112:結果
――黒髪の少年が、こちらを見ている。
彼はこちらに笑いかけた。その笑みは幼く無邪気だ。こちらに手を伸ばして、いつまでもニコニコと微笑んでいた。
暗転。場面が変わる。
黒髪の少年が、こちらに背を向けていた。先ほどの少年と同一人物だろうが、明らかに成長している。
彼はどうやら本を読んでいるようだった。
呼びかけられたのだろうか、少年がこちらを向く。彼は笑った。先ほどの笑みよりもどこかぎこちない、辛そうな笑みだった。
再び暗転。
次に見た少年は、まだまだ幼いながらもその横顔は暗く引き攣っていた。彼は小脇に、小さな体には不釣り合いなほどの大きく分厚い文献を抱えている。
その背にはドアがある。ああ、彼はここから出ていくのだと、分かった。
少年はこちらに笑いかける。必ず、と唇が動いた。
――つ、と一筋、少年の頬に涙が伝った。
黒髪の少年は、アルノルトだった。
***
ふ、と意識が浮上する。視界に飛び込んできたのは見慣れない白い天井だ。
なぜだろう、体がぽかぽかと温かい。体にかかっている毛布のあたたかさとも違う。
静かで清潔な部屋に、柔らかなベッド。まるでゆりかごで揺すられているような心地よさに、もうひと眠りできそうだ、と一度開けた瞼を再び閉じようとして――
「ラウラちゃん!」
女性の声が私の意識をとどめた。
ぼうっと名前を呼ばれた方に視線を向ける。そこにいたのはメルツェーデスさんで――は、と、ようやく覚醒した。
ここは一体どこだろう。エルヴィーラに試作品を処方して――あれからどうなったのか。
「エルヴィーラは!?」
おはようございます、もなしに体を半分起こして大声で問いかける。そうすればメルツェーデスさんはにっこりと私に微笑みかけてくれた。慈愛すら感じる、優しい笑みだった。
「大丈夫、無事よ。ラウラちゃんのおかげでね」
――瞬間、涙がこぼれた。
あぁ、よかった。本当によかった。
何がどうなっているのか分からない。けれどエルヴィーラが無事だという事実がただただ嬉しくて、心の底から安心して。
溢れる涙をぬぐう。体を起こしかけていた私の肩にそっと手をあてて、メルツェーデスさんは「ルカーシュくんたちを呼んでくるから、もう少し寝ていた方がいいわ」と囁いた。
言われるまま再びベッドに身を沈める。そして瞼を閉じて、意識を失う前の状況を思い出そうと記憶を辿った。
ルカーシュとディオナの力でエルヴィーラを覆う黒靄が晴れた瞬間、私は彼女に駆け寄り、試作品を処方した。
それから地鳴りのような、魔王の呻きのような音が聞こえ――おそらくはエルヴィーラと私の体は黒靄に覆われた。
全身に襲い掛かる熱は、今思えば自壊病の症状の疑似体験だったのかもしれない。つまりは魔王の魔力に全身を晒されていた。
目を開けることもできず、ただただ腕の中のエルヴィーラを強く抱きしめた。魔王に渡してなるものか、と。
それから――先ほど見た黒髪の少年の夢は、もしかするとエルヴィーラの記憶かもしれない。出てきた少年は間違いなくアルノルトだった。一体どういった原理かは分からないが、彼女の意識や記憶が一時的に私に流れ込んできたのだろうか。
ぐるぐる考えても分かることではない。大人しくルカーシュたちの到着を待とう、と小さく息をついたそのときだった。
バタバタバタ、と遠くから忙しない足音が聞こえてきた。その足音は次第に近くなり――バン、とドアが開かれる。
やってきたのはルカーシュとアルノルト、そしてディオナの三人だった。
ルカーシュはベッドサイドに駆け寄って来たかと思うと、寝ている私の顔を覗き込むようにしゃがみ込む。その後ろでアルノルトがほっと息をついているのが見えた。そして最後の一人、ディオナは目を潤ませて口元を手で覆っている。
