番外編:100話記念(アルノルト編)
100話記念の番外編(アルノルト編)です。
【74:束の間のやすらぎ】の後の小話です。
――妹のエルヴィーラに「精霊の飲み水」を処方し、症状の改善が見られてから、穏やかな日々が続いていた。エルヴィーラは一度故郷へと帰り、俺も普段の業務に戻っている。
この穏やかな日々をもたらしてくれたのは後輩であるラウラ・アンペールだ。彼女の才能をもってすればエルヴィーラの治療が可能なのではないか、と、初めて出会ったその日から“目を付けていた”。その身勝手な俺の期待に、アンペールは応えてくれた。
(それなのに礼がこんな菓子一つでいいのか)
女性たちの間で流行っているという菓子の箱を机の上に置き、そっとため息をついた。最近新しくできた店で買ってきたそれは、クリームたっぷりのふわふわ食感が好評だとか。女性に囲まれて気まずい思いをしつつも手に入れたものだが、それにしても妹を助けてくれた礼にしては安すぎる。
――以前、エルヴィーラの治療の謝礼としてアンペールに「何か欲しいものがあれば言ってくれ」と伝えていたのだが、散々待った挙句の答えが「最近王都で人気のお菓子が欲しいです」だった。謙虚と言うべきなのだろうが、感心を通り越して拍子抜けしてしまった。
しかし希望されたものは買うのが当然で、並んでいたラインナップの中からは一番高価なものを選んでみたが、今俺が何よりも頭を悩ませているのはどうやって渡すかだ。食べ物である以上、出来るだけ早く渡した方がいいのは分かっている。しかし今までの人生の中で、他人に贈り物をするという経験は極めて少なく――
調合室に響いたノック音に、俺は咄嗟に菓子の箱を積み上げられた文献の陰に隠した。
「アルノルトさん、頼まれた薬草摘んできました」
その言葉と共にアンペールが薬草の入った籠を抱えて調合室へと入ってくる。頼んでいた薬草を薬草園から摘んできてくれたようだ。
現在俺とアンペールは教育係と後輩という関係で、王属調合師助手であるアンペールにも小さな調合室が与えられているものの、基本的には俺の調合室で共に調合している。
「ああ、すまない」
アンペールから籠を受け取り、薬草を保管している棚に種類別に分別していく。背後からガチャガチャとアンペールが調合器具を片付けている音が聞こえてきて、終業時間間際だということにようやく気が付いた。
薬草を仕分けながら、さてどうやって話を切り出そうかと悩んでいると――答えが見つかる前に、無慈悲にも終業の鐘が鳴り響く。背後から聞こえてくる音が鳴りやんだのをみるに、おそらくアンペールは既に片付け作業を終わらせてたようだったが、律儀な彼女は何も言わず俺の仕分け作業が終わるのを待っていた。
「……アンペール」
面と向かって声をかけるのもなんだか気恥ずかしくて、仕分けが終わっていない体を装いアンペールに背中を向けたまま声をかけた。
「なんでしょうか?」
「すまないが、そこの机の上に積み上げてある文献を本棚にしまっておいてくれないか」
直接渡すより本人に見つけてもらおう、と菓子の箱を隠す壁として使っていた文献をしまってもらうよう頼む。するとアンペールは「分かりました」と躊躇いなく返事をして、早速作業に取り掛かったようだった。
ガサゴソと何やらアンペールが作業をする音が鼓膜を揺らし――ふと、アンペールが動きを止めたのが振り返らずとも分かった瞬間があった。
「あれ、これ……」
そして小さくこぼされたアンペールの声。様子を窺うような彼女の視線が背中に突き刺さるのを感じていたが、それに気づかないふりをして作業を続ける。するとアンペールは片付けを再開し――しかしそう時間のたたない内に作業は終了したようだった。
これ以上時間を引き延ばすのも限界で、そもそもアンペールを待たせてしまうのも申し訳なく、俺は意を決して振り返る。仕分け作業はとっくに終わっていた。
振り返った先には、俺が文献の陰に隠していた菓子の箱を持ってこちらを見つめるアンペールの姿があった。
「アルノルトさん、あの、これ――」
「欲しいと言っていただろう。だから買ってきた。礼だ」
恥ずかしさを誤魔化すようにいつもより早口で告げる。するとアンペールは大きな目を更に丸くして、それから嬉しそうにはにかんだ。
「ありがとうございます、嬉しいです」
「……本当にそんなものでよかったのか。もっと高価なものでもよかったんだぞ」
想像していた以上に嬉しそうに微笑まれて、俺は困惑から思わず尋ねていた。そうすればアンペールは再びきょとん、と目を丸くし、それから小首を傾げる。珍しいアッシュゴールドの髪がさらりと揺れた。
「他に欲しいものが思い浮かばなくて……。このお菓子、すごくおいしいって評判を聞いたので、チェルシーやリナ先輩と一緒に食べたかったんです」
あはは、と笑うアンペールに欲のない奴だ、とつくづく思う。自分でも気づかないうちに口角が上がっていた。
エルヴィーラの自壊病を治療するために、俺と同じぐらい、時には俺以上に心を砕いて取り組んでくれた。自分から頼んだことではあるものの、まさかここまで熱意を持って取り組んでくれるとは正直思っていなくて――こんな菓子一つで礼が出来たとは思わない。
俺は口数が少ないし、感情表現も得意ではない。であるからして、アンペールに向けている感謝の気持ちを彼女に伝えきれていないだろう。どうすれば余すことなく伝えることができるのか分からない自分の不器用さに嫌気が差す。
「他にも何か欲しいものや手伝えることがあったら言ってくれ。力になる」
そう言えば、アンペールは困ったように笑った。こういった言葉は欲のない彼女を困らせるだけだと分かっていても、俺はそれ以外に感謝の気持ちを伝える術が思いつかない。
エルヴィーラが自壊病を発病してからずっと、調合だけを学んできた。同世代の子供たちと遊んだ記憶は随分と遠い。調合師として、そして魔術師としてこの王都ではそれなりの評価を得られているが、人との付き合いに関しては人並み以下だ。しかしこの年まで“これ”で通してきてしまったため、今更変えることも難しい。
はぁ、とこぼれそうになったため息を飲み込んで、アンペールに退室するよう伝えようと顔を上げた――瞬間、アンペールが困ったような笑顔のまま、菓子の箱に入っていた小分けの袋をこちらに差し出した。
「これ、良かったらアルノルトさんもどうぞ。疲れた頭には糖分がいいですから」
夕日に照らされたアンペールの笑顔が随分と大人びて見えて、俺は言われるまま差し出された小分けの袋を受け取る。すると彼女は嬉しそうに笑みを深めて「お疲れ様でした」と扉へと向かう。そして、
「お菓子、本当にありがとうございました。嬉しいです」
その言葉通り、嬉しそうに目を細めて笑って今度こそ退出した。
渡された菓子の袋をじっと眺める。女性が好きそうなパステルカラーのそれを開けて、現れた柔らかな菓子を口の中に放り込んだ。瞬間、口の中に広がる甘いクリーム。
(甘……)
胸やけするような甘さのそれは俺には馴染みのない味で――しかしなぜだか、胸が満たされた。