九月から続いていく恋 (最終話)
俺は、トレイを持ったまま、携帯を……
何度も見て、分かりきっている予定を確認した。
九月◎日 「質問会」
そう、明日だ。
明日、小楠さんに会える。
俺は会計をしながら、
しっかり教えられるように今日は早めに寝よう、
フライドポテトはLサイズを二つ買おう、
と、必死になって、自分を現実に引き戻していた。
次の日の午後、俺たちはマックで質問会をしていた。
夏の全国模試の成績は、振るわなかったようだ。
今日は、その模試の復習が中心だ。
質問会が終わると、
「一年前の早瀬君は、Y大もO大もA判だったのに、
一年経っても、私みたいな馬鹿は……」
と一瞬、宙を見つめて唇を噛んだ小楠さんだったが、
すぐに賑やかに笑った。
「早瀬君は縁起がいいねぇ!」
俺は、次の質問会では、太田数学のIAをもうひと回ししてもらおうかなどと考えながら、
ペンをリュックに片づけて、
待ちに待ったポテトやチキンナゲットに手を伸ばす。
が、小楠さんは、模試の問題用紙を広げたまま止まっている。
(落ち込んでいるのか?)
俺が小楠さんをチラリと見ると、小楠さんは少し俺を見て、
また問題用紙に目を落とす。
俺もつられて目を落として……心臓がドキリと跳ね上がった。
問題用紙の下で、小楠さんが、
俺の方に指を伸ばしているのだ。
耳で鐘がガンガン鳴り、
口にはこらえ切れない笑みが浮かぶ。
俺は明後日の方を見やりながら、
ソロソロと右手を、問題用紙の下にある小楠さんの指に伸ばす。
忍び歩きのような俺の指が小楠さんの指に触れる。
問題用紙がカサカサと手に当たる中で、
俺は彼女の指を握る。
小楠さんは耳まで赤くして、問題用紙に目を落とす。
俺の心臓は、もうはち切れそうだ。
急に階段を上ってきた高校生らしき学生の集団にギクリとしたように、
小楠さんは振り返る。
――戸塚さんの弟なども予備校に通っているから、気にしているのだろう。
俺は別のプリントも載せて、さらに俺たちの手を隠すようにした。
チラリと小楠さんを見て、指に力を込める。
小楠さんはまたうつむくと、
――その親指で、俺の指をそっと撫でる。
俺は、夢の海に浮かんでいるようだ。
今、俺は、小楠さんの指の感覚だけで生きている。
問題用紙に目を落としたまま、指の感覚に溺れる俺の口に何かが当たる。
「カリッとしたの見つけた――」
小楠さんが、俺の口に、小さくてカリッとした、
当たりのフライドポテトを差し出しているのだ。
俺はもう、喋ることを完全に忘れて、
差し出された小さいポテトを口に入れる。
小さいポテトを口に入れる瞬間、
小楠さんの指先が俺の唇に触れて、
また心臓が跳ね上がる。
小楠さんを見ると、気づかなかったような表情で、
またポテトをとろうとしている。
俺は急いで、繋いでいない方の手を、フライドポテトの箱に伸ばす。
適当に引っ張り出したら、やたらと長いフライドポテトだ。
が、俺は全く躊躇することなく、
長いポテトの先を小楠さんの口に差し出した。
小楠さんは嬉しいのか困っているのか、
笑いをかみ殺した表情で、
素朴な目をパチパチさせながら、
小さく唇を開けて、少しずつフライドポテトを口に入れ始める。
俺は、完全に言葉を忘れて、
短くなっていくフライドポテトを見ている。
長いポテトの途中の、少し細くなっている部分で、
ポロリとフライドポテトが途切れ、小楠さんの口から離れた。
小楠さんは、「しまった」と気まずそうな表情で俺を見る。
俺は迷いなく、そのポテトを自分の口に放り込んだ。
小楠さんが食べていた、そのフライドポテトを。
小楠さんは驚いて、指の力まで抜けたようだったが、
俺は問題用紙の下の指を離さない。
――小楠さんとは、会えるのは一か月に一度くらい。
付き合ってねェし――
彼女じゃねェし――
彼氏じゃねェし――
でも、
――その小楠さんが、紙に隠して伸ばしてくれた指
――俺の口に差し出してくれた、当たりのポテト
こんなの――
期待して、嬉しがらずにいられねェだろ。
俺は、小楠さんの手を握ったまま、
片手と口で、ハンバーガーの包みを開く。
しかし、その瞬間、
問題用紙がハラリと床に舞い落ちた。
小楠さんは慌てふためいて手を引っこ抜いて、
急いで自分も、ハンバーガーの包みを開く。
「やっぱりこの時期は、月見バーガーだよね。」
モソモソと包みを開けながら、喋り始める小楠さん。
「おー……」
俺は自分の月見バーガーに大口でかぶりつく。
「今日はこの後、帰るの?バイト?」
小楠さんは、落としたままだった問題用紙を拾い上げながら、愛想よく聞いてくれる。
「今日はバイト――小楠さんに教えたし、早寝しなくていいから。」
「エェ?昨日、早寝してくれたの?」
小楠さんがクシャクシャッと笑う。
「ちゃんと教えらんねェと悪いし……」
「エェ!そんなに!?
