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曹昂の願い


  1


「父上っ、助けに参りました!」

「昂か!」

  曹昂は馬からおりて、曹操に乗るよう促した。

 あたりは焔に包まれ、熱気をともなって風がふきつける。

 そして後方から、馬蹄の音とともに多くの罵声や殺気が近づいてくる。

 さすがに『乱世の姦雄』とうたわれた曹操も少なからず恐怖に身体を強張らせていた。


 しゅっ……


「ぐぅっ」

 曹操の腕に矢が掠った。

 曹昂は襲いかかる矢を巧みにさけながら怒鳴るように父に言い放つ。

「父上! あなたはここで死んではいけないのです! おわかりですかっ!」

 普段はおとなしげで、決して怒ったりはしそうにない息子のその一言でようやく我にかえった。

 そして地べたに倒れる愛馬・絶影をみて曹操は一瞬悔しげな表情をうかべ馬に乗った。


「昂、おまえも……」 乗れと言いかけたが、曹昂は勢いよく馬の尻をたたいた。


 馬が前足をあげていななく。


「昂!」


 曹昂は穏やかな笑みを父にむけた。


「父上、私はかならずや父上の元に……ですから待っていてください」


 馬は土を跳ねかけ駆け出す。

 曹操は遠ざかる息子をみた。

 多くの敵兵が、息子に襲いかかる。

 曹昂は戟をふるい、果敢に次々と敵をなぎ倒す。


 しかし、多勢に無勢。


 矢がそして剣が……


 曹操は目をそらす。


 女にうつつをぬかしていたばかりに夜襲をかけられた。


 快楽に浸っていたばかりにおきた悲劇。


 曹操は自分の気持ちが不安定なのを知る。

 息子を亡くす悲しみと、いなくなってせいぜいする気持ち。


(何方が本当か?)


 曹操は想いを吐き棄てた。

 馬のたてがみを握りしめ、そして強く馬腹をける。


  ☆


 父上は無事にのかれたのか……?

 血がながれる。

 腰から、腕から、足からながれてゆく。

 それと同時に渇いた土に血を飲まれ、体温が奪われ、意識が朦朧とする。


(父上は私の帰りをまっている…帰ろう。かえ…ろう、)


 けれど身体が動かない。

 指一本も動かせない。

 もう死ぬのか。死ぬのか……



 死にたくない。



 また父上と一緒に駆けたい。

 けれどそれは叶わぬ願い。


 それなら、


 もういちど父の子として生れ変わりたい。

 今度は愛され。信頼され。


 浮屠(仏教)の輪廻を信じているといった覚えがある。


 父上はバカにして笑い飛ばしてくれた。

 けれどいまはその思いが強くなる。

 思考が薄れる中で美しい女性を目にした。

 黒髪を結い上げ美しい衣を纏い凛とした風貌に白い肌。

 赤い唇が動いた。


「……」


 何か意味する言葉を紡いでる。

 だが曹昂はその言葉を捕らえることは出来ず、意識が途切れた。


  2


 なんていったの……?

 あなたは?


 そう聞き返したかった。


 けれど肩を揺さぶられてまどろみから意識がすくいだされる。


「……舒、倉舒! どうした! しっかりしろ!」


(あ……また夢をみていたのか……)


 曹沖は額に手をそえ微笑んだ。

「大丈夫です、目が覚めました」

「なんだ、いきなりぼー、してたのでおどろいた」

 曹植はホッと胸をなぜ下ろす。


「すみません、兄上。また夢をみていました」


 机に、むかって対座していた曹植に謝る。


「白昼夢か?」

「ええ…最近、見るんです。僕じゃない夢を」

 曹沖は苦笑した。


 曹沖、字は倉舒。

 十三才の少年である。


 容貌は少女のように可憐で、とても賢く父に愛されそして人々からも愛されていた。

「自分じゃない? どういうことだ。おしえてくれ」

 曹植は興味深げに尋ねる。


 曹植の字は子建。

 父・曹操の正室のことして生まれた三男で雰囲気としては生母の面影が強く、嫡子の曹丕の方が父に似ていた。

 曹植は数いる弟の中で比較的年の近い曹沖をとくに可愛がっていた。

 曹沖はくちもとに指を添え空に瞳を彷徨わせ、


「そうですね……曹昂…子脩兄上になった夢でしょうか」


「バカ言え。おまえ子脩兄上なんてしらないだろうが」

 思いかけないことを耳にし驚き曹植は声をあらげた。

 曹沖の方も首をかしげていう。

「そうなのですよー。子脩兄上は僕が生まれるか生まれないかというときに亡くなっていて。声も何も知らないはずなのに…」

「で、どんな夢を、夢の中でどんなことをしていたのだ倉舒?」

 しかし、曹沖は首を横にふった。

「覚えていないんです。『昂』と父上が名を呼んでそこから。そのあとの夢をみているんですが……。今 覚えているのは昂と言う名を父上が悲壮に叫んでいることしか」


(さっき誰かに尋ねたような気もするけど……)

