edge freaks
昼ごろから降り始めた雨は、夜になっても止むことはなかった。
キッチンでは包丁が白菜を切り、まな板に当たる音が響いている。
そのうちに雷の音まで聞こえるようになり、柊桃子は料理の手を止め、窓の外を眺める。
濡れた窓の向こうに煙る街の灯り。遠い空を横切っていく飛行機の灯り。
すぐそばの家から、思い出したように零れる灯り。
ふと、腹部に手を当て、落ち着かせるようにさすった。
妊娠して6ヶ月目になる。少しせり出した腹の中で、子供が動いたような気がした。
「大丈夫よ……」
胎動にはまだ早い時期だし、少し過敏になっているのかもしれない、と桃子は思う。
しかし、なんとなくではあるが、自分の気持ちが胎内の我が子に伝わっているような気がしていた。
「大丈夫……」
語りかけながら腹をさすり続ける。
ようやく落ち着いたような気持ちになって、桃子はふたたび窓の外を見た。
雨は激しさを増し、止む気配を見せるどころか、少なくとも一晩は街の頭上に居座りそうな図々しさだ。
暗い空を引き裂くように、一筋の雷光が走った。
傘を持たずに家を出た夫のことが気がかりだった。
20時を過ぎても夫からの連絡は来なかった。こちらから電話をしても繋がらない。
よほど忙しいのだろうか。
だが、ここまで忙しくなるのなら、それが分かった時点で連絡があるはずだった。
一緒に暮らすようになってから8ヶ月。夫はそういうときに欠かさず連絡を寄越す性格だった。
先に軽く食事を済ませた桃子は、ソファにもたれてテレビを眺めている。
バラエティ番組で名前も知らないお笑い芸人が、場を盛り上げようと声を張り上げる。
画面を見つめながら、桃子は心ここにあらずといった様子だった。
わずかな苛立ちと不安。
「お父さん、何してるんだろうねえ」
子供に語りかけながら、寂しさを紛らわすように腹をさすった。
妊娠していることがわかってからというもの、子供は順調に育っているし、夫は営業の仕事を一生懸命やっている。
極力残業をせず、休日は家に居て色々と気遣ってくれる夫。生まれてくる子供に二人して思いを馳せる日々。
とりたてて不満もない、人並みだが幸せな生活。
桃子に将来の不安はなかった。22時になろうというのに、夫から連絡がないということ以外は。
チャイムが鳴ったときにすぐ玄関先まで出られるように、ソファで毛布にくるまってうとうととまどろんでいると、ふと何かの気配を感じた。
小さな、餓鬼のような体格のものが、腹の上に乗っかってじっとこちらを窺っている。
ぼんやりとした視界の中にそれを捉え、桃子は毛布をかき集めるようにしながら跳ね起きた。
腹の上にいるはずのものが夢の出来事であったと、思考がはっきりしていくとともに分かった。
じっとりと、暑さではない汗がうなじから背にかけてにじみ出すような嫌な夢――腹の内側から、何か不吉なものが出てきたような生々しさに嫌悪を覚えるほどの。
桃子は腹をさすり、大丈夫だと自分に言い聞かせた。餓鬼が腹の上を這うなまなましい温かさと、その感触が現実のように残っている気がして。
夫には内緒だったが、妊娠してからというもの、時々同じような夢を見ることがある。
はじめはもっと小さく、形もぼんやりとしたそれは、胎内で子供が徐々に人としての形をはっきりさせていくように、夢に現れるたびにより具体的な存在になっているような気がする。
だが、所詮夢は夢。無意識下の出来事だ。
桃子は初めて子供をもつということに、無意識のうちに思うところがあるのかもしれないと考えたが、あれこれと思考をめぐらせても答えが出るわけではない。
そういうことに思い悩んだりして、自分や子供に悪い影響が出たりしないようには気をつけていた。もう自分だけの身体ではないのだ。
