薔薇の香夢
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1
「伯符…その方は?」
周瑜は孫策の傍らに寄り添う女性を唖然とみつめた。
華やかで美しい容顔に、どこか不思議な光を宿した榛の瞳、紅を引いた唇は形が良く、膨らみがある。
二十歳ぐらいだろうか?
けれど色艶輝ける大人の女性にも見えるし、開花前の無邪気な少女のようにもみえる。
周瑜には人の本性を直感で見抜ける才があったが、この女性は妙な違和感があった。
「これは俺の妻だ」
孫策は照れくさそうに頬骨あたりを指先で軽く掻かいて彼女を紹介した。
孫策は周瑜の幼馴染みにして主君。
公の場では『臣下の礼』を孫策にとっているが、私の場では幼馴染みに戻る。
孫策は周瑜と同い年の二十四歳。意志の強さをあらわす荒々しく太い眉、日焼けした褐色の肌。引き締まった唇は不思議と情の深さを感じさせる。そして彫が深く男らしい顔立ちはこの中華の一般の男性とはことなる印象を受けた。
いまは甲冑ではなく普段着をきているが、その服からも鍛え上げられた身体が伺える。
彼は中原に覇を唱えるべく江東の地を平定し、短期間で十数万の兵を用いる将軍になった。
周瑜は参謀として将として孫策に仕えていた。
孫策に女気がないとはいわない。
彼は愛妾に女を二人生ませている。だが、まさか妻を娶るとは思わなかった。
孫策は愛妾の死を悼んでいたし悲しみもかなりのものだった。
(なのに、なぜこの女性を妻にしたのだ?)
周瑜は妻と紹介された娘の身元を孫策にたずねると、逆に孫策が怪訝に眉にしわを寄せ、そして微苦笑を浮かべていう。
「なんだ? おまえ知らなかったのか? この綾は蒂花の姉だ」
「……蒂花の、姉?」
蒂花というのは周瑜の恋人で自分より六歳年下の十八になる娘だ。
盧江の豪族の娘で美しく活気に満ちあふれる瞳をもった少々お転婆な恋人。
その蒂花との出逢いの経緯を語れば長くなるのだが、周瑜は先日まで記憶喪失だった。
皖城の下見の際、あやまって崖から転落し河に流されて運良く川辺にひっかかっていたところを偶然、蒂花に助けられた。
しかし、河に流されつよく頭を打ったらしく周瑜は今までの記憶や自分の名前さえも忘れて途方にくれた。そこで咲はあこがれの人の字を周瑜に与えた。
『公瑾』と。
その字こそ、自分の字。
偶然にも蒂花はあこがれの将軍を救ったのである。
戦を忘れ、彼女とともに過す日々はとても幸せで心安かだった。
記憶が戻らなくてもいい……、
このまま彼女と過ごしていられるなら。
けれど、日に日につれて霞みが薄れるように記憶を取り戻しつつあり、そしてついに孫策が自分を探して見つけ出したとき、完全に記憶が戻った。
けれど、孫策が周瑜を連れ帰ろうとした時、蒂花が泣きながら引き止め、また周瑜もわざと記憶喪失のふりを続け孫策から逃げた。
蒂花が自分を渡さないと泣叫んだ姿は痛々しく、そして狂気的だった。
狂ってしまいそうに泣叫んだため、孫策も連れ戻そうという気がそがれてしまったのだ。
その夜、周瑜は蒂花に自分のことを話した。記憶が戻ったこと、そして自分が『周瑜』であることを。
蒂花はわかっていたらしい。
「けれど、私は公瑾さまに…そばにいてほしい! 姉さんのように私を一人おいていかないで!」
「おいていく? 姉さんのように?」
「姉さんは、行方不明になってしまったの。 ある日……森の中で迷子になったとき…姉さんが「あなたはここで待ってなさい」って、森の奥へ消えていった…私はお父様たちに見つけてもらって助かったけれど姉さんは戻ってこなかった……。
だからもう待つなんていやなの! ひとり残されるのはいやなのっ!」
周瑜は蒂花を強く抱きしめた。
そして耳朶に唇をよせて誓う。
「蒂花……、私はなにも言わずに遠くへは行かない……戦にも生きてあなたのもと必ずに帰ると約束しよう……」
「公瑾さま…」
「愛している。私の妻になってくれ」
周瑜はその夜、蒂花を抱いた。
たまらなく愛しくて、ずっと守ってやりたくて、彼女をひとりにしたくはなかった。
いや…、蒂花を誰にも渡したくはなかった。
周瑜は蒂花の父に自分の正体をあかし、彼女を娶ることを許してもらった数日後のことだった。
孫策が妻を、しかも蒂花の『姉』と名乗る女性を周瑜に紹介したのは……。
「姉? でも蒂花は昔…」
いいかけ、綾の榛色の瞳が自分をじっ…と見つめていることに気付いた。
吸いこまれそうな瞳。不思議な光が輝いていた。
「私はずっと、蒂花とともにおりましたわ…公瑾さま…」
(違う)
けれど、記憶の隅々に綾の姿がある、声も…。
「おい、公瑾どうしたんだ?」
突然、心配そうに顔を覗き込む孫策に驚いて首をふる。