早瀬様に供物をたくさん捧げないと……
奢ってもらっちゃったけど……」
小楠さんはいよいよ笑い、俺も吹き出す。
「今度、バナナクレープを供物として買ってきます、早瀬様。
コンビニのだけど……」
「いや、要らねェし。気を遣われるとかえって困るし……
無駄にバイト代貯まってるし……」
きれいに月見バーガーを食べることに苦戦しながら、
「そうかなぁ」と困惑する小楠さんに、俺は言った。
「じゃあ、そのフライドポテトで。」
「え?……あ、今、買って来ればいい?」
「いや、そこにあるフライドポテト。」
「いやいや!」
小楠さんは冗談だと思ったのか、クシャクシャッと笑う。
「これは奢ってもらったものだよ!もう、早瀬君は……」
「俺に食わせて。さっきみたいに。」
小楠さんが一瞬固まる。
が、すぐに笑って言う。
「そんなんじゃ、供物には……」
「俺に食わせてくれるっていう、その行為が供物ってこと。」
小楠さんはうつむいて、フライドポテトに手を伸ばす。
「いいけど……私なんかで……
いいのかな……」
受け入れられ、
求められると、
怖気づく。
だから、あのとき、俺は言ったんだ。
「俺のことで傷つかないでいい」って。
俺は黙って待つ。
トレイに置かれた月見バーガーが冷めて、その包みが妙に湿っている。
ふいに、パッと小楠さんが、俺の口にフライドポテトを差し出した。
三本まとめて。
「どうぞ、合格早瀬様、今年は豊作でした!
たくさんおあがりくださいませ!」
おどけたひょうきんな笑いは、
あのとき俺たちが掴もうとした熱を、静かに覚ましていく。
小楠さんは、指が当たる前に、フライドポテトから手を離す。
成績に落ち込んで、
思わず縋ろうとして、
立ち止まり、
また闇の縁へ、
一人で歩いていく。
俺は、
小楠さんの隣に、
触れ合うほど近くに
いるつもりなのに、
――やはり、俺では、
駄目なのか?
「早瀬君……先生。」
目を上げると、小楠さんが手帳を取り出して、俺を見ている。
「次の質問会の日程だけど、十一月の第一週はどう?」
「十一月?」
急に季節が飛んだ気がして面食らう。
「うん、ほら、これから二次試験の過去問を回していくって、
早瀬君言ってたでしょ。」
小楠さんが、手帳をペンで指して話し出す。
「……そしたら、大体、十一月の第一週とか第二週の頭くらいが良さそうだよね?」
「おー……確かに。」
俺が頷くと、小楠さんが急に胸を張る。
「じゃあ、そのときまで、私、マック行かない。」
「なんで?」
「それを励みに頑張りたいんだ!
頑張って、質問会して、当たりのフライドポテトを食べるぞって!」
「俺に会えるとかじゃねェの?」
二人で吹き出してしまう。
「早瀬先生がいないと、この計画は成り立たないから、
励みっていうか、もう根幹!土壌!ね!」
俺は、その小楠さんの言葉を聞きながら、
何かがこみ上げてくるのを感じた。
そろそろ出る時間だ。
俺は、氷水になったジュースをストローで吸い上げてから言った。
「すげェ、いいと思う。この計画。
――俺が言うから、間違いねェって。」
「ワァ!早瀬君が言うなら、ご神託だ!」
小楠さんは、一度両手をピンと伸ばし、
嬉しそうに、手帳を片付ける。
(ピッ)
俺の頭に、会計レジの音が鳴る。
――そうだ。
小楠さんは、
触れ合うほど近くに俺がいることを感じて、
俺を支えにして、試合のリングに上がろうとしている。
触れ合うほどそばにいると思っているのは、
俺の独りよがりじゃないんだ。
(ピッ)
今、俺がそばにいる意味は、
欲求でも欲望でもなくて……
小楠さんに、前を向く勇気を与えること。
それなら、
俺は、ただ――そばにいるよ。
(ピッ)
俺が小楠さんを好きっていうことを、
天にも、
小楠さんにも、
見せてやる。
――レジの音はもう聞こえない。
小楠さんと俺が、
試験までに会えるのは、
もう、数えるほどもないだろう。
でも、小楠さん。
大丈夫。
――俺はいつも、
――触れ合うほどそばにいるから。
***
リュックを肩に、立ち上がる俺を見て、
慌ててかばんを持つ小楠さん。
俺は少し周りを見回した。
「あ、ごめん……」
そう言いながら、小楠さんがトレイを持って席を立とうとする。
次の瞬間、
――俺は身をかがめて、
小楠さんの唇に、
掠めるような、
キスをした。
――
―
***
二月の終わり、
俺は、大学の北門の脇に立っている。
腕時計を見る――試験の終了時刻だ。
じりじりと構内からざわめきが漏れてくる。
圧迫から解放された受験生たちのため息のようだ。
一人、二人と学生が出てくるようになると、
俺は北門から構内を伸びあがるようにして見渡す。
段々と黒いアリの集団のように人が増えてきて、
俺は外に追いやられる。
なかなか出てこない。
一度、連絡した方がいいのか?
いