111:黒靄
――静まりかえった神殿内では、エルヴィーラの足元の魔法陣が光る音が聞こえるように思えた。
(はじまる)
魔法陣の中にはエルヴィーラとディオナ、そしておそらくは一族の中でも力が強い方なのであろう、複数人のルストゥの民のみ。魔法陣のすぐ外側にルカーシュ、アルノルト、そしてヴェイクたち複数人のシュヴァリア騎士団が控えている。
私はメルツェーデスさんと一緒に、更に少し離れた、神殿の壁沿いで見守っていた。試作品はディオナ、ルカーシュ、アルノルト、ヴェイク、そしてエルヴィーラ本人にも渡している。最初から飲んでもらう予定はないが、何かあった場合――賭けに出るかもしれない。
ぎゅ、と右手に握っている容器を握りしめ、エルヴィーラの様子を見つめた。――と、そのときだった。立っていたエルヴィーラが胸を庇うように身を屈めた。そして、
(黒い……靄?)
彼女の体から、黒い靄が出始めた。
ざわ、とあたりがにわかに騒がしくなる。「静かに!」ヴェイクが部下を落ち着かせる声が神殿内に響いた。
――あの靄は、もしかしなくても。
(魔王……?)
うまくいっているのだろうか、と目を凝らす。エルヴィーラから出る黒い靄はどんどん増え、彼女の頭上に集まり始めていた。
徐々に靄が形を変える。しっかりとした形にはなっていないものの、靄は獣の形に集まろうとしているように見えた。しかしそれをディオナたちの光の力が邪魔しているのか、集まりかけては散る、を繰り返している。
不意にエルヴィーラがしゃがみ込んだ。苦しいのだろうか、と鞄から回復薬を取り出し数歩前に出た。――その瞬間だった。
「――敵襲だ! 魔物が街に!」
神殿に響いた男性の声。弾かれたようにそちらを見やり――次の瞬間、ゴゥッという音とともに私は床に倒れこんでいた。
全身が、痛い。
「ぎゃあ――!」
鼓膜を揺らした男性の悲鳴。次いで、獣の咆哮。
「入口を固めろ! 中に入らせるな!」
ヴェイクの切羽詰まった指示。応戦する騎士団員の勇ましい声。
――何が起こっているのか、全く分からなかった。ただただ、頭も腕も足も痛くて、動けなくて。
「ラウラちゃん!」
ふ、と肩に手が触れた。顔を動かしてそちらを見ることはできなかったが、メルツェーデスさんだと分かった。彼女はうつ伏せに倒れていた私を起こし、口に容器をあててくれる。恐らくは回復薬の容器だろう。口内に流れ込んでくる液体を必死に飲み下せば、徐々に痛みが薄れていく。
ほう、と息をついたところで体が温かな光に包まれた。――回復魔法だ。
「ラウラ、僕が分かるっ!?」
徐々にクリアになっていく視界に、泣きそうな幼馴染の顔がうつりこんだ。骨は軋むものの、痛みはほぼない。回復薬と回復魔法のおかげだろう。
「ルカーシュくん、ラウラちゃんをお願い」
メルツェーデスさんの声が遠ざかる。彼女にかわってルカーシュが私の体を支え、意識を呼び戻すように名前を呼んだ。
助かったのだ、とほっとしたのも束の間、鼓膜を揺らした魔物の断末魔にハッと我に返った。慌てて体を起こせば眩暈を覚えたが、それでも現状を把握するために辺りを見渡す。――ほんの一瞬で、あたりは戦場になっていた。
入口から神殿内へと入り込もうとしている魔物の群れを、ルストゥの民、騎士団、アルノルトが必死に迎え撃っている。結界がはられているはずの街になぜ魔物が、と一瞬考えそうになり、それどころではないと背後――エルヴィーラの方を振り返った。
――エルヴィーラがいた場所には、獣の形をした黒い大きな靄があった。その靄に対してディオナが一人で光の力を使い、干渉しようとしている。エルヴィーラを囲んでいた他のルストゥの民はあたりに倒れていた。
「エルヴィーラは!?」
「あの靄の中心にいる。さっきの爆発は、多分魔王の力だと思う」
ルカーシュの言葉に先ほど自分の身に起こったことを把握し始めた。
魔物が街に、と男性が叫び、私がエルヴィーラに背を向けた瞬間。恐らくは魔王が爆発を起こした。それによって私は吹っ飛ばされ、全身を強く打たれたのだろう。
それにしても、敵襲のタイミングが良すぎる。打ち合わせしたようなタイミングだ。――いや、実際に魔王とその部下とで連携を図ったのだろう。
(ディオナが言っていた通りになった)
当日魔物の襲撃があるかもしれない、とディオナは懸念していた。今まさしく、その通りの状況になっている。
ルカーシュが靄に向かって手を伸ばす。すると黒靄の足元に勇者の紋章が浮かび上がり、光の柱が靄を包んだ。――瞬間、靄が晴れ、
(エルヴィーラ!)
