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天使には愛しき寝顔でも添えて

「ここ、ですね……」


何はともあれ、そんなこんなで俺たち一行は問題の三〇三号室の前へとやってきた。


廊下はやけに薄暗く、人気すら感じられない三階の、その中央に位置する病室。

ただ薄っすらと「三〇三号室」の文字が窓から僅かに漏れた日の光によって浮かび上がり、来る人すべてを追い返してしまうような、厳然とした扉の前で俺たちは立ち尽くす。


「よし、入るか……!」


だがここまで来て尻込みをしていても仕方が無い。

いくらお呼びではないと言っても、もう来てしまったものは与り入れてもらわねば困る。


俺は深く息を吸い込むと、例によって分厚い扉に向かって敢然と進んでいった。

そして数歩、少し肌に伝わる空気が変わったと思い至ったところでパッと目を開けると、そこにはあの薄暗い廊下とは打って変わって目映いほどの光が部屋全体に敷き詰められていた。


「うわっ、眩しっ!」


―――なんだこのデジャヴ。どうしてだろう、あの忌々しきバケモノの顔までもが浮かんでくるぞ。


まだ目は見えないがたしかに空気がそれまでとは明らかに変わっている。どうやら三〇三号室には無事侵入できたらしい。


そう思い直し目が慣れてきたところで部屋を見渡してみると、医者と思しき格好の者が可視範囲で三名。

そこに付随して看護婦が幾人かコバンザメのように付き従っていて、それだけで実に羨まし……ではなく、患者の病状が深刻であるということが否応なく伝わってくる。


三〇三号室という賃貸アパートの一室のようなネーミングよりかは「集中治療室」とでも名目を変えたほうが遥かに似つかわしい気もするのだが、まぁそれは言わないでおこう。


「さて、肝心の沙上苗はどこに……」


どうやらこの部屋―――三〇三号室には患者が数名収容されているようで、仕切りによって辛うじて患者同士が区切られてはいるものの、その実情は何の気休め程度にもならない薄っぺらなカーテン一枚だけだ。


医者と看護婦を多数配備するような厳戒態勢にもかかわらず、布一枚でどうにかなるとでも思っているのか? 相変わらずセキュリティ甘すぎだろ。

こりゃクリスピークリームドーナッツに匹敵するな。


俺はそこから幼き少女を見つけるべく、まずは入り口から最も近い患者のカーテンをゆっくりくぐった。いや、正確にはすり抜けた。


結果は残念。

女性ではあったが、年齢は見た目三〇代前半といったところ。


とりあえず俺たちの探している少女には遠く及ばない決定的な点がいくつもあったことだけ、ここに報告する。


二人目、これも違う。

三人目、四人目。違う。全然違う。


何となく想像はできていたが、ここにいる患者は総じて意識不明の重傷者ばかりだ。

なかには顔に大きな傷があったり、数秒凝視するだけで嘔吐きそうになるほどの怪我が見えた患者もいた。


―――そして五人目。


この病室にいる患者数はおそらく全部で五名。

つまり次のカーテンをめくったその向こうに、答えが待っているということになる。


もしかしたら他の患者のように大きな傷を負っているのではないか、あるいは別の何かが……


正直恐ろしい。今すぐにでも逃げ出してしまいたい。


大体どうして俺がこんなことをしなければならんのだ。

場所が分かったのならバケモノに電話でも何でも使ってそう言えばいいじゃないか。

何も俺がここまで頑張る必要なんてこれっぽっちも……


―――だがそのとき、俺の脳裏にはさきほどの覚悟を決めた少女の顔が思い浮かんだ。


一度は自分の死を受け入れて、まだ中学生だというのに、気丈に振る舞い、そして誰よりも強い、その少女。

とっくに笑顔なんて失っていいはずなのに、どうしてあんなにも柔らかく、太陽のように微笑むことができるのであろうか。


俺は全身に力を入れると、目を開けたままグッと一歩足を踏み出した。


「なっ……こ、これは!」


まだ手にカーテンのさらさらとした絹の感触が残るなか、俺は目の前の情景に釘付けになった。


するとどうだ、その顔を見た途端、それまで脳内を埋め尽くしていたあらゆる懸念事項などあっという間にどこかへ吹き飛んでしまい、俺は眠り姫のごときその少女の姿に、すっかり見惚れてしまっていた。



「これは……反則だぜ……」



心配していた傷跡はまったく見つからず、本当にさっきまで話していた少女が普通に眠っているかのような、神々しいまでの清白な姿がそこにはあった。


胸を撫で下ろすと同時に力が抜けたのか、膝が笑うように震え出す。

ここまで他人の心配をしたことがあるだろうかと、本当にそう感じるくらい心から良かったとそう思った。


―――いや、でも待て。

ひょっとすると見えないところに傷跡が残っているという可能性も大いにある。


少々お節介が過ぎるのかもしれないが、当事者であるところの少女がそれを発見する前に冷静な判断力を持った第三者が適切な経過報告をするため検視しておくのが筋というものではなかろうか。