と、胸のうちで続けた。


「夢ってそんなものだからな」

 曹植はそういうと机に目を移す。

 そこには筆と木簡があった。

 曹植は筆を取り墨をつけると、木簡に一つ詩を書き上げていく。

 曹沖はまだ渇かない木簡の一つを手にとってみる。

 韵が踏めていて、なかなかに良い詩だ。

 でも、この詩って……。


「子脩兄上のことですか」


「そう。父をかばって死んだ子脩兄上への詩だ。子脩兄上はよく俺と遊んでくれたのだ。それがお亡くなりになったときは悲しくて『なんで、兄上がしんだんだ、どうして父上がいきてるんだ!』って……父上に言った覚えがある。子桓兄上にとめられたが」

 しみじみいう兄を曹沖はうらやましく思った。


 逢ってみたい。そう思う


(……夢で兄上になるのではなく)


 ふいに曹植はポンと手を叩いた。

 そして曹沖を見つめ、


「もしかしたら倉舒は兄上の生まれかわりかもしれないな。兄上は西からつたわった浮屠の輪廻に興味をもっておられた。お前がうまれたときと子脩兄上が亡くなられた年がだいたい同じなのだから……」


 真剣にそういうので曹沖は吹き出した。


「あははっ、兄上僕は僕ですよ、子脩兄上ではないよ」

 曹植はキョトンして苦笑いをした。


「そうだったな。お前は父上と同じで生まれかわりなんて信じないやつだったな。じゃあ、お前と子脩兄上は別人だ。子脩兄上は少なくとも輪廻を信じていた」


  3


 曹操は江南制覇をめざし今はこの都にはいなかった。


 江東の支配者、孫権は曹操の手紙を破棄し徹底的に交戦することを決めたからだ。

 曹操は陸戦は得意だが、江東は長江という要害があり、そう易々と攻略できない。


 そのため人工池を作った。玄武湖という。


 そこで水練をおこなった。

 しかしあまり役にたちそうになく、やはり劉表の水軍をつかうことになるかもしれない。

 けれど、その水軍は一度も孫権の東呉水軍を破ったことはない。

 曹沖は嫌な予感を覚えた。

 だから曹操が江南に出陣する前に進言した。

 曹操は椅子に腰をかけ、目の横に指を添えて肘をつき、じっと息子の話に耳を傾けている。


「父上、江東出陣は止めた方がいいと思います。北方の兵は水に慣れていないし父上

 自身、水上戦にはなれていないでしょう? もしものことがあったら……」


 曹操は苦笑して、


「そちは、子脩と同じようなことをいう」


 え……?


 ふいに曹操はすこし、ほんの少しだが、悲しい顔を見せた。


「子脩もそう……わしの心配をしていた。しかしわしはそれが耳障りだった。いちいち行動を縛る者だとおもって毛嫌いしたこともあったが、それはわしのためだと思い知った。あの日に」


 そこまで言うと、強い笑みを見せた。

「大丈夫だ。かならず勝ってみせる」


   4


 数カ月が経ち冬になった。


 江東に比べてここ北方にある洛陽はとても寒い。


 しんしんと雪が降っていて灰色の雲が果てしなく空を覆っている。

 曹沖は寝台の上に書物を広げていたがいきなり襲ってきた咳を手のひらできつくおさえた。


 なるべく人に気づかれまいとすればするほどとても苦しいが、我慢できないほどではない。一時のことだ。

 苦しさがさり、曹沖は唇を拭った。


「冬をこせればいいな……」


 けれど無理なような気がした。

 皆は大変心配し、祈祷師や名医をたくさんつけてくれるが……身体のことは自分がよくしっている。


 もう長くないこと。死が近づいていることは。


そして死の影とともにあの夢を頻繁にみるようになっていた。


「子脩兄上の夢……か」


 何を意味するのだろう?