「あ、…なんでもない…」
「そっか、でもこれで名実ともに俺達は義兄弟だな! 綾、蒂花、俺たちを旦那にできるなんて幸せものだぜ?」
綾は目を瞬き、彼女には似合わない「不敵」な笑みを浮かべた。
尊大で気高い…そんな笑み。
2
周瑜と別れ、孫策と綾は自室に戻った。
孫策は後ろ手で扉をしめると大きく安堵のため息をついてもたれる。
「どうやら、信じてくれたみたいだな…」
そうつぶやき、榻に座る綾をみやったが、彼女は少々不満げに細い眉をよせて言った。
「さて…どうだろうか。蒂花やお前の配下の記憶は完全に塗り替えたが…周瑜にはよくは効かなかった」
「効かない?」
今の彼女の声や仕種に穏やかさはない。
気高く神秘的な雰囲気を纏っていた。
綾は人間ではない。この土地を守る社禝だ。
——本当の名を香薔という。
華北にくらべてまだこの江東周辺は深い森に覆われて土地には神々が住み着いている。
とくに、この香薔は孫策が手中におさめている土地の社禝。
かつて袁術のもとで苦渋の生活をしいいられていたころ、孫策はひとり旅にでて、古びた廟に行き着いた。
漢族の一般的な廟とはことなったもので、好奇心に任せてはいってみると、そこに一人の少女がよこだわっていた。
それこそ香薔だった。
——本来なら社禝は人前にはあらわれない。
孫策にしか香薔の姿を見ることができなかったし、いつもそばにいてくれてたけれど、人と神、触れてはいけない壁のようなものがあった。
けれど彼女は突然、蒂花の姉ということで人前に姿をあらわした。
それは咲が周瑜を絶対に返してくれそうになく、かといって無理矢理ふたりを引き離すわけにはいかず……。
頭を悩ましている孫策を助けて香薔は美しい人の姿をまとったのだ。
金髪碧眼の少女から艶やかな黒髪を背に流す妙齢な女性に。
「香薔……」
「その名は禁句だ。術がとけてしまう。それより服を用意してくれないか? 寒い」
一糸まとわぬ美しい姿に見とれていた孫策は、慌あわてて羽織っていた袍を肩にかける。
「私はこれから『綾』と名乗る」
「綾?」
「蒂花の姉だ。私は蒂花の悲しみを癒すために人間の姿をまとうことにする」
と綾は言ったが、正直孫策は驚き、そして嬉しかった。
望みがかなったから。
香薔に触れてみたいと、ずっと思っていたから。
けれど口にだしては望んでいなかった。
「伯符?」
髪を触れられて香薔……綾はびくりと振り返る。孫策はかまわずそのまま強く抱き締めた。
心臓の鼓動が聞こえる。暖かい温もりがある。
「いや、本当に俺の妻になってくれることが嬉しくて……こうやって触れてもいいんだ」
「伯符」
綾は優しく目を細めた。
3
周瑜は綾とあったときからの違和感がまだ消化されずにいた。
記憶は曖昧なまま残り、すこし考え込むだけでも吐き気がおこり、ひどい頭痛に悩まされる。
だから、あまり考えないようにしようと思った矢先のことだった。
夢に綾が現れるようになったのは。
「なぜ、泣いているのです? どうして……」
たずねても彼女は涙するだけ。
ふるえる肩に触れようとすると、突然、姿がはじけ霧散する。
霧となった彼女に驚くと同時に深い深い森の中にいた。
そして彼女はいう。
助けて、と。
「公瑾さま、公瑾さまどうなさったの?」
蒂花に揺り起こされてやっと夢から解放されることがしばしばだった。
きまって、寝衣は汗で濡れていた。
☆
「すこし、よろしいですか?」
周瑜は庭で白い花を摘む、綾に声をかけた。
綾は少々眩しそうに目を細め、
「なんでしょう? 公瑾どの?」
柔らかな笑みを向ける。
夢で泣いていた彼女とはまるで違う。
「あの、最近悲しいこととか、辛いこととかありませんか?」
「悲しいこと? 辛い、こと?」
綾は首をかしげて、いいえ…と答える。
「そう、ですか…」
周瑜は夢のことをはなそうかどうか、躊躇していると、ス…と綾が手にしていた白い花を周瑜の髪にさした。
「な…」
その白い花…茉莉花は男に送る花だ。
しかも求愛の印。
周瑜が目を白黒して戸惑とまどうのに対して綾はわらっていう。
「勘違いしないでくださいまし。魔よけのための花ですわ」
「魔よけ?」
「いい香りがするでしょう。香りの強い花は魔よけになるのです。妹妹にきいたところ公瑾どのは夢見が悪い、とか。この花をそばにおいてお休みすることをお勧めしますわ」
「は、はい」
周瑜は茉莉花にふれ、
「魔よけ…」
と、綾の言葉を反芻した。
4
動けなかった。
手足が蔓にしばられて、力をいれて引きちぎろうとすると、なおさら強くしばられる。
周瑜は力をぬいた。これ以上あばれたら手首がちぎれてしまう。
「なぜ、私がこんな…」
いや、どうして大地にしばられている?