「ラウラ、気分は悪くない?」
「うん。よく寝たって感じ」
場の空気を和ませるように冗談めかして答えれば、ルカーシュはほっとしたように微笑む。そして瞳を揺らしながら言った。
「五日間、目を覚まさなかったんだ」
幼馴染の言葉に私は目を見開いた。そんなに長い間眠っていたのか。それはさぞや心配をかけてしまったに違いない。
「ごめん、心配かけちゃったね」
「ううん。ラウラ、かっこよかった」
そう笑うルカーシュの目元には隈があった。この五日間、心配をかけたというのもあるだろうが、魔王の動向によっては勇者である彼にとって忙しなく激動の五日間になったに違いない。
――そう、魔王はどうなったのか。エルヴィーラの無事が分かった今、次はそれが一番気がかりだ。
「あの後……どうなったの?」
恐る恐る問いかける。するとルカーシュは助けを請うように後ろに控えていたアルノルトを見上げた。
アルノルトは小さく息をついて、ベッドサイドに置かれていた椅子に座る。おそらく先ほどまでメルツェーデスさんが座っていた椅子だろう。
彼は黒の瞳でじっと私を見つめた。その瞳は夢で見た昔の彼よりずっと鋭くて、幼いアルノルトの涙が脳裏にこびりついて離れなくて、なんだかいつものように目を合わせることができない。
アルノルトは口を開くよりも先に頭を下げた。
「まず、エルヴィーラは無事だ。恐らく魔王も妹の体から出ていった。アンペールのおかげだ。本当にありがとう」
――魔王はエルヴィーラの体から出ていった。
端的に告げられた事実に私は改めてほっとする。メルツェーデスさんから無事を聞いたときと同じように目頭が熱くなって、しかし話の腰を折らないようにと今回はぐっと耐えた。
アルノルトは顔を上げる。妹の病を治せたはずであるのにその表情は険しい。
――まだ全ては終わっていないのだ、と、その表情を見れば分かった。
「アンペールがエルヴィーラに試作品を処方した後、おそらくは魔王の咆哮が鳴り響き、黒靄が神殿から出ていった。襲撃してきた魔物もその後を追った」
当時の状況を淡々と語るアルノルトの言葉を頼りに、自分が意識を失った後の光景を脳裏に思い浮かべる。
「意識を失ったアンペールとエルヴィーラを安全な場所に運んで、負傷した兵士やルストゥの民の治療が一通り終わった頃だった。ルカーシュ殿が気が付いたんだ。西の空が、紫色に染まっていることに」
――いやな予感がした。いいや、もはやそれは確信だった。
アルノルトは窓の外を見やる。私も彼の目線の先におそらくは広がっているであろう紫色の空を見ようと体を起こす。するとすかさずディオナが駆け寄ってきて、体を支えてくれた。
大きな窓の外。広がるのは木々と白い建物。薄々察してはいたが、ここはルストゥの民の街のようだ。
心癒されるその景色の向こうに、“それ”はあった。
快晴なのに、西の方向のある一点だけ、暗雲が立ち込めている。空は怪しい紫色に染まり、見るからに“よくないもの”がそこにある。
アルノルトはちらりと私を一瞥してから、再び口を開いた。
「各地の魔物があの場所に向かっているという報告があった。調査団も現在向かっているが、まだ報告は上がっていない。しかしおそらくは――あの場所に魔王がいるのだと思う」
アルノルトの考えに私も賛成だった。
ルカーシュとディオナの力、そして試作品によって魔王はエルヴィーラの体から引き剥がされた。そのときにダメージを与えられたのかは分からないが、魔王はエルヴィーラの体から離れた後、あの場所に居ついたのだ。そして配下である魔物たちが魔王の許に集いつつある。