ココアが飲みたくなって、桃子は毛布を肩からかけたままキッチンに立った。とろとろとまぶたは落ちてきていたが、温かいものを飲んで気持ちを落ち着けるのが重要だと思った。
電気ケトルのスイッチを入れ、湯が沸くまでの数分の間、ココアの粉末を用意する。
マグカップとスプーンを出すために食器棚を開けようとしたそのとき、玄関のチャイムが鳴った。
ようやく帰ってきた。
たった今飲もうと思ったココアのことなどどうでもよくなって、インターホンへ飛びついた。
「おかえりなさ――」
エントランスでカメラに映ったのは、コートを羽織った二人組だった。ちょうど顔のあたりにパスケースのようなものを開いて持っている。
身分証の下に輝く黄金色の旭日章――だが桃子は、その事態を飲み込めないでいる。
「警察署の者ですが、ヒイラギさんのお宅でよろしいですか」
男は抑揚に欠けたような調子で、ヒイラギの部分だけ訛ったような、イにアクセントのかかった発音でそう言った。
たしかに、警察の人間だと。
「ええ、柊ですが……こんな時間に、どうして警察の方が……」
疑問を声にするたびに身体に震えがおこってくる。
なぜ、なんてことは言わなくても分かっているだろうに。
「夜分の訪問、大変失礼致します。ご主人のことでお話がありますので、どうか中に」
インターホンで話している男は淡々と述べるべきを述べる。どこか機械のように堅固で、事務的な印象だ。
もう片方の男は、仮眠中のところを叩き起こされでもしたのだろうか、どこか緊張感のない様子だ。
中に入るまではやることがないのだろうか。放っておけば、頭の後ろに手でも組んで、エントランスを奔放にうろつきかねないくらいの雰囲気だ。
「主人って……主人が、どうしたっていうんですか?」
桃子は男達の様子を見て、どこか居心地の悪い、軋んだ感触のものが胸の中に根を這わすような心持がした。
「申し訳ありませんが、ここでお話できるようなことでは」
きしきし。きしきしと。心臓を根が包み込んでいく。
「どうか落ち着いて。無礼は承知の上です。このような身なりでは信用しろというのも無理かもしれませんが、少なくともこちらは本物です」
男は手帳をさらにインターホンのカメラに近づける。だが、インターホン程度のカメラでは、どれほど近づいたところで見える部分など程度が知れている。
桃子は覚悟を決めた。夫に何か起こった場合と、それ以上のことも含めて。
「どうぞ……でも、深夜ですので、ご近所に迷惑はかからないようにお願いします」
「ええ、ありがとうございます」
エントランスを開錠した瞬間に、退屈そうな男が浮き足立ったような動作でマンション内部へと身を滑り込ませるのが映った。
事務的な男が通話を切る直前、わずかに口元を歪め、笑ったような気がする。
――きしきし、きしきし。
「――ご主人、つまり泰明さんなんですが……今日は会社に行っていないようなのですよ」
実際に顔を合わせてみても、やはりこの男は無表情だった。
ふたりの刑事はこの能面のような男が金木、もう片方のひょろひょろと細長い骨だけのような男が貫井というらしかった。
だが男達の名前を知ったところで不信感が拭えるかといえば、そんなはずはない。
桃子はレバーロックを掛けたまま、ドアを開けられるだけ開けた状態での面会となった。
それを確認した瞬間、貫井の表情が明らかに面倒くさそうに歪んだが、すぐ金木にたしなめられた。
その後の貫井は特に話にも加わらず、退屈そうにぶらぶらとしている。まるで母親と外出中、近所の人と出会って井戸端会議が始まってしまったときの子供のようだった。基本的にやる気がないらしい。
「そんな……主人は今朝、いつもと同じように家を出て行ったのに」
「家を出た後、職場に『今日は休ませてほしい』と連絡を入れたそうです」
「どうしてそんなことを?」
