151:「ラウラ」
聖域の中で横たわる幼馴染たち。彼らを足蹴にしながら、こちらに歩み寄ってくるアルノルト――ではなく、魔王。
一体いつ、アルノルトはその体を魔王に乗っ取られたのか。そう考えて思い至ったのは、シエーロの塔に足を踏みれる前、森で離ればなれになったときだ。おそらく魔王は最初から仲間の中の誰かの体を乗っ取ることが目的で、魔法で散り散りにする罠を張ったのではないか。
しかしそれを考えたところで、今になってはどうすることもできない。
魔王は赤い目をにぃ、と細めて、自分の手の内にある聖剣を眺めた。
「これが聖剣か」
満足そうに呟いた、その刹那。バチン! と大きな音を立てて、聖剣が魔王の手を拒絶した。
魔王が手を離したことで、聖剣は地面に落ちる。
「拒絶するか……忌々しいな」
魔王の視線が地面に落ちた聖剣に向けられ、私たちから逸れた。その隙を見逃さず、獣の姿になった水の精霊が牙を剥いて飛び掛かる。
「ワフ!」
「邪魔だ」
――が、しかし、魔王に手で軽く払われてしまった。
水の精霊の体が地面に叩きつけられる。キャウン、と痛々しい鳴き声を上げた精霊に駆け寄りそうになる体を必死に抑えた。
私の前には、ウェントル様たちが守るように立ちはだかってくださっている。しかし水の精霊を右手で軽くいなしてしまう魔王からしてみれば、正直時間稼ぎにもならないだろう。クロスボウの矢だってきっと同様だ。
どうしよう。どうすれば――そこで、は、と思い出した。
(魔王なら、試作品が効くかもしれない)
エルヴィーラの体に寄生していた魔王を追い出すことに成功した試作品。魔物にも効力を示すことから、何かあったときのために、と常に鞄の中に携帯していた。
どうにかしてアルノルトに試作品を飲ますことができれば、以前と同じように、魔王を彼の体から追い出すことができるかもしれない。
そのためには――近づかなければ。
私は試作品を右の手の内に隠すように持って、鞄を肩から外した。少しでも身軽な状態の方がいい。
魔王が徐々に近づいてくる。チャンスは一度。こちらから仕掛けるか、待つか。
恐怖のあまりガチガチと音を立てる歯を食いしばる。キッと魔王を睨みつける。覚悟を決めろ!
突っ込むためにぐっと地面を踏みしめて――私が地面を蹴るより数瞬早く、倒れていたはずのルカーシュが魔王の背後から切りかかった。
「ラウラから離れろ――!」
「勇者か!」
魔王は魔法で辛うじてルカーシュの剣を弾く。彼は地面に落ちていたはずの聖剣をその手に握っていた。
続いて魔王に切りかかったのはヴェイクだった。彼は一切の躊躇いなく、アルノルトの体に向かって剣を振るう。
「目ぇ覚ませ! アルノルト!」
ヴェイクの強力な一撃によって、アルノルトの体が大樹に向かって吹っ飛んだ。しかし大樹に体が叩きつけられる寸前で、魔法を使ったのか魔王は体勢を立て直す。ヴェイクからの攻撃を受けたのであろう右の腕がだらん、と力なく重力に従って垂れていた。
痛々しいその姿に、私は言葉を失う。
――アルノルト、アルノルト。早く目を覚まして。
「アルノルト!」
気づけばその名を叫んでいた。すると、アルノルトの肩がびくりと揺れる。かと思うとぐぅ、と心臓のあたりを強く握りこんで、彼は身を丸めた。
――もしかしたら、魔王に体を乗っ取られたアルノルトが、必死に抵抗しているのかもしれない。
「嬢ちゃん! 呼びかけ続けろ!」
そう叫んでヴェイクが再び突っ込んでいく。私は言われるまま、アルノルトの名前を繰り返した。
ヴェイクの剣に迷いはない。きっと彼は覚悟を決めている。万が一のときは、アルノルトごと魔王を切るつもりだ。
――けれど、そんなの、絶対に嫌だ。彼の帰りを待っている人がいるのだ。彼はこれからも生きていかなければいけない人だ。多くの人に必要とされる人だ。こんなところで、こんな風に、最期を迎えていい人ではない!