――今回の実験で、叶うことなら、魔王本体も退治してしまいたかったというのが本音だ。しかしエルヴィーラから魔王を引き剥がすことすらうまくいくかも分からない状況では、それは極めて難しいということも分かっていた。
エルヴィーラから魔王を引き剥がせただけでも万々歳だ。とても喜ばしく、大成功といっていいだろう。しかし――次の壁が目に見える形で私たちの前に現れたことで、手放しに喜べない自分がいる。
魔王、そして魔物はこれから本格的に行動を開始するのだろう。すぐにか、それとももう少し先かは分からないが、どうであれ「ラストブレイブ」の本編のように人間と魔物の全面戦争が始まるのは避けられない。
思わずルカーシュを見やる。彼はじっと暗雲を見つめていた。その表情に「ラストブレイブ」の研ぎ澄まされた勇者の面影を見てドキリとする。
(ルカーシュの、勇者の旅が近づいている)
私が眠っているこの五日間、ルカーシュたちは何を思い、話し合い、決断したのだろう。
――不意にコンコン、と、控えめなノック音が部屋に響いた。ディオナが慌てて扉の方へ向かい、小さく扉を開ける。ここから扉を叩いた人物は見えないが、ディオナが小声で扉の向こうの人物と会話を交わすのが見て取れた。そして数秒の後、大きく扉が開かれる。
そこに立っていたのは、
「ラウラ……!」
――エルヴィーラだった。
今にも泣きそうな表情で、黒い髪を揺らしながらこちらに駆け寄ってくる。
(生きてる、無事だったんだ)
メルツェーデスさんやアルノルトの言葉を信じていなかったわけではない。それでもこの目で、こちらに駆け寄ってくるエルヴィーラを見た瞬間、より実感が湧いてきて。
「ラウラ、目が覚めてよかった……!」
ぎゅ、とエルヴィーラの小さな手が私の手を握った。
あたたかい。そう思った瞬間、また涙がこぼれていて。それを見て、私の手を握るエルヴィーラもまた涙を流す。
つ、とエルヴィーラの頬を伝う涙を見た瞬間、夢でみた幼少期のアルノルトの顔が重なった。あぁ、ロコ兄妹は本当によく似ている。
「エルヴィーラちゃんも、無事でよかった。救えて、よかった」
無意識のうちに零れ落ちていた言葉はまぎれもない私の本心で。
全てが解決したわけではない。新しい問題が、今まで以上の壁が目の前には立ちふさがっている。これからどうなるかは分からない。どう立ち向かっていくのかも、分からない。
けれど――エルヴィーラを救うことができたのだ。自壊病というこの世界の理不尽から、彼女を守ることができたのだ。
(うれしい、本当に、うれしい)
なぜ私は前世プレイしたゲームの世界に転生したのか。なぜ私は前世の記憶をこんなにもはっきりと持っているのか。
そこに理由なんてないのかもしれない。そもそもこの“私”の記憶は本物ではなくて、前世で生きた“私”はいなかったのかもしれない。それすら分からない。
ずっとずっと、この記憶に囚われてきた。もちろん、助けられたこともたくさんあった。しかしこの記憶は間違いなく、私の――ラウラ・アンペールの人生を変えた。
なぜラウラに転生したのか、訳が分からなかった。よりにもよって、と恨んだこともあった。しかし調合師に有利な才能を与えられていたのも、故郷近くに住む高名な調合師に弟子入りできたのも、全ては【ラウラ】だったからだ。他のキャラクターに転生していたら、こうはいかなかったかもしれない。
私の人生は、自分のことなのに分からないことだらけだ。そしてこの謎が全て解き明かされるときは、おそらくは来ないのだろうと思う。しかしそれでももうよかった。なぜなら私はエルヴィーラを救うことができたのだから。
エルヴィーラを抱きしめる。彼女の体温と鼓動を目を閉じて感じる。気が付けば泣きながら笑っていた。
――あぁ。ラウラに生まれて、よかった。




