前を二つ持っている。今世の名前と――前世の名前と。
定期的に思い起こしている「ラストブレイブ」以外の記憶は、どんどん薄れていっている。しかし流石に自分の名前はまだ憶えていた。
その名で私のことを呼んだ人々の声はもう覚えていない。しかし、私は遠い昔、その名で呼ばれていた――
「……アカリ」
「ワフ!」
小さな呟きに応えるように吠えられて、私は「えっ!?」と大きな声を出してしまう。
そんな、まさか、「アカリ」という名前に反応した?
驚く私に、ウェントル様が畳みかけるように言った。
「おっ、今の名前、気に入ったみたいだな! アカリって言ったか?」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
すっかり「アカリ」で決定の流れになってしまい、私は慌てる。
確かにその名は、私のもう一つの名前だ。しかしウェントル様の無茶ぶりで思い出しただけであって、水の精霊にその名をつけようと思った訳ではない。これでは「ラウラ」と名付けるのとそう変わらない!
慌てる私をよそに、水の精霊は嬉しそうにその名を繰り返す。
「アカリ、アカリ」
「本人が気に入ってるんだからいいだろ、決定!」
ふん、とウェントル様はなぜか誇らしげな表情だ。
私としては異議を申し立てたかったが、もうすっかりその気になっている本人から、無理やり取り上げるような真似もできなくて。そもそも本人がそう名乗ると決めてしまえば、私がいくら言っても無駄だろう。
あぁ、不用意に口にするんじゃなかった。
後悔する私に、ウェントル様は明るく問いかけてくる。
「アカリって、誰かの名前か? 聞いたことないけど」
それはそうだろう、と思う。アカリ、なんて、このファンタジーな世界で使われる名前ではない。
さてどう答えようか、と数秒悩み、それから観念したように口を開いた。
「……夢の中の、もう一人の自分の名前です」
いつぞやにアルノルトにも、夢の話といって前世のことを話した覚えがある。
夢の中で別の名前を持っているのはおかしいだろう、と言った本人ですら思ったが、ウェントル様は特に気にすることなく受け入れたようだった。
「ふぅん? じゃあやっぱ、ラウラ二号じゃん」
「いやっ、でも、そうかもしれませんけど、二号というわけじゃ……」
反射的にウェントル様の言葉を否定したものの、自分でも似たようなことを考えていた以上、反論しきれなくて。
私は水の精霊を思わず見やる。
「ごめん、嫌だったら言ってね。別の名前、みんなで考えるから」
「アカリがいい」
間髪入れずに、普段よりしっかりとした口調で子犬は答えた。
そこまで気に入った理由はなんなのか、正直分からない。けれど、何度も「アカリ」とその名を口にする水の精霊に、面映ゆい気持ちを抱きながらも、悪い気もしなくて。
「アカリ、ラウラ、大切」
一語一語、噛み締めるように水の精霊は――アカリは言う。
もう「アカリ」を自分の名にすると、この子は決めたようだ。
「ありがとう、……アカリ」
もう二度と口にすることはないと思っていたその名は、それでも口によく馴染んだ。
***
「荷物多い」
ウェントル様はパンパンになった大きな鞄を肩からさげて、唇を尖らせながら不満をこぼす。
パンパンの鞄の中は主に回復薬だ。あれもこれもと詰め込んだ結果、だいぶ重くなってしまった。
「ご、ごめんなさい。つい……」
謝れば「まっ、いいけどな」とウェントル様は笑顔を見せてくれた。
「アルノルトのことよろしくな」
「はい。ウェントル様、ルカーシュたちのこと、よろしくお願いします」
「任せとけって!」
ウェントル様は胸をどん、と力強く叩く。
私のクロスボウが精霊の力を纏えたように、ルカーシュたちの武器も似たような強化ができるはずだ。どうかあと少し、最後まで彼らの力を貸して欲しかった。
私はしゃがんで、ウェントル様の足元に大人しく座っている子犬の頭を撫でる。
「アカリも、よろしくね」
「うん」
大きく頷いて、ウェントル様とアカリは時空の狭間へと姿を消した。
アカリ。前世の私。あの子がその名を引き取ってくれたことで、なぜだろう、すっきりとした気分になっていた。