わからない…わからない!
☆
「公瑾が目覚めない?」
孫策はおどろいて、息も絶え絶えな蒂花をなだめながら訊く。
「もう…いくら呼んでも、目をさましてくれないのです! 息もあらくて…手首から血がながれてっ!」
そこまでいい、蒂花は泣きくずれる。
「もう、どうしたら…いいのか…!」
「おちつけ、蒂花」
孫策は安心させる様に彼女を優しく抱きしめた。
そして、
「蒂花、公瑾どのはどのような夢をみられるとおっしゃっていました?」
綾もそばにきて、やさしく訊きいた。
安心させるようなそして強い笑みを浮かべている。
「姉さんの夢をみるって、……あ、あと深い森にいるって…」
「森…?」
綾は小さく舌打ちをして、そばつかえの侍女をよんだ。
この侍女も実は人ではない。
侍女が持ってきた花を綾は受け取る。
緑が濃い葉に白い小花……トウキだ。
綾は蒂花にトウキの花をしっかりとにぎらせこういった。
「公瑾どのに戻ってもらいたいなら、一心に彼のことを思い、このトウキに祈るのですよ。そうすれば公瑾どのはあなたのもとに帰ってきます。つよく…強く念じるのですよ」
ふたりの視線が混じり、奇妙な沈黙が生れたが蒂花は深くうなずいた。
「はい!」
そして部屋を退室していく。
周瑜の帰りを祈るために。
「なにか、術をかけたのか?」
孫策はそう訊ね、綾は深くうなずいた。
「トウキは当帰。帰るべしという言霊にもなっているし、女が強く祈ればその効力は増す」
「ああ…」
孫策はきいたことのある話なのでうなずいた。
トウキは薬にもなる花だと古来よりいわれ、さらにトウキという言霊をかけて戻ってきてほしい人(恋人など)に書簡とともによく送られることが多い。
「私達もぐずぐずしていられない。はやく周瑜を助けなければ…彼の命がない」
「………公瑾の?」
孫策は目を瞬しばたたき、背筋がぞくりと震えた。
「綾! どういうことだ!」
「周瑜は森の社禝に捕らえられた。綾のように。あれは気高く真直ぐな魂を持つもの。妖が好む魂ともいえる」
「公瑾は…どうなる?」
「森にいって、助けなければ…死ぬ」
「どこの森だ!」
「綾がいなくなった森だろう」
5
朦朧とする意識を必死に握りしめることができたのは茉莉花のかすかな香りのおかげだった。
ざわざわ…ざわざわ…
いままで風に靡びく木々の音としかおもってなかったが、ちがう。
この音は…聲だ。——激はげしい憤いきどおりと慟哭の聲。
「シュウユサマ……」
突然よばれて、首を傾ける。
いつの間にか幼い娘が傍かたわらにたって周瑜を見下ろしていた。
服はぼろぼろで、薄汚れていたがもとは絹製の服だったということに気がつく。
「お前は……?」
いいかけて、眉を潜める。
「綾、どの?」
そうだ
この幼い少女は、綾どのだ。
どことなく姉妹の面影おもかげがうかがえる。
ふと思い出す。
幼い時…蒂花をおいてひとり森に消えた少女。
そのときの姿のままなのか?
