106:恐怖
――翌日。
ふかふかのベッドですっかり疲れの取れた私とルカーシュは、朝起きるなりネズミの様子を見にリビングへと下りた。するとケースの前には先客――ディオナがおり、彼女は私の姿を見るなり「おはようございます」と微笑む。
「おはようございます。ネズミ、大丈夫そうですか?」
「はい、元気そうです」
ディオナの言葉にホッと息をついた。試作品を飲んだネズミが今のところ健康ということは、即効性の毒性はないと判断して大丈夫だろう。
ルカーシュと二人、ディオナの隣に並んでケースの中を覗き込んだ。ネズミに特に変わった様子はなく、忙しなく毛づくろいをしていた。
「とりあえず、毒のような効力はなさそうですね」
ルカーシュ、ディオナと顔を見合わせて頷く。僅かではあるが前に進めた、といったところか。
ケースから目線を逸らし、昨日作った試作品が入った容器をじっと見つめる。そしてそっと呟いた。
「次に考えなければいけないことと言えば――」
「人体への影響と、魔力を持つ存在に対する影響の有無だろうな」
――聞き慣れた、しかしここにいるはずがない男性の声に私は数瞬固まって、それから慌てて振り返る。そこには、ソファに腰掛けるアルノルトがいた。
「アルノルトさん! ど、どうしてここに?」
驚き問いかけたもののアルノルトの視点はじっとケースに固定されたままで。
困惑する私の問いに答えてくれたのはアルノルトではなく、隣に立っていたディオナだった。
「私がお呼びしました。立ち会っていただいた方がいいかと思いまして」
ディオナの言うことはもっともだ。エルヴィーラの兄であり優秀な調合師、そして魔術師であるアルノルトに立ち会ってもらったほうがいいだろう。忙しくしているようで私は声をかけるのを躊躇ってしまったのだが、ディオナはいつ、一体どのような言葉でアルノルトを誘ったのだろう。
一瞬考え込んだが、そんなことを考えている暇はない、と疑問を振り切る。そしてすぐさまアルノルトに「どう思われますか?」と問いかけた。
「人体への影響を確認したいが……」
アルノルトは言葉尻を濁す。
彼の言わんとすることも、そしてその心情も手に取るように分かった。この不安要素の大きい試作品を誰に飲んでもらうか、という大きな問題が私たちの目の前に立ちはだかっているのだ。
一体誰に、この試作品を処方するのか。
答えを見つけられず口を噤む。落ちた沈黙を破ったのは――ルカーシュだった。
「僕が飲むのがいいと思う。僕の力が込められてるんだし」
幼馴染の言葉に私はバッと顔を上げる。
私が口を開くよりも早く、アルノルトの冷静な声が遮った。
「ルカーシュ殿はその力の源なんだろう、影響がないのが当然じゃないか。意味がない」
「でしたら近い力を持つ私から飲むのが一番良いのではありませんか? 徐々に慣らしていく、というか……」
なるべく勇者の力に近い力を持つ人から試していく、というのはいい案のように思えた。しかし、
「でもディオナさんに何かあったら、今度の実験で力を使ってくださる方がいなくなります」
そう、ディオナにもしものことがあっては困るのだ。それはルカーシュも同じで、彼への試作品の処方も私は賛成できない。
この人はだめ、この人は避けた方がいい――などと言っていたらいつまで経っても結論は出せない。いっそのこと立候補しようかと思ったが、昨日ルカーシュに怒られたばかりだし、「ラストブレイブ」の記憶は魔王と対峙するにあたって重要になってくるかもしれない。
もっともこの膠着状態が続くようならば自分が名乗り出ようと覚悟は決めているが――すっかり落ちた沈黙に頭を抱えたくなる。この重い沈黙が続くのはよくない、と思い私は話題を変えようとディオナに問いかけた。
「そもそもの話なんですが、今度の実験でどのようにディオナさんは力を使うんですか?」
仮に試作品が完成したとして、使うタイミングの想定もしておかなければならない。実験と同じタイミングで使うのか、前か、後か。
ディオナは突然の問いに目を僅かに丸くしつつも、ゆっくりと答えてくれた。
「魔王が嫌ったと伝承が残っている光の魔法陣を描き、その中にエルヴィーラさんに入って頂きます。そして外から私の力で刺激をし、光の力に耐えきれなくなった魔王が逃げるために外へと出る――というのが理想的な結果です」
「だとしたら、そのときに一緒にこの試作品もエルヴィーラちゃんに飲んでもらって、外からも内からも刺激できたら……それが一番ですよね」
ディオナは力強く頷く。
「だとするとやっぱり、エルヴィーラちゃんの体に悪影響を及ぼさないのが大前提で……」
「ただ妹の体の中には魔王がいるからな。エルヴィーラの体が拒絶反応を起こさずとも、魔王がルカーシュ殿の力を拒絶し暴走する可能性もある」
横から挟まれたアルノルトの言葉にドキリとする。
彼に向き直って問いかけた。
「でも今までは……精霊の飲み水は飲んだら大人しくなってますよね?」
「大人しくしている理由が分からないのが怖いな。ただ眠って力を蓄えているだけで、出ようと思えばいつでも出ることができるのか、それでも力を失ったせいで出たくても出られない状況……封印に近い形なのか」
エルヴィーラちゃんの中に魔王が眠っている。私たちが知る情報はそれだけで、それ以外は全く見当もつかないのが恐ろしい。
アルノルトは尚も言葉を続ける。
「後者の場合、もしエルヴィーラの中で魔王を退治できたとしても、その魔王はどこに消えるのかという問題もあるな。そのまま消滅してくれたらいいんだが、万が一エルヴィーラを巻き込んで――……」
それ以上を口にすることは恐ろしかったのか、アルノルトは口を噤んだ。