「我々もそれがわからないのです。聞けばご主人は職場でも人柄がよく、信頼の厚い人物であったと聞いています。人間関係に悩んでいるわけでもなく、仕事がうまくいっていないというわけでもない」
「ええ……仕事の愚痴なんかは家でも聞いたことがありません」
神隠しにあったようだと桃子は思った。休みたいのなら家から電話を掛ければいいし、具合が悪ければ無理をしなければいい。
夫に負担がかかっていないかといえば、まったくということはないだろう。しかし、いくら子供が生まれるとはいえ、そのために無理などしてほしくはなかった。家庭のために身体や心を壊すなど、本末転倒だ。
「ただ、何も痕跡を残さずに消えたかどうかも分かりません。それでこのような時間ではありましたが、ご主人の部屋から何か見つからないかと思い、伺った次第です」
それにしても非常識すぎる。でも、緊急事態と思えば仕方のないような気もする。
「そういったわけで、ここを開けてはいただけませんか」
「ええ――」
桃子はレバーロックを解除するために、いったんドアを閉じようとして、はっとなった。
「どうされましたか?」
金木がほとんど抑揚のない声で尋ねた。
「申し訳ありませんが、捜査令状のようなものはありませんか」
夫が会社に行っていないのはわかった。
仮にそれが真実だとして、家に帰っていないという事実について、彼らは一体、どこでそれを調べたのか。
だがそれを確認するのが恐ろしくて、桃子はふと、そんなことを聞いた。
「ああ、礼状ですか。――困ったな、それは気が付かなかった」
金木はそう言うと、肩越しに貫井に視線をやり、桃子の方へ顎をしゃくるようにした。
貫井は無邪気な様子で首を傾げていたが、次の瞬間、狂犬のように歯をむき出し、威嚇するのか笑っているのか判断のつかないような表情を浮かべ、百日紅のような細く節くれだった両腕を顔の前に突き出した。
「できるだけ任意同行願いたかったのですが、残念です」
まだ刑事ごっこを続けながら、金木が口元を三日月のように薄く吊り上げる。
桃子は背筋がぞくりと震えた。反射的にドアを閉めようと両手でノブを強く引いた。
「お連れしろ――貫井」
その言葉を聞き終わる前にドアが閉まった。
あくまでも桃子の力で閉められる限界までは。
「いやあああああああ!」
桃子の喉から絶叫が迸った。ドアの隙間に貫井の指が挟まっている。
あの骨のような男は、自分の手が挟まることなどまったく考えず、金木の命令通りにドアが閉まるのを阻止したのだ。
力いっぱいドアノブを引く桃子の視界の中で、指だけしか見えなかった貫井の手が、徐々に指の付け根、手のひらと身体を侵入させてくる。
桃子は泣きそうになってドアノブに体重をかけた。尻餅をついたような無様な格好で、指の関節が白くなるほど引っ張った。
微かに猿の鳴き声のような貫井の笑い声が聞こえた。桃子は尻を振るような動きで二、三度体重を掛け直した。
だが腕は軟体動物のようにぐねぐねとうねりながら、さらに隙間に入り込んでくる。
桃子はかぶりを振った。
――貫井の腕がありえない角度に曲がってレバーロックを開錠した。
これは悪い夢なのだと自分の置かれた状況を必死に否定した。
――ドアをこじ開けて侵入してきた貫井の指が、桃子の首にかかった。
さらに悪い夢に引きずり込まれるような予感とともに、視界が暗転した。
くくっ、と押し殺したような金木の笑い声が聞こえた気がした。
「こちら金木。目標を回収しました」
マンションの地下駐車場。片隅に停まった黒塗りのセダンの運転席で金木は粛々と告げた。
助手席にはせわしなく身体を揺する貫井の姿があり、後部座席には意識を失った桃子が寝かされている。
「貫井が少々はしゃぎ過ぎたようです。声を出されたので、後始末に苦労しました」
金木と貫井が警察ごっこを繰り広げたフロアでは、おそらく死体が転がっていることだろう。桃子の絶叫を聞いて様子を見に外に出た正義感あふれる隣人たちのなれの果てである。