いままで記憶に引っ掛かっていたものが解け、また新たな疑問がうまれる。
では、伯符のそばにいるあの女は一体、なにものなんだ?
「タスケテ……」
少女は呟く。
とたんガグンと下をむき、ゴロリと首がもげた。
「!」
周瑜は驚いて目を見開く。
草の上に落ちた綾の首はみるみるうちに腐り、豊かな髪はハラハラと散り頭骸骨だけとなる。
周瑜は悲鳴をあげた。
とても冷静でいられる事体ではない!
戦での恐怖とは違う!
「だれか!」
叫んで、ハッとする。
首のなくなった綾の胴体からだが奇妙に波打つ。
だんだん激しくなり、
——弾けた。
そしてものすごい勢いで幾数のツタが天を目指す。
周瑜は身をひねって動けないことに舌打ちし、襲い来くるツタの触手をみてギュッと目を閉じた。
その触手の先が突然口開く。
赤く熟れた口、無数の鋭い歯、糸ひく唾液。
……喰われる!
「公瑾!」
幼馴染みの声を耳にしたとき、奇妙な悲鳴があたりに響いた。
「大丈夫か!」
おそるおそる、目をあける。
そこには太刀をもった孫策の姿が目に入った。
孫策は周瑜に襲い掛かるツタを薙なぎ、青い液体が周瑜の体に飛び散る。
ツタは青い液体をまき散らしながら暴れ狂っていた。
「伯符!」
「危機一髪だな…といいたいけど…おい! こ…香薔! こいつはどうしたらいい!」
「とにかく時間を稼げ」
抑揚はないが、威厳を感じる声がそう告げた。
周瑜はふと声をおう。
そこには金髪碧眼の女がいた。
碧い瞳が周瑜の姿をとらえると、赤い唇がうっすらと笑みをつくった。
6
「あなたは……?」
周瑜のその問に香薔とよばれた胡人の女は答えなかった。
かわりに何ごとか呟くと周瑜を縛っていた腕のツタがプ…と簡単に切れる。
周瑜は皮膚の剥けた手をさすって、幽かにとどく声に耳を傾ける。
周瑜を切実に呼ぶ声、
……蒂花?
「これでお前をこの地に留めておくものはない。お前の愛しき妻の声が聞こえるだろう。その声をたどって還れ」
香薔はそういい跳躍して妖と戦う孫策のもとへ向かった。
呆然とこれはあの女のいう通りにした方がいいのかも知れないと思った矢先、指先に何かがあたった。
それは綾の小さな頭蓋骨だった。
……助けて。
そう…自分に助けをもとめていた。
助けて、と。
☆
「人に荒らされた社禝だな」
孫策の傍らにきて、香薔は嘲笑った。
「こ、これも社禝なのか! おっと!」
孫策は襲い繰る触手をかわし斬りながら訊ねた。
斬っても斬ってもきりがない。
「戦の血の匂いで、心乱され、大地に染みこんだ血を吸いその味が忘れられなくなったのだろう。血とは社禝にとって酒のようなものだからな」
香薔は抑揚なくいい、妖をみつめた。
「……哀れだな」
この妖事体は太い蔓の結集体のようなもので、ツタに似た触手で攻撃してくる。
大地に生えた胴体を斬った方が早いような気がするが、大木ほどある胴体を薙ぐ自信なんて孫策にはない。
それに植物の独特な青くさい臭いがきつい。
斬るごとにまき散らされる青い液体が、水たまりのように溜まってきている。
ふいに、
「!」
隙をつかれ触手に足をとられて、孫策は体勢をくずされた。
孫策の首を標的にして振り上げられ、空を切りしなる触手。
血が散る。
どさりと思い音をたてて大地に転がった。
だがそれはツタの方、斬ったのは周瑜。
「公瑾!」
歓喜の声をあげる孫策。周瑜は苦笑する。
「これは夢のなかの出来事ととっていいのか? 望んだものが手に入る」
手には太刀、周瑜は構えをとりながら問う。
「ああ、これは夢さ! いや…いっそう夢の方がたちがいい!」
孫策は答えて妖に立ち向かう。
孫策自身も実は生身ではない。香薔の術によって魂だけをこの森に飛ばされた存在だ。
「……単純なやつらだな」
香薔は嬉々と立ち向かう二人を見てふ、と微笑する。
「だが、これまでか……二人ともさがれ!」
孫策と周瑜はハッとして後退した刹那、香薔の手から火球が生まれ妖に向けて放たれた。
ゴウォ…と炎が逆巻き、妖は巨大な火柱とかした。
「香薔!」