「というわけで、ちょっと失礼しまーす」


勘違いしてほしくはないのだが、これは断じて俺の醜い欲求が暴走した結果などではない。

もはや止めることのできない果てしなき使命感が、今の俺を突き動かしているだけである。


俺は鎮まらぬ右手をゆっくりと少女のほうへと伸ばし、そして肩に手をかけようとしたまさにそのとき―――


「あっ、あの……アズマさん……」「は、はいっ!」


見計らったかのようなタイミングで張本人の少女がご到着。

反射的に小学校の出席確認時のような威勢のいい返事をしてしまった。


―――大丈夫、大丈夫だ。疚しいことなんて何一つもないぞ。


「わ、私の様子はどうですか?」


なんだかもの凄くいかがわしい香りのするセリフにも聞こえるが、だがしかしここで勘繰ってはいけない。他方的に物事を都合よく解釈しようとして、一体何人もの男性がその身を滅ぼしたか、考えるだけでもおぞましい。


歴史に学ぶのだ。先人たちの凄絶なる悲哀を無駄にしてはならない。


「よ、様子か? そりゃすごく……いい感じだ」


―――何言ってんだよ、俺。


「変わったところとかないですか? 怪我とかしていないですか? 元気そうですか?」


質問攻めだな。家元を離れた息子に宛てた手紙の序文かよ、とツッコミを入れたくなってくる。


そして未だ勇気が沸かないらしい彼女の、カーテンの外でそわそわしながら中の様子を窺っているシルエットがここからでもはっきりと見て取れる。


―――「見たところ特に問題はなさそうだぞ?」

俺は何も考えずそう口走りそうになったが、寸前のところで喉の奥へと押し込めた。


ダメだ、これは他でもない彼女自身の問題。

俺が結論を述べるのは簡単だが、それは彼女のためにも決してしてはならない。


第一そんなことをしたら、あのときの少女の覚悟を冒涜してしまうことになる。それだけはあってはならない。


おそらく彼女は今恐れているのだろう。

普通に考えて自分を物理的に客観視などできないから、この先例のない状況に、最低限の安堵感を得たいだけなのだ。


逃げている、とまでは言わない。むしろここに来たというだけでも十分なのだろう。


しかしここで俺が、死者である俺が手を貸せば、それは少女のためでも何でもない。

ただの自己満足と、そして現実逃避の口実材料に成り下がるだけだ。


ここは心を鬼にして、自分の目でしかと見るように諭さねばな。



だがそんな俺の思惑は、予想外の方向から破られることとなった。


「ふん、元気そうだにゃ。どこも悪くなさそうだにゃ!」

「なっ……!」


想定外のアクシデント発生。ステータス更新。すでに手遅れ。繰り返す。もう手遅れ。


不覚にもネコの進入をいつの間にか許してしまっていたらしい。

一方のネコは、眠っている少女の枕元で丸まりながらまたもや余計な世話を焼き続ける。


「だから安心していいにゃ。というかさっさと入るにゃ!」

「ホ、ホントですか?」

「さすがにこのタイミングで嘘は言わにゃいにゃ……というか確認すれば済むはにゃしだにゃ」


おいおい何てことだ、ネコが堂々と正論を語っていやがる……って呑気に感心している場合ではない。


「おいお前! なにを勝手に言いふらしちゃってんだよ!」


俺は少女に聞こえないよう、小声で言葉を尖らせた。


「にゃ? どうして言いふらさにゃかったのかって逆に訊きたいくらいにゃんだがにゃあ。答えられるのにゃら答えればいいだけのはにゃしだにゃ。分かっているのに答えにゃいのはただの意地悪だにゃ」


だがネコはどこまでいってもネコで、あるいはこんな討論など端から徒労なのかもしれないが、それでも俺は言い返さずにはいられない。


「ったく、お前は何も分かってねぇな! いいか、こういうのは自分で落とし前をつけなきゃダメなんだよ! それがどんなに面倒くさかろうも手間がかかろうとも、それを蔑ろにした時点で人間ってのは簡単に腐っていっちまうんだよ!」

「ふん、そういうのはよく分からにゃいにゃ。それに―――」


言葉を探すように、そう言ってネコは少女のほうをチラリと見る。


「それに、オレたちみたいに死んでるヤツらは死者らしく何も考えにゃくてもいいようにゃ気がするんだが」

「この子はまだ死んでねぇだろうがよ! それにいいか、こういうのは人間の機微って言ってだな、小説では一番大切な場面なんだよ! 作者の腕が最も試されるシチュエーションなんだよ、分かるか?」

「にゃ、にゃんとにゃく?」


突然矛先が変わった俺の怒りを前にして、ネコは頓狂な声で応戦する。


「な、何となくだと!? じゃあアレか、お前はそんなテキトーな覚悟でこの舞台に上がってきたのかよ」

「にゃー、いや、その、にゃんかすまにゃいにゃ」

「すまないで済んだら編集部はいらねぇよ。ったく、どうしてくれんだ」

「な、何の話ですか……?」


すると俺たちの会話を断片的に聞いていたらしい少女が、のそのそとカーテンの向こうから姿を現した。


「話? 何のことだ? なぁ、ネコよ!」

「にゃっ……お前には付き合いきれにゃいにゃ」


ネコは膠もなくそう言うと、さきほどよりも一層体を小さく丸めて目を閉じた。

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