「ええ、多少は。ですが6ヶ月目ともなれば、そこそこに質のよいものが取り出せると思いますが」
電話の向こうで語気が強まる。金木はうっとうしそうに目を細めた。
「――了解しました。ここからはできるだけ丁寧に送り届けます」
しかめ面で電話を切ると、金木は小さく舌打ちした。
「お、おれのせいか」
暴力の余韻に興奮冷めやらぬ様子の貫井は、飼い主の顔色を窺う犬のように金木に話しかけた。
「いいや、目標は回収できた。お前はよくやったよ、貫井」
先ほどと別の連絡先に電話を掛けながら、金木は相棒の顔も見ずに淡々とそう告げる。
貫井は少年のように目を輝かせながら、歯を剥き出して笑った。血塗れの両手を洗おうともしないこの愚鈍な男の扱いについて、金木は仲間の誰よりも熟知していた。
「よ……よかった」
言うや否や再び隣から舌打ちが聞こえ、貫井は身を竦ませた。
「段田も栗山もか……何をやっている」
金木は言葉に抑揚がほとんどなく、感情の動きが感じられない。それだけに舌打ちや言葉遣いの変化から貫井は金木の感情を察知するのみだったが、今は相当に苛立っているようではあった。
だがその感情の矛先が自分でないということについて、貫井は安堵するような気持ちになった。
「まあいい、本命はこっちだからな。戻るぞ」
「わ、わかった」
貫井は「荷物番」として後部座席に移った。柊桃子が目を覚ます気配はないが、念のためとの金木の指示だった。
気を失った女を前にしても、性欲と無縁な貫井にとって、桃子の肉体に取り立てて興味を惹かれるようなことはないはずだった。
しかし貫井の視線は桃子の黒い髪に吸い込まれるように止まり、衝動的にそれに触れてみようと血のついたままの生白く細い腕を伸ばしていた。
そのときだった。貫井の上体は強い力で後ろ髪を引かれたように仰け反り、ガラスに後頭部をしたたかに打ち付けた。
朦朧とした意識のまま鼻が熱くなっているような違和感を覚えて手をやり、ぬらりとした感触を得ることにによって、初めて鼻血が出ているのだと気づいた。
「急ぐぞ」
金木が車を乱暴に発進させた。相棒の鼻血の原因が頭部を強打したことによるものだけではないと知っているようだった。
あ、あ、と熱に浮かされているように、返事なのかそうでないのか判然としない声を貫井が発した。
やや焦っていたためか、駐車場に入ってきたときは見当たらなかった赤いミニ・クーパーの存在と、それが金木たちの後を追うように走り出したことにも気づくことはなかった。
チームの中でいちばん重要な、そしていちばん楽な仕事のはずだった。
金木は車を走らせながら己の認識不足を呪った。目標はたいした抵抗力も持たない女だったが、実際にはその女の宿す「命」だった。
それが動き出して自分達に牙を剥くという可能性は低いと説明をされていたが、今となっては結果論としての話しかできない。
そうなるか、そうならないか――そう「なってしまった」以上は、それが起こらなかった可能性についての話などまったくの無駄でしかなかった。
貫井は鼻血を出したあと、首をかきむしったかと思うと泡を吹いて意識を失った。「命」に対する試金石であり、またリトマス試験紙としての役目を十分に果たしたが、金木は自分もいつ貫井のように影響を受けてしまうのかという不安に苛まれていた。
後部座席に寝ているだけの女から異質な気配が漂ってくるような気がして、それを振り払うようにアクセルを踏み込んだ。足元に縋り付くような魔の気配を感じ、叫び声が出そうになるのを必死に抑えた。眉間に皺を寄せて奥歯を噛み締めなければ耐えられないほどの恐怖に出会ったのは数年ぶりのこと――だが、それも長くは続かなかった。