地面に蹲っているエルヴィーラの姿が見えた。
しかしすぐに靄は再びエルヴィーラを中心に集まり、獣の影を形成する。恐らくはまだ魔王がエルヴィーラの中にいるのだ。彼女の中にいる魔王を核にしている以上、周りの靄を払っても仕方がない。
(どうすればいい、どうすれば……)
エルヴィーラから完全に魔王を引き剥がさなければ駄目だ。
勇者の力は確かに魔王に効力を発揮している。しかし外からの干渉では不十分だ。彼女の中から魔王を刺激する方法。それは――
(――……試作品)
一か八か。エルヴィーラが試作品を飲んで、中にいる魔王がどのような拒絶反応を起こすか分からない。しかし勇者の力を直接体の中に注ぎこむには、試作品しかない。
先ほどの爆発で私が持っていた試作品は全て駄目になってしまった。鞄の中も同様だ。だとしたら、試作品を事前に渡していた人からもらうしかない。
私の体を未だ支えてくれているルカーシュを見上げる。そして問いかけた。
「ルカ、始まる前に渡した試作品は……」
「ごめん、さっきの爆風で……」
ルカーシュは申し訳なさそうに瞼を伏せる。あれだけの爆風だったのだ。脆い容器ではひとたまりもない。
ならば他に誰か、と立ち上がりあたりを見渡して――
「アンペール!」
私のことをそう呼ぶのは一人しかいない。
声の方を見やれば、入口で止めきれなかった魔物が一匹、こちらに向かって走ってきていた。ルカーシュがすかさず私の前に出る。そして力を使おうと身を構えて――彼が力を使うより先に、魔物の体が燃えた。
どさり、と魔物の体が倒れる。それによって私の視界に現れたのはこちらに駆け寄ってくる黒髪の青年――アルノルトだった。
「無事か」
「なんとか」
短く言葉を交わす。アルノルトはそっと息をついて、それからルカーシュへと視線をうつした。
「ルカーシュ殿の力であの靄を引き剥がせるか」
「最大火力でなんとか」
そう言うルカーシュは既に肩で息をしており、かなり体力を消耗しているようだ。
アルノルトは数秒考え込むように肩を組んで俯いていたが、
「アルノルト! もう持たないわ!」
メルツェーデスさんの切羽詰まった声が入口の方から飛んでくる。そちらを見れば入口で魔物と応戦している部隊がだいぶ押されているようだった。
最初の爆発でこちらも大幅に戦力を削られているため――あたりを見渡せば多くの人が倒れている――アルノルトは大きな戦力だ。少しの間抜けただけでも影響が出る。
彼はもどかしそうに舌を打つと今度は私を見た。そして無言で右手をこちらに差し出してくる。――彼が握っていたのは、試作品が入った容器だった。
あの爆風の中で、アルノルトはこの脆い容器を守ったのか。
「考えていることは同じだろう」
アルノルトに問いかけられて私は小さく頷く。今これを渡してきたということは、彼ももう試作品に賭けるしかない、と覚悟を決めているようだ。
「ルカーシュとディオナに最大火力で力を使ってもらって、靄が晴れた瞬間、私がエルヴィーラに飲ませます」
「あぁ。本当なら俺がその役目をできたらよかったんだが……」
こう話している間にも、急かすように魔物の咆哮が鼓膜を揺らす。彼の魔力は魔物の撃退に必要不可欠だ。それは現在意識のあるルストゥの民も、シュヴァリア騎士団も同様。
入口で応戦していないのは私とルカーシュ、ディオナの三人だけだ。全員が既に疲労していることもあり、ルカーシュとディオナにはできるだけ力を使うことに集中してもらった方がいいだろう。そう考えると黒い靄が晴れた瞬間エルヴィーラに駆け寄り、彼女に試作品を処方できる人間は――私しかいない。
「僕がこの力で守ります。絶対に」