「邪魔するな――!」
魔王が叫ぶ。ヴェイクの体が魔法によって神殿の壁に叩きつけられた。慌ててそちらを見やるが、ヴェイクはがっくりと意識を失ってしまったようだった。
早く回復しなければ。そう思うものの、魔王を前に身動きがとれない。
魔王の赤の瞳はルカーシュを捉えていた。聖域で聖剣を、そして勇者を始末するために今回の計画を企てたのだろう。だとしたら、その計画だけは何があっても阻止しなければならない。
ルカーシュを振り返る。彼の聖剣を握る手は震えていた。当たり前だ。優しすぎる彼は、仲間を切ることに躊躇いを覚えるに違いない。それに、最初の爆発で怪我も負っている。
私は魔王とルカーシュの間に割って入るように立った。ラウラ、と背後から名前を呼ばれたが、振り返らなかった。
「どけ、小娘」
くい、と顎をしゃくる魔王。私は首を振って、震える声で“中”のアルノルトに呼びかけた。
「アルノルト! エルヴィーラはどうするの! あの子はあなたの帰りをずっと待ってる!」
魔王の――アルノルトの目元がピクリと反応する。一瞬ではあるが、足も止まった。
間違いない。アルノルトは今必死に魔王と戦っている。まだ彼の意識は残っている。
人の生き血を啜ったような、真っ赤な瞳。恐ろしさで足が震える。けれど絶対に、その瞳の奥にアルノルトは“居る”。
「ご両親に、エルフの村にルカと一緒に連れていってくれるっていう約束はどうなるんですか!? お師匠へのお礼もまだきちんとできてないし、それに……町の調合師を支援したいっていう私の夢、後押ししてくれたのはアルノルトでしょう!」
自分でも何を言っているか分からなかった。それでもひたすら途切れることなく、魔王の中のアルノルトに呼びかける。
こんなところで死に別れるなんて駄目だ。エルヴィーラになんと伝えればいい? あなたのお兄さんはこの世界のために死にました? 立派な最期でした? そんな言葉は、なんの慰めにもならない!
エルヴィーラだって、メルツェーデスさんだって、お師匠だって、ルカーシュや旅の仲間だって、たとえ世界を救うことができたとしても、アルノルトが死んでしまえば一生埋められない大きな穴を抱えて生きていかなければならないのだ。――そう、私だって。
「大切な人をその手で殺すのか! アルノルト!」
背後のルカーシュが叫ぶ。彼は目尻に涙を浮かべ、怒りと悲しみに声を震わせていた。
ゆらり、アルノルトの体が揺れる。ルカーシュは声を枯らして、尚も叫んだ。
「あんたは一生後悔するだろうな! 魔王に操られて僕たちを裏切り――大切な人をその手にかけたことを! 世界があんたを英雄だと語り継いだとしても、僕は一生許さない!」
ルカーシュはボロボロと泣いていた。頬を滑り落ちる涙の感触に、私も泣いているのだと自覚した。
私の前に幼馴染が出る。聖剣を握るその手は、もう震えていなかった。
ふらつくルカーシュの背後に守られながら、私もどうにか体勢を立て直す。試作品が入った容器の蓋を緩め、魔王を睨みつけた――その瞬間、ぐらり、と大きくアルノルトの体が揺れた。
そして、
「随分と、好き勝手言ってくれたな」
――聞こえてきたのは、聞きなれた低音。
顔を上げる。涙で視界が滲んで、すぐにはよく見えなかった。
目の前の魔王は――アルノルトは心臓のあたりを抱えるように身を丸めて、顔をこちらに向けていた。その瞳の色は、黒。黒だ! 赤じゃない!