金木の忍耐力に限界が生じたのである。もとより感情を押さえ込む術には長けていた金木であったが、車内で徐々に距離を詰めてくる気配に、総身の毛が逆立つような思いだった。
呻き声が口から漏れ出るのを感じながら、近くの公園に車を乗り込ませた。駐車場に雑な動きで停車させると、ほとんど乗り捨てるように車を降りた。応援を要請し、胸の内から立ち上るこの恐怖が過ぎ去るまで、ただひたすらに身を潜めていようと決めた。生きているか死んでいるのかも分からない相棒のことなど考える余裕もなかった。
ふらふらと覚束ない足取りで、できるだけ車から距離を取ろうと広場を横切った。自分がどこに向かっているのかについて、身体が雨に濡れることさえどうでもよく、ただそこから離れたいという一心だった。
――あれは、あんなもの、普通じゃない。
自分たちの施した「もの」が災いとして振りかかってくるということなど想像もつかなかった。
今までと同じように処理してきただけの「もの」について、どうしてこんなに恐れているのかも。
その中身すらも目にして、それでも怯まなかったというのに。
しかし「それ」を御することができていたかといえば、実はまったくできていなかったのだと知った。
これまではただ上手くいっていたという、ただ運が良かっただけの話だったのだ。
そうして失敗したときに使い捨てられるように、自分たちの存在はあった。
金木が貫井をあっさり見捨てたように。
それでも金木は貫井と同じに扱われるのだけは嫌だった。
誰かの都合のいいように使われ、不要になった途端に切り捨てられることだけは。
死んでたまるか――そう思うと歩調が早くなり、ついには走り出していた。
走れるだけ走って近くの木にもたれかかり、一息ついて周りを見回した。
自分を追いかけてくるものはいなかった。相棒も、車内で感じた粘りつくようなあの気配も。
しかし、ふと違和感を覚え、もう一度周囲の様子を確認した。
さきほどは焦っていたので意識してはいなかったが、ここは一度見た風景のような気がする。
人のいないベンチと暗闇の中で真っ黒な水を吐き出し続ける噴水。
灯りに浮かび上がる雨粒と時計。
わずかばかり余裕を取り戻した金木は、小さく舌打ちをするとふたたび走り出した。
嫌な予感に背中から汗が滲み出していた。
4、5分ほど走り続けて金木は愕然とした。
そこにはさきほどと同じ風景が広がるのみだったからだ。
もたれかかった木も、少し離れた位置にある噴水も、頭上にある時計も。
寸分と変わらない位置に戻ってきたことに。
振り返ると、乗り捨てた車が近くに見えた。金木は目を剥いて叫びだしそうになるのを必死に抑制しながら、奥歯をあらん限りの力で噛み締めてまた走った。奥歯が軋む音が口腔から骨を振動させて聴覚に響いた。
途中から何のために走っているのか分からなくなりながら、足がもつれてアスファルトの上を転がってもすぐに身体を起こしてまた走った。周りの風景も何もかもを意識の隅に追いやって、もはや走ることそのものが目的になったかのように走り続けた。
肺が堪えきれずに休息を求めていることに気がつき、手ごろな位置にあった木を抱くように腕を回してブレーキ代わりにすると、ようやく足を止めた。
その瞬間に金木は絶望した。そこにはまったく変わらない風景があったからである。結界のようなところへ足を踏み入れてしまったのだろうかと、足元や周辺の建造物、また樹木などに何らかの仕掛けが施されてはいないかと注意深く視線を動かしていった。
応援が来るまでの間に、目標を何者かに掠め取られるのは惨めに使い捨てられるのよりも我慢がならなかった。
濡れて重くなったコートの内側からナイフを取り出すと逆手に持ち、顔の前で構えた。疲労と焦りで歯の根がうまく噛み合わず、かちかちと小さく断続的な音が鳴った。
猫足でじりじりと広場の中央あたりに歩を進めていくと、ある一点でぴたりとその動きを止め、そこから一歩も動かなくなった。