 ううん……違う。

 それは僕の願望の現れだ。


 ……僕と彼とは似つかない。


 相手は戦前で指揮をとることができて嬉々として剣を手に敵を倒し、父をかばって死んだ。


 今の自分は剣を振るうことも持ち上げることもできない。


 できること、無事を祈ること。


 父上の無事を。

 ああ……

 父上の右腕になりたい。

 上の二人の兄はすでにその位置にある。

 僕もそれをのぞんでいる。


 父上の右腕になることを。


 父上のために命果てた子脩兄上は幸せだった。絶対に。


 少なくとも父上の心に生きているのだから。

 僕もつねにそうなりたいと思ってる。


 しかしこも身体は病にむしばれてゆく。

 無理なのかもしれない。


「はぁ……」


 その思いを振払いたくて、溜め息をはいて寝台にもぐった。


 父上は、今頃どうしているのだろう……。



  5



 躍る焔をみた。


 目に焼き付くほど赤い焔。


 船が炎上し、人々が炎に巻かれてゆく。


 炎は天に届くほど燃え上がり、江は赤く映り、血と死体とを照らす。


 遠く目を馳せる。


 数人の部下を引き連れて逃れていく父上を見つけた。


 後方には疲れきっている曹軍。


 しかし炎の手は風に乗って勢いを増す。


 紅い手からの逃れきれずに……



   ☆



「父上!」


 曹沖は汗を全身でかいていた。

 そして震えていた。


(あれは夢……?)


 ちがう! 夢じゃないっ、本当に父上が!


「誰か、父上をっ! 父上を助けて!」


 寝台から離れようとした刹那、ガクン、と膝が折れ、たてなかった。

 這うこともできない。

 病に虫ばわれた身体はいうことをきいてくれない。

「だれ、か、だれかっ……来て……」

 ちょうどその時、様子をうかがいに来た曹植が来てくれた。

「倉舒!」

 曹植は床に倒れている弟を慌てて抱き支える。

「倉舒、凄い熱ではないか!」

「兄上……父上がっ、」

「なにいってるんだ。すぐに医師をつれてくるから……」

 曹植は青ざめて部屋を出ていこうとするが曹沖の細い指が衣を掴む。

「父上が危ない!」

 子建兄上にいっても意味がない。

 こんな身体なんて、いらない!

 父上の危機すら救えない!

 せめて魂だけでも魂だけでも父上の元にむかえればっ!


 突然、


 目の前が暗転した。

 意識が遠くなる。

 目の前が帳に包まれ落ちる感覚。

 手に力が抜け、曹植の声が遠くに聴こえた。


 それと同時に、


 身体がふと軽くなる。

 下をみたら自分をささえる人や曹植の姿があった。


 どういう……いや……


(望み通りになった)

 早く、

 早く! 父上を助けなくては!


  6


 もはやこれまでか

 曹操はそう観念して舌打ちをした。


 あたりはぐれんの炎が天に向って踊り東南の風が熱を共にして吹きつける。


「炎が迫るっ、前進するのだ! そうすれば生き残れるっ、味方の屍を超えてでも生き延びろ!」


 観念はしている、敗北感がある。ここで死んでもおかしくはないと思うのに言葉は反対のことをくちにしている。


 曹操は口元に不敵な笑みをうかべた。


 周瑜めやってくれるわ。


 この曹操を追い詰めるとは。


 不意に、


(倉舒の言う通りにしとけば……)


 そうおもって苦笑する。

 何も息子だけが反対をしたわけではない家臣の数人は反対していたではないか。


 前方を見る。


 闇を裂く赤い松明のひかりがみえた。


 敵軍が先回りしていた。もう逃げ場はない。


「どうするか」


 はたからみれば、冷然とつぶやいてなにか考えがあるようにも見えるが、実は覚悟をきめていた。


 その時だった。


 ……父上……


 ふとなつかしい声が自分を呼んだ。

 曹操は目を空に彷徨わせ、みつけた。

 死んだはずの曹昂がいるのだ。


 薄く、透き通って。


 最後に見たあの時のすがたで。


(これは炎が見せる幻影か)


「昂……いや?」


 いや、ちがう。もう1人重なって見える。


(……倉舒か?)