「大丈夫だ。森には広がらない」
「そうじゃない! そんな術が仕えるンならなんでとっとと使わなかったんだよ」
香薔は孫策のもとに舞い降りて微笑んだ。
「夫の勇姿をみたかったのだ」
「おまえなあ…」
この社禝は時たま意地悪だ。
「ま、それもあるがやつの液体が油なようなものだ。あのままでは燃えなかったから、少々斬ってもらわなくてはいけなかった」
赤々と燃える妖をみとどける。
ながく燃え続けるとおもったが、すぐに炎は消えて、妖の姿は小さな銀色に輝く二葉と変わっていた。
7
「これは?」
周瑜と孫策は唖然と二葉をみて訊ねる。
「あの妖だ…。炎によって浄化され生まれ変わった」
香薔は二葉に手を添えていう。
そして丸い泡状のものが生まれ、二葉を包んだ。
一瞬、その二葉に少女が眠る姿が重るのをみた。
…綾だった。
夢で見る悲しい表情ではない。
心地よさそうな寝顔。
「これでもう妖になることはない……昔、ここは深い森だったのだ。だけど人間に森が切り裂かれそして戦で汚れた」
周瑜は複雑な思いに少しかられた。
今は乱世の最中だし、人間が生きるには土地を開拓していかなくてはいけない。森を切り開き人が住めるようにと。
それが悪いこととはおもわない。これらからも人間は森を切り開き土地を手にしていくだろう。
けれど、人の目には見えない…いや見えなくなってしまった神は怒りを増大させつづけ、先のような妖となるのだろうか?
周瑜はおもむろに綾の頭蓋骨をみた。
「綾どのは妖の犠牲になったのか?」
ぽつりと口をついた思いを否定するように香薔は頭をふる。
「彼女は御霊をしずめるためにうまれたものだ」
「御霊をしずめるため?」
「人間には時として贄としてうまれる者がいる。それはさまざまだ。綾のように社禝の贄としてうまれてくる者がいれば、『時の贄』としてうまれてくるものもある…そう…伯符のように…周瑜のように」
そう語る香薔の言葉は悲しみを帯びていた。
「時の…贄?」
「さあ、還れ二人とも。愛しい者のもとに」
刹那、濃い香りが二人をつつむ。
とても良い香りがする。バラの香りだ。
そうだ、この女の名はなんといったか。
……香薔……香る薔薇…。
ふ…と自分の口元が笑むのかわかった。
そして耳に愛しい女の声が強くなる。
ああ…早く起きて安心させなくては。
☆
「大喬という字はどうだ?」
孫策は目覚めざま香薔に…綾にそう訊たずねた。
綾は目をしばたたたせ、なぜ? と訊きく。
「綾は…蒂花の姉の名でお前の名でないし、お前の名で呼ぶのはだめだろう?……だから字で呼ぼうときめてたんだ」
「大喬…か」
「いやか?」
「いや…嬉しい。伯符。私を大喬とよべ」
にこりと『大喬』は微笑んだ。
「あと疑問におもったことなんだけど…公瑾はお前の正体をわかってしまったのではないだろうか?」
「ぬかりない。目覚めた時には忘れている」
☆
あの妙な事件から数日後の夜、周瑜と孫策その妻たちは四人だけの宴をはじめた。
孫策は周瑜に体調はどうだと尋ね、周瑜はなんでもない、と答え腕をみせる。
「しかし…どうしてこんな怪我をしているのかは記憶にない」
「うわ…ひどいなそれは」
見せられた手首に孫策は眉をひそめた。
手首の皮が破けて盛り上がった肉が痛々しい。
その傷が両手足にできている。
「これでは戦にでられませんわね」
蒂花…小喬がなぜか嬉しそうにそういう。周瑜は苦笑した。
そして酒をつぎ足す大喬を周瑜はみて微笑んだ。
「大喬どのは…バラのようなお方だな」
孫策と大喬は幽すかにびくりと肩を震わせた。
「なぜ?」
「どことなくバラの香りがするのだ…だから」
「性格が、というわけではないか」
孫策は意地悪いじわるく言った。
美しいバラには棘があるとでもいいたいのか。
大喬は目をしばたたかせ、少々拗ねた様子をみせた。
「では、私は花に例たとえるとどうなのです?」
小喬が無邪気にたずねてくる。
「そうだな…小喬は……」
和やかな夜は更けていく。
天には無数の星が川のように連なり輝いていた。
了