何者かが自分を狙う視線を感じる。獲物を捕食するその一瞬を、気配を殺してじっと待ち望む、まるで猛禽のような視線。
汗が頬を伝って胸に流れ落ち、ひやりとした感触を伝えた。全身の感覚が鋭敏になるような気がする感触だった。
狙撃されることを警戒して金木は後方に跳んだ。近くの木へと走り、その陰に身を隠した。
相手の居場所は分からなくても、今の視線で方向はおぼろげに把握できたからだ。
ゆっくりと息を吐き出しながら胸を見下ろす。
深々とナイフが刺さっている。
金木は声にならない叫びを上げながら、素早く胸のナイフを引き抜いた。
血は出ずにナイフは幻のように掻き消えた。幻術の一種だ。
放っておいても死に至るほどものではないが、「ナイフが刺さっている」という「事実」が、精神を蝕むたぐいの。
焦燥のせいで気配の出所を見失い、金木は木の陰から転がるようにして飛び出た。どこが安全なのかまったく分からなくなっていた。
両手と両足に幻のナイフが突き刺さる。存在しないものの感触に、苦悶の叫びが上がる。
こんなことをする人間はまともじゃない――金木は自分のことを棚に上げてそう思った。
だが、金木のような人間にすらそう思わせるほどに相手が悪趣味であるということもまた事実だった。
全身を針のむしろにされるように無数のナイフが貫いた。金木は全身から汗を噴き出させながら、地面の上を泥にまみれ、炎に焼かれる芋虫のようにのたうち回った。
体の内側で金属同士が擦れ合う感覚に身悶えていると、すぐ間近で視線を感じた。
青い瞳が暗闇の中で輝いている。
ふと全身に刺さっていたナイフの感触が消えた。自由になった身体を縮め、獣のような低い体勢でナイフを構えてその視線の方へ突進した。
勢い余って地面に倒れこんだ金木は、すぐに胸元から広がる生温かいものと、口の中に充満する鉄錆びの味に気づいた。
やられた――。金木は朦朧とする意識の中で悟った。振りかざした刃を避けられ、今度は幻ではない本物の剣が深く身体を貫いている。
金木の顔のすぐそばで足音がした。無理やり上体を起こすようにして顔を上げ、相手の顔を見た。
だが、視界はすぐに闇に閉ざされるように、金木はそのすべてを失った。
桃子がふたたび目覚めたときは病院だった。
白く清潔なベッドの上に寝かされて、点滴を打たれていた。
医者からは破水したと聞かされた。流産だったと。
生まれてこなかった命のことを思い、桃子の目尻に涙が浮かんだ。
ささやかな幸せがずっと続けばいいと思っていただけなのに、一夜にしてどうしてこんなことになったのか。
誰かに説明してほしかった。そうでもされない限り、自分が生きているだけでそれが罪なのだと言われているような気がした。
病室のドアが開いた。入ってきたのは、見たことがない青い瞳の男。それに、夫の泰明だった。
男は水上慎吾と名乗った。泰明と桃子を病院に連れてきたのがこの男だった。
水上はある人物より依頼を受け、桃子――正確にはその腹の「中身」――を処分するために桃子を探していて、ふたりを助けることになったのはその過程でのことだと告げた。
そして、桃子を襲った二人も目的はその腹に宿っていた「物」だろうと推測した。
桃子は水上の話を聞きながら、自分が産めなかった命について、なぜそのような表現をされるのだろうと疑問に思った。失った直後のことで怒りを通り越して悲しみしか生まれなかった。
そのことについて問うと、水上は「それは旦那から聞くといい」と突き放した。
水上の話を聞きながら、時折桃子に対して怯えたような視線を向けていた泰明が、そのときようやく口を開いた。
自分は利用されたのだと。
桃子には秘密にしていたが、泰明には将来に対する不安があった。一年ほど前から業績は振るわず、成績が良くない割には残業もしない。お前はやる気があるのかと、上司から叱責を受ける日々が続いていた。