 不思議な光景に曹操は唖然としながらも、息子がすっと指さしている方向を見た。


「あそこへいけというのか……」


 頷くのを見ると曹操はにやりと笑い、皆に前進と命令を下した。


   7


 きづいたら、寝台の上に寝かされていた。


「倉舒、気がついたか…」


 曹植はほっとして溜め息をはいた。

 目に涙をうかべて。


「よかったこのまま目が覚めないのかと気が気でならなかった……」

「父上は、もうすぐで帰ってくる」

 曹沖は自身に満ちた声でそういった。

「え、ああ、書簡が来た。戦には大敗したが、無事に逃れたようだ。もうすぐ帰ってくる」

 曹植はとまどい、慌てて肯定した。

 曹沖は微笑んだ。


「よかった………でも僕は父上にあえないかもしれないなあ」


 力なく呟き笑う。

 諦めきった声音だった。

 曹植は胸が詰まり非想な顔をする。


「そんなことはない、倉舒!」


 前々から身体の弱かった弟は急に倒れ、意識をなくして……今目覚めたと言うのに。

 曹植は曹沖の手をぎゅっと握った。

「死ぬな。父上は絶対にそういう。お前、いつも言っていたじゃないか。僕の役目は早く身体をなおすことだって」

 ことさら手を強く握る。

 曹沖は目を瞬かせ、儚げに微笑む。


「そうだね、でもね。僕……とてもまんぞくしてるんだよ。なんだって、父上を……」


 そこまでいって頭をふった。


「ううん。なんでもない。ぼく、眠くなっちゃった……寝てもいい?」


 呟くより早く曹沖の意識は眠っていたのかも知れない。


  ☆


 曹昂様。迎えに参りました。


 あの美しい女神が手を差し伸べてくる。


 女神、というのがこの女人にはにつかわしい。


 けれど、この『女神』が何者かわからない。

 ただ願いを叶えてくれた。


 転生をさせてくれた……。


 けれど、もう転生を望めない。


 普通、人間の転生は活きてきた時の記憶を消すために膨大な時間と年月がかかるのだが、早く転生したいと曹昂は願い転生の輪廻を放棄したのだ。


 けれど。


 すまない。もう一度。

 もう一度魄に戻してくれないだろうか……。

 まだ約束を果たしていない。一日…いや半時でいい。


 父上に、会いたい。

 いいだろう?


 もう、魂はあなたのものなのだから。


 女神はしかたなさそうにため息をついた。

 ほんの少しだけ。

 優艶な声でいい、女神は美しい笑みをみせた。


  10


 室に入った瞬間、薬湯の匂いがつき眉をしかめ。曹操は死んだように眠る息子のそばにかけより、息をしているか、たしかめた。


「息が弱い」


 死ぬのか……?

 また、わしの身代わりに……。


「やはり……あれはお前だったのか……」


 それは口の中で呟き、そばにいる曹植には聞かれなかった。


 曹植は目に涙をうかべて抑揚のない声で告げた。


「一度だけ目を覚まして……それ以来……」

「そうか……」

 また約束を破るのだな、昂。


(戻ると言う約束を)


 そのとき。


「父上……」


 曹沖のまぶたが微かに動き、口許をニコリとほほえんだ。


「倉舒!」

 曹操は曹沖を抱き起こす。

「僕、もどってきましたよ……約束守りましたよ」

「この、馬鹿者めが!……戻ってくるなら、戻らぬか、わしはずっと待っておったのだぞ!」

「父上……」

 なにか、曹沖は言葉を紡ごうとした、けれどそれは咳とかわり、なかなか言葉がでない。

「倉舒!」


 死が迫ってくる。


 遠くて、近くで、女神が微笑んでいるのが曹沖にはみえた。


「父上。永遠の別れです、短い、あいだ…だったけど…幸せだった……」


 曹沖は最期にニコリと微笑むと、目をとじ、力をなくして腕を落とした。


 その瞬間、胸に悲しさ、虚しさ、愛しさが溢れた。


 そして涙になって溢れこぼれる。


「倉舒、倉舒! 死ぬのは許さぬぞ! この父を先において逝くなどっ、倉舒!」


 亡骸となった曹沖を曹操はかき抱いた。


 雪はしんしんと降り積る。


 焔を鎮め、

 血を隠し、

 悲しみをいやし。

 そこには何もなかったように。

 静かに、すべてを覆い隠し……


 ただ、あるのは、想いだけ。






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