ルカーシュが慌ててアルノルトに駆け寄る。私は情けないことに驚きと安堵でへたりこんでしまって、すぐに立ちあがれなかった。
「アルノルト! 意識が――」
戻ったのか、とルカーシュは尋ねようとしたのだと思う。しかしどん、とアルノルトに突き飛ばされて、言葉は途中で途切れてしまった。
「ア、アルノルト?」
戸惑いの声を投げかけるルカーシュに、アルノルトは苦しそうに笑う。かと思うと、彼の足元に大きな魔法陣が現れた。――何をするつもりだ。
私はようやく立ち上がり、突き飛ばされたルカーシュに駆け寄る。そして魔法陣の外から、苦しそうに身を捩るアルノルトの姿を見つめた。
――今すぐ駆け寄りたい。けれど、きっと今駆け寄ることは叶わないだろう。アルノルトは“何か”をしようとして、ルカーシュを突き飛ばしたのだから。
『小僧、貴様……!』
まるで脳内に直接響くかのようなその声は、魔王のものだった。
瞬間、アルノルトの体から黒い靄が出ていく――と、アルノルトは大きく舌を打って腹を抱えるように身を屈めた。
まるで逃げるような動きでアルノルトの体から逃げていった黒い靄には、見覚えがありすぎた。それはルストゥの民の力を借りて行った、エルヴィーラの実験でのこと。彼女の中に巣食う魔王が、黒い靄となって出てきたのだ。
――つまり、おそらくは、今アルノルトの中から魔王が出ていったことになる。それならば、と私は慌ててアルノルトを見やり、言葉を失った。
黒い靄は未だアルノルトの体にまとわりついていた。それなのに、アルノルトは薄く笑っている。
「本体には、逃げられたか……だが」
アルノルトはぐっと拳を握りしめる。すると魔法陣がカッと一際強く光った。
――彼は何をしようとしているのだろう。アルノルトの体にまとわりつく黒い靄は魔王の力だ。それなのになぜ、彼は笑っているのか。
ルカーシュが唖然とアルノルトの名を呟く。そうすれば、彼は私たちに目をやった。その瞳は黒。間違いない、今の彼は魔王ではなく、アルノルトだ。
「魔王、本体には逃げられたが……奴の力の一部は、まだ、俺の中に“ある”」
どしゃ、と、とうとうアルノルトはその場に倒れる。そして腹の底から“それ”が逃げ出さないように、彼は更にぐぐっと身を縮こまらせた。
――アルノルトが何をしようとしているのか、ようやく理解した。
(自分を乗っ取っていた魔王の力の一部を、体に封印するつもりだ!)
私は慌てて倒れたアルノルトに駆け寄ろうとする。が、しかし、魔法陣の中に足を踏み入れようとした瞬間、ばちんと弾かれてしまった。
「アルノルト!」
魔法陣の際に膝をついて、今にも意識を手放しそうなアルノルトに呼びかける。そうすれば彼は緩慢な動きでこちらに目を向け、私が手にしていた試作品に気が付いたようだった。
アルノルトはゆるく首を振る。試作品を飲む気はないという、意思表示だった。
今のアルノルトに試作品を飲ませれば、エルヴィーラのときのように彼の体の中に残っている魔王の力の一部を追い出せるかもしれない。しかし彼は、それを望んでいない。
悲痛な表情を浮かべていたのであろう私を安心させるかのように、アルノルトは今までになく穏やかに微笑んだ。
「死には、しない……魔王の力を道連れに、しばらく、眠る、だけだ」
は、は、と苦しそうに呼吸をしながらアルノルトが続ける。
「俺に憑いた魔王本体は、もう、いない。だが、奴の力を少しでも、削ってやる……」
最初に逃げた黒い靄こそが、魔王本体だったのだろう。今アルノルトの体にまとわりつく黒い靄を封印したところで、魔王はとっくに逃げおおせ、暗雲の許に帰っているはずだ。
アルノルトの中に残っているのは、あくまで魔王の力の一部。アルノルトはそれを重々承知の上で、少しでも魔王を弱体化させるために自分の体の中にその一部を留まらせて、自分の意識ごと封印しようとしている。
私の横に、ルカーシュが同じように膝を立てて並んだ。そして涙を堪える表情を浮かべて、何も言わずに彼を見下ろす。
幼馴染の視線を受けて、アルノルトは笑顔で言った。
「ルカーシュ、さっさと魔王を倒せよ。それまで、俺は、眠る……」
どんどんアルノルトの瞼が下りていく。魔法陣が発する光も強くなる。
――待って!
そう言いかけて、私は口を手のひらで覆った。もうアルノルトも、そしてルカーシュも、覚悟を決めている。私の身勝手な感情で、彼らの決意に水を差すことはできない。
ぐいと涙を拭ってアルノルトを見た。そうすれば、黒の瞳と目線が絡む。
吸い込まれそうだ、と思った。この目に見つめられることがしばらく叶わないのだと思うと、きゅうと、胸が痛む。
私の目を見て、なぜだろう、アルノルトは目を細めた。そして、
「ラウラ」
――名前を、呼んだ。
一瞬、息が止まる。驚いて目を真ん丸にした私に、アルノルトはふは、と息を吐き出すようにして笑った。
「すまないが、エルを、頼む。……ありがとう」
その言葉を残して、アルノルトは長い眠りについた。