序章 9
窓の外は宝石を散りばめた満天の星空が広がっていた。
さっきまで曇っていた空は晴れ、上弦の月が顔をのぞかせている。
窓を開けたい気持ちを抑え、俺は辺りを見渡した。
今日の電車とは少し違い、まるで地方で走っているSL列車の車内といった風景が広がっていた。
人はちらほらと鶯色のソファに腰かけて入るが、皆下を向いていて顔が見えない。
「…………」
夜空を駆ける列車は、さながら昔読んだ小説のようだった。
その物語は、少年が銀河を駆ける汽車に乗り、美しい大地を、煌びやかな夜空を親友と駆け巡るお話。
幻想的な生物、植物、風景の描写に取り込まれた思い出がある。
懐かしい。その本を貸してくれた人は誰だったっけ…。
『お向かい、いいかしら?』
と、ふと声をかけられた。とてもお淑やかな声だった。
見上げると、帽子から金糸のような金髪を溢した、ワンピース姿の女性がスカートの端をつまんでお辞儀をしていた。
まるで貴族のような振る舞い、しかしどこかあどけなさのある微笑みに、俺は心臓を鷲掴みにされた気分になった。
「ど、どうぞ」
冷静に返事をしたつもりだったが。
おいおいこれじゃあまるで美人相手にドギマギしているDT野郎じゃないか!紳士たるもの淑女に悠然と対応すべし。
しかし、デカイ。あぁ、デカイさ。
『どうも』
女性はこれまたふわりと風がふいたように軽く言い、俺のななめ前の席に座った。
相席、というものは素晴らしいものだ。こんな美女と同じ空間で過ごす機会を与えてくれるのだからな……ビバ相席!サンキューAISEKI!
「アナタ、面白いのね」
突如、そうお褒めいただいたことで、身体がビクリと反応する。
そうだよ俺は紳士のなりそこないさ、神経を逆なでしないでくれ、いやもっと寿命を縮めてくださいお願いします!
「探し人を見つける為に幻想郷に行くだなんて…不思議な人」
といって、女性はアメジストのような瞳を妖艶な笑みとともに細めた。
俺は聞き逃さなかった。
確かに、今、この女性が【幻想郷】というワードを出したことを。
「アンタ…げんそうきょーを、知ってるのか!?」
「知ってるも何も、この列車はそこへ向かっているのよ?」
心臓がまた大きく爆ぜる。
いつの間にか乗っていた、この謎で不思議な列車が、【幻想郷】に辿り着く列車。
この列車の行きつく先は、失われた物が流れ着く、俺の父親がいるかもしれない、そんな世界。
「なぁ、もしかして――」
『切符を拝見いたします』
と、言いかけたところで俺たちに黒い影が差しかかった。
手を差し伸べているのは、駅の車掌さんのような恰好をしている、長身長の男性。
遮られた思考を消し去り、男性は乗車券を切りに来たことを理解する。
「いつもお疲れさまです」
向かいの美女はにっこりと笑い、ねぎらいの言葉をかけながら【乗車券】を差し出していた。
って、やっぱり乗車券必要なのか!?そんなもの買ってないし貰ってないぞ。無賃乗車って結構罪が重かったような気がするが、仕方ない。
少しポケットを探ったフリをした後にすいません失くしましたぁ~☆とか言えばいいか――
「……あれ?」
ポケットに突っ込んだ右手が何か硬い物を捉えた。
そのままそれを引っ張り出してみると、それは4つ折りになった茶色の紙。
ガムのチリ紙か?と思って開いてみる。
『はい、確かに幻想郷行きの切符ですね。悠久券なので、そのままお持ちください』
……あった。え?なんで?いつから入っていた?
狼狽している俺を後目に、車掌さんは帽子をかぶり直し、去っていった。
改めて切符を見てみると、確かに青い文字で[幻想郷行]とだけ書かれている。
「よかったわね、切符持ってて」
窓の外、踏切の音が遠ざかっていく。
今この列車はどのあたりを走っているのだろうか。
「…アンタが入れてくれたのか?」
「まさか。アナタが始めから持っていたのよ?でなければこの列車はアナタの前に現れなかった」
ふぅむ…謎が謎を呼ぶ展開だが、ひとまず乗車する権利は得られたらしい。
安堵の息をつき、俺はもう一度幻想郷行の切符を見る。
確かに[幻想郷行]とは書かれている。にしても、その文字は手書きだった。
まるで青色のクレヨンで子どもが書いたみたいな、そんな字で――
(クレヨン?)
何かが頭の片隅で引っかかった。
そういえば、昔どこかでクレヨンを貰ったような。
かなり前に貰ったものだったから、今じゃクレヨン本体は捨ててしまったが…その周りの紙は取っておいといたような。
そして、その茶色の紙とこの切符が似ているような――
「ほら、もう準備しなさいな」
「え?」
俺の思考を遮った女性は、豊満な身体を揺らしながら静かに立ち上がった。
準備、とは降りる準備の事だろう。もうじきに【幻想郷】に着くのだろうか?
「初めに言っておくわ」
「?」
「アナタの父親は、幻想郷にいる」
「……え?」
今、この女性は何と言った?
「…聞こえなかったのかしら?ですから、アナタの父親は幻想郷にいるのよ」
「……」
車内の空気がぴしりと凍り付いた。
掛け時計の音。
翔ける心臓の音。
駆ける車輪の音。
女性の声は、酷く落ち着いている。
「すぐに会えないだろうけど、それでも探しなさい」
彼女は淡紫色の扇子を取り出し、横に差し出す。
すると、何もなかった所から一筋の”糸”が伸び、ぱっくりと口を開いた。
奥に広がる、黒い空間――それは、無に近いような気がした。
「求めるならば、全てを収めるまでね」
俺に向けられたアメジストの瞳。
鋭さと冷たさの両属を含んだその視線は、しかし忽然と消えた。
一瞬の出来事だった。
眼を瞬かせても、がらんとした車内風景が広がるのみ。
(……危なかった)
あのまま見ていたら、なんだか戻れない場所まで連れていかれそうな気がした。
忽然と姿を消した女性。彼女はいったい何者だったのだろう?
(いや…今は、あの言葉を信じるしかない)
――アナタの父親は、幻想郷にいる。
根拠のない言葉だ。会って間もない人間の言葉。
だが、信じるしかない。
それ以外に信じる物が無いのだから。
(…やってやろうか)
これまでも、そしてこれからもおそらく謎は続く。
幻想郷という未知の領域に足を踏み入れるのだ。
忘れられたモノが流れ着く世界。果たしてそこに広がる景色は、一体どんなものなのだろうか?
(待ってろよ、親父――)
扉が開き、俺は深く息を吸い込んで一歩を踏み出した。
『幻想郷――幻想郷、でございます。現世にお忘れ物がございませんように』