ユグドの村
降りしきる雨の中、一人の幼い男の子が歩いていた。
その姿は泥にまみれ、ここらに生息する魔物かあるいは棘を有する枝葉にやられたのか、ところどころに傷があり、うっすらと血が滲んでいる。
おそらく年齢は五歳程だろうが、その様子からは判別しがたい――
その者は虚ろな足取りで、真っ直ぐ、真っ直ぐ進んでいた。
遠くでぴかりと光が走り、大樹の多いここらでも一際大きな大樹に雷が落ちた。雷鳴がとどろき、にわかに炎が上がる。
──炎は燃え広がることなく、豪雨によって消し止められる。
豪雨の中を歩く幼子は光や音になんらかの反応をする事もなく、ただ真っ直ぐ進んでいた。
大樹に雷が落ちる少し前、幼子が向かう先にある集落から馬に乗り結界の外へと出ようとする者の姿があった。
「なりません!! 巫女様!! 結界の中でさえ、これ程の嵐!! それを外へ、出るなど!!」
その後ろから狼狽する男が、嵐の音に消えないよう声を響かせた。
「危険なのはわかっております。しかし、不吉な予感がするのです」
巫女と呼ばれた女は振り返り、僅かに焦燥を浮かべつつも凛とした姿勢を崩さず、嵐の中でも不思議と通る声を発した。
「しかしっ!! 魔物さえも隠れる、このユグドの豪雨の中!! 結界の外に出れば、我々ユグドの兵士達でさえ──!!」
「──!!」
ユグドの村が強烈な光に包まれた。
その瞬間、巫女の意識に痛みのような衝撃が走る。そして胸中にあった不吉な予感が降りたことを悟り、馬を走らせた。
巫女と向かい合っていた男は、巫女の後方の木々の中から立ち上る煙を見て呆然としている。
「みっ巫女様!!」
男が我に返り叫んだ時、すでに巫女は馬を走らせ結界の外へと出ていた──
巫女は焦燥の色を濃く浮かべ、叩きつけられるような豪雨と暴風の中で一心に馬を走らせる。
「あのような雷今までは……」
ちらと向けた視線の先には、雷に半ばまで消された大樹──世界樹──がある。その方向から普段なら感じるはずの気配がない。特殊な嵐によるマナの乱れとも思えず、巫女は馬を更に急かした。
激しい雷雨にもひるむことなく馬は走り、ぐんぐんと世界樹のあった場所へと近づいてゆく。
空は黒雲に埋められ、光は僅かに生じる隙間から微かにしか届かないのだが、巫女の前方は数メートルほど魔法によって照らされていた。
その光の端で影が動くのを巫女はかすかに感じ取る。
「魔物……!?」
ユグド大陸に雨季が来ている間、激しい雷雨と暴風がユグド大陸を襲い続ける。そのため巫女のように結界を張って天候による被害を和らげなければ、人よりも屈強な身体を持つ魔物でさえも危険なのだ。
だからユグド大陸に生息する魔物も本来は、住処へと隠れ、雨季をやり過ごす。
しかし、時折、群れからはぐれる魔物がいる。
このような魔物は大半、生きては行けずに死ぬのだが、群れから外れて混乱しているため何をしでかすかわからない。それにこの時期に餌となりうる生き物は隠れていない人間であり、村を見つけられれば混乱も相まって結界でさえ無視しかねない。
よって危険を減らすためにも、見つけたら極力殺してしまいたい。
しかもその影は、ユグドの村へと向かって動いているのだ。
巫女が魔力を込め、確実に仕留めようと警戒しながらその影へと近づいた時、巫女の表情は訝しげなものへと変わった。
「人……なの……?」
その影は、近くで見ると人間。それも5歳程の幼子だった――
「何故、このようなところに居るのですか?」
巫女が声をかけると幼子は巫女の方へ顔を向けた。
「…………」
しかし何も答えず、パタリと倒れてしまった。
巫女はその幼子の事を怪しんだものの、害はないという確信があった。
それは、巫女としての予感であるが、なにより幼子にかかっていた加護である。
その加護は消えかけていたが、巫女はとても親しんだ優しい気配をその加護から感じ取ったのだ。
巫女は自分の勘を信じ、憔悴していた幼子へ治癒の魔法をかける。
幼子のすり傷は見る間に癒え、浅かった呼吸が深くなる。
「ああ、村へ連れて行かないと……」
巫女は気配が消えた世界樹の方を見つめる。しかし首を振り、幼子を落とさないよう手持ちの縄で固定しつつ馬へと跨った――