そのうち桃子と暮らすようになり、職場と家での自分自身の使い分けに心をすり減らしていくようになった。
そんな日々を過ごす中、旧友から連絡があり、気分転換も兼ねて久々に会うことにした。
そこで宗教の勧誘を受けた。ありがちな話だ。もちろん断ったが、友人の連れてきたその男は、泰明の不安を的確に言い当てた。
その動揺を突かれ、泰明は幸運を呼ぶというある「おまじない」を試すこととなった。それを試したうえで、効果がなければ勧誘の件についてはなかったことにしていいというものだった。
無茶苦茶な言い分だった。だが泰明は日々自分を真綿のように締め付ける重圧から解放されたい一心で「幸運」という言葉に縋り付いた。
そこまで言って、泰明は頭を抱えて震えた。桃子は泰明の怯えるような視線の理由に気づいた。
水上が「中身」とか「物」とかいう表現を用いた理由も。
桃子は静かに泰明が落ち着くのを待った。今の時点ではその事実を受け入れることも、許すこともできない。
しばらくそうして震えていた泰明は、必死に恐れを内側に抑え込もうとしながら、搾り出すような声で言った。
「桃子……君が子供だと思っていたものが、僕が君に施してしまった「おまじない」なんだ……」
次の言葉の前に、ふたたび泰明は頭を抱えた。さっきよりも激しく震えだした。
「いや……おまじないなんてものじゃない。あれは……あんな、おぞましいものを、僕は……」
泰明は涙を流しながら「すまない」と何度も繰り返した。救いを求めた挙句にさらなる救いが必要になるとは思いもしなかったのだろう。
そして、最も必要とする「救い」は、彼自身の目の前にあるのだということにようやく気がついた愚かさに、泰明は泣いていた。必要な部分を話し終えたと思った水上がふたたび説明に入った。
「そうして育てたものを、あんたらを襲った連中が回収し、何かに利用しようとしていた。「呪物」である以上、人に害を為す可能性が十分に考えられる。俺と連中の違いはそれを消すか、利用するかの違いでしかない。
あんたの腹に宿った「命」を、あんた自身から奪おうという点では同じだ」
「違うわ」
やや下に目線を向けながら話していた水上だったが、その言葉を受けて、不意をつかれたような顔で桃子を見た。
桃子は水上の深い青色の瞳に吸い込まれそうな気がした。
「わたしと泰明さんを、助けてくれたでしょ」
「それは、呪物を片付けるための過程で、たまたまそうなっただけだ。あんたらを襲った連中はほとんど俺が始末したし、状況が違えばあんたらだってどうなっていたか分からない」
「でも、助けてくれた。だから、ありがとうございます」
頭を下げた桃子に、水上は居心地の悪そうな顔をした。
「とにかく、これで俺の仕事は終わりだ。あんたらがどうなるかまではどうでもいいし、そっちで決めてくれればいい。俺はもう関係ないんでね」
突き放すようにそう言って革張りのブリーフケースを手に持ち、水上はドアを出て行った。
――正直だけど、素直じゃない人。
それが水上に対する桃子の感想だった。依頼人が柊夫妻のどちらでもない以上、ふたりが巻き込まれた件について守秘義務を侵してはいないとしても、わざわざこのような説明をする必要はおそらくはないだろう。
それでも彼は、泰明が桃子に己の罪について告白する状況を創り上げ、桃子が泰明に求めるであろう答えのすべてを与えさせた。
「泰明さん、こっちに来て」
泰明は親に叱られる子供のように背中を丸めたまま、桃子の声に反応してびくりとすくんだ。
「桃子、すまない」
うわごとのように繰り返す夫を抱きしめる。
泰明は愚かな男だった。愚かだが妻を危険な目に遭わせたことについて、何も思わないほどの馬鹿ではなかった。
抑圧から逃れるために、より己を強く縛り付けることになった哀れな男。