今まで黙って横に立っていたルカーシュが、一歩前に出て力強い声でそう言い切った。思わず幼馴染を見やるが彼はじっとアルノルトを見つめていて、数秒の間、二人は無言でじっと見つめ合う。
先に目を逸らしたのはアルノルトだった。彼はふい、とルカーシュから目線を外し、再び私を見つめる。そして――ぐい、と腕を引かれた。
とん、と頭があたたかい何かにぶつかる。それがアルノルトの胸板だと気づいた時には彼に強く抱きしめられていた。
「――エルヴィーラを頼んだ」
耳元で囁かれた言葉。離れていく体温。
再び魔物との闘いに戻るアルノルトの背後を数秒見つめて、
『頼んだ』
鼓膜に蘇った真っすぐな声に、ぐっと拳を握りしめた。
アルノルトは私たちにエルヴィーラを託してくれたのだ。どうなるかは分からない。けれどその想いに応えたいと思う。
――エルヴィーラを救いたい。
「行こう、ラウラ」
私とルカーシュは黒靄に向かって走る。そして先ほどから一人で必死に黒靄を引き剥がそうと力を使ってくれているディオナに声をかけた。
「ディオナ! 力を貸して!」
何をするかも伝えていないのにディオナは大きく頷いて駆け寄ってきてくれた。
私は彼女に試作品の容器を見せる。それだけでディオナはこれから何をするのか悟ったようだった。
「エルヴィーラに試作品を飲ませる。そのためにはエルヴィーラに近づかないといけない。だから――」
「私とルカーシュ様の力で、一時的に黒い靄を引き剥がします」
「……うん。その間に、私が飲ませる」
聡明な彼女はみなまで言わずとも察してくれる。それがなんだかすごく嬉しくて、頼もしくて。
一度三人で顔を見合わせ頷いて、一秒でも時間が惜しいとお互い負傷している体を支え合い、ぎりぎりのところまで黒靄に近づいた。
威圧感、とでもいうのだろうか。肩にずっしりとした何かが押しかかってくるようだ。またとてつもない濃度の魔力があたりに漂っているのだろう、気を抜くと意識を失ってしまいそうなほどだった。
この中心にいるエルヴィーラには、どれほどの負荷がかかっているのか。考えるだけで恐ろしかった。
その想像を絶する苦しみから早くあの愛しい少女を救い出してやりたい、と思う。
「――よし、やろう」
ルカーシュとディオナが目を閉じる。すぅ、と息を吸ったのが聞こえた。
黒靄の足元に浮かぶ勇者の紋章。立ち込める光の柱。先ほどよりもその柱が太く光も強いのはディオナの力が上乗せされているからだろう。
ぎゅっと右手に握っている容器を握りしめる。――靄が、晴れた。
(エルヴィーラ!)
すかさず蹲っている少女に駆け寄る。肩に手をあてて名前を呼べば、彼女はうめいた。
意識はうっすらとあるようだ。大きな黒の瞳がゆっくりと姿を見せ、私の姿を捉えたように思えた。まだ助かる。まだ助けられる。
口元に試作品の容器をあてる。しかし飲みこむ力がないのか、口の端からつ、とこぼれてしまう。駄目だ。
「ラウラ! もう限界だ!」
ルカーシュの切羽詰まった声が響いた。もう迷っている暇はない。
――エルヴィーラの口元から容器を離し、試作品を一気に口に含んだ。そして心の中で謝ってから口移しで飲ませる。
ごくん、と小さな喉が上下したのが見えた。瞬間、体が潰されてしまいそうなほど濃い魔力が降りかかってきて――訳も分からず、それでもエルヴィーラだけは守ろうと小さな体をぎゅっと抱き寄せる。
――ゴゴゴゴッ!
鼓膜を揺らしたのは地鳴りか、魔王の叫びか。
襲ってきたのは体全身が焼け爛れてしまいそうな熱。例え焼き尽くされようとこの腕だけは絶対に離していけない、と更に強く強く抱きしめた。
熱い。熱い。熱い。けれど、離してなるものか。
魔王なんかに絶対に連れて行かせはしない。
「ラウラ!」
遠のく意識の中、私の名前を呼んだのは一体誰だったのか。
――そこで、私の意識は途絶えた。