私は試作品を手に取り、再び凝視する。魔物を数滴で倒してしまう液体だ。エルヴィーラの体から出てきた魔王に対する戦力としては既に期待できるだろう。
そもそも魔物に攻撃を与えるアイテム“聖水”を目指す中で出来た試作品だ。当初の目的はとっくのとうに達成している。しかし――それより高い目標に手が届くかもしれないのだ。できることはやりたい。後悔はしたくない。
しかし考えれば考えるほど、この力は――勇者の力は人の手には有り余る力なのではないかと思えてくる。脳裏に蘇るのは、目の前で光の閃光の中に消えていった魔物。奪ってしまった命。あの力が万が一、人間に向いてしまったら――
「あー……駄目だ、あれこれ考えだすと身動きが取れませんね」
私の判断が、世界の行く末を変えてしまうかもしれない。それはひどく恐ろしいことだ。
(ルストゥの民の人たちの気持ちが、ちょっとだけわかった気がする)
自壊病の正体を知りつつも積極的な治療を禁じ、魔王の復活を待っていた彼らの判断は考えを放棄した結果ではなく、考えに考えた末の結論だったのだろう、と今では分かる。私も彼らと同じ立場だったとしたら、その道を選んでいたかもしれない。
全員が全員、考え込むように口を閉ざす。私は一旦手に持っていた試作品入りの容器を机に置き、ふぅ、と小さくため息をついた。
――その瞬間だった。アルノルトが足早に近寄ってきたかと思うと、静止するよりも早く――あまりに突然のことで制止する暇もなかった――容器を手に取り、そのまま容器に口をつけ中身を呷った。
「――……え?」
鼓膜を揺らした困惑に満ちた声は果たして誰のものだったのだろう。
ぴしり、と固まった空気。アルノルトが何をしたのかしばらく飲み込めなくて――試作品を飲んだのだと、ようやく咀嚼する。
容器の中身を見る。空だった。
「ア、アルノルトさん! 何されてるんですか!?」
思わず駆け寄って顔を覗き込んだ。顔色に変化はない。
「なんともないぞ」
いつもの口調でそう言ったアルノルトにカッと腹の底から燃えるような怒りが押し寄せてくるのを感じて、そのまま勢い任せに口を開く。
「信じられない! 一気に飲むなんて! 何かあったらエルヴィーラちゃんにどう説明すればいいんですか!」
言い募れば、アルノルトはさも不思議そうな顔をして答える。
「俺が勝手にやったことだ。お前が気を病むようなことは一つもない」
「そういう話じゃありません!」
アルノルトは自分の行動を後悔していないどころか私が怒っていることを不思議に思っているようだった。尚も言い募ろうと一歩踏み出したが、それよりも早くやるべきことがあると思い直す。
今は変わった様子はないが、もしかすると今後何らかの異変が彼の身を襲うかもしれない。そうなったときのために、少しでも回復薬を調合しておかなくては。
「と、とにかく回復薬を……」
「しばらく様子を見ましょう。アルノルトさん、どうぞお座りになってください」
ディオナの冷静かつ的確な判断でアルノルトはリビングのソファに腰掛けた。
調合器具をお借りし早速調合を開始する私に、アルノルトは更に声をかけてくる。
「時間がないだろう。エルヴィーラの血縁で、魔力を持つ俺が飲むのが最良だと思った。それだけだ」
アルノルトの言葉は確かに一理ある。
人体への影響、魔力を持つ者への影響、どちらも一度に試すことができ且つエルヴィーラの血縁ということで現段階ではもしかすると最適な試験者であった。しかしだからといって独断で何の準備もないまま行っていいことでは決してない。
アルノルトはあくまで理性的だ。しかしそれが余計に私を苛立たせた。
調合する手が震える。脳裏に浮かんだエルヴィーラの泣き顔にぐっと喉が詰まった。
「とにかく安静にしててください!」
そう告げればアルノルトは大人しくソファに身をうずめたようだった。その近くで、ルカーシュが注意深く彼の様子を窺っている。
「私、水汲んできます」
ディオナはそう言い残して足早に裏口から出て行った。
ソファに腰掛けているアルノルトを見やる。今は元気そうに座っている彼だが、次の瞬間、その身が内側から壊されてしまうかもしれない。
エルヴィーラから兄を奪ってしまったら――恐ろしくてたまらない。
いつも以上に時間をかけてようやく回復薬を完成させる。数度深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、それを持ってアルノルトの近くへと歩み寄る。
「エルヴィーラちゃんはアルノルトさんに何かあったら、悲しみますよ。例え自分の病が治ったとしても、貴方が犠牲になったら絶対に喜ばない」
兄のために、と必死に回復薬を作り、プレゼントを選んだ健気な姿を思い出す。彼女には幸せになって欲しい。そのために自壊病を治療することはもちろん、大切な兄を亡くすなんてことは絶対にあってはならない。
エルヴィーラの名前を出せば、アルノルトは分かりやすく目を泳がせた。
アルノルトはおそらく自分自身が他者より優れている自覚があるだろう。しかし驕り他者を見下しているのではなく、自分は優れているのだからその分他人より働いて当然だ、と考えている。それ故に、自分自身の身を省みない。今までだってずっとそうだった。いつも忙しそうにしていて、決して疲れた顔は見せず、不満も零さない。
その姿勢は他人からすれば好ましいだろう。しかしエルヴィーラからしてみれば――そして私からしてみれば、もどかしくて、おそろしくてたまらない。
「お願いですから、自分のことをもっと大切にしてください」
口からでた言葉は、自分でも驚くほど懇願する響きを含んでいた。