桃子は目の前の男を見捨てるつもりはなかった。ただふたりだけでも生きていこうと思った。
「私を幸せにするとか、そういうことはもう考えなくていいから」
え、と泰明は顔を上げる。不安が色濃く陰を落としている。
「少しずつでいいから――ふたりで幸せになっていきましょう。これからも。
私もあなたの重荷にならないよう、頑張るから」
泰明は桃子を強く抱き返しながら嗚咽した。
深夜の病室に泣き声だけが響いていた。
「――以上が、俺からの報告だ」
「ええ、ありがとうございます。既にこちらでも警察の身分証を所持した連中の死体を確認しています」
水上慎吾は、大きな机と革張りの椅子に座った若い男と話をしていた。
部屋の大きさや使っている机や椅子などの質から考えると、相応の身分をもった人間だろう。
だが、そこに座っている男はあまりにも若かった。少年といった方がいい。
「幸福――ですか。たしかに聞こえのいい言葉ですね」
少年は物憂げにそう呟いた。
「不安という傷口を抉られれば、誰もが藁にもすがる思いで手を伸ばしたくなる言葉だ」
水上は他人事のようにそう言った。正直な感想を述べるなら、度し難い、という気持ちの方が強かった。
「男女の性交を清浄なる菩薩の位と言い、人間の行いは本来邪悪なものではないとするのは密教の教えにあります。ですが、それを呪術に用いるという宗派については私も久しく聞いたことがありません」
「昔の真言立川流みたいなもんじゃないのか。何にせよ、宗教法人ってやつは色々と隠すのにはいい環境だ」
「同感です。あの呪物も、誰が、どのような目的で――と、疑問は絶えません」
「俺が出会った運び屋はほとんど素人だった。片方は異能者だったみたいだが、俺が公園に着いたときにはもう死んでた。呪いに大しては何の対処も施していない――いや、施されていなかったんだろうな」
水上は、桃子を回収するときに、すでに車内でこと切れていた貫井のことを思い出していた。
身体はぐにゃりと弛緩して、まるでクラゲのようだった。異様に長い腕と、ほとんど粉末といっていいほどに細かくなった骨。敵に回せば水上の刃物は通用しなかったかもしれないと思った。
「警察の身分証は本物でした。持ち主はすでに殺されているでしょう」
「だろうな。柊泰明も殺されそうになってたくらいだ。今までそうやって、誰にも知られないようにやってきたつもりかもしれない」
「我々にその存在が知られた以上、彼らも長くはないでしょう。色々と粗さも目立つし、部下が居所を突き止めるのも時間の問題です。また何かありましたら、協力を要請しますよ。岩槻所長にもよろしくお伝えください」
「わかった。それじゃ、俺は帰って寝る」
水上は話には付き合ったが、その内容については特に興味もないといった感じで部屋を出た。
一方で、部屋に残った少年は、どこかに電話を掛けているようである。
「――もしもし。こちら極東練武会、加美祢支部ですが――」
水上は事務所の赤いミニ・クーパーを走らせながら思った。
幸福というものについて。
自分とはおおよそ無縁なもののことについて。
柊泰明は幸福という光を求め、より暗い闇へと誘われていった。
水上は自身が何に光を見出し、そしてどのようなところへ走っているのかについて考えた。
光はどこにもない。それは自分の両目を一度失ったときに知っている。
だが、闇は。
自分はどのような闇へ向かっているのか。
そもそも向かっているのでもなく、ただもがきながら落ち続けているだけなのかもしれない。
永遠に続く闇。虚無という穴に。
降りしきる雨も止み、街はいつしか陽光の下にその姿を変えていた。
夜の終わり。それは彼らの仕事が終わる時間でもある。
水上はラジオを着け、帰路に思考を戻しながら大きくあくびをした。
とりあえずは目下の睡眠欲を満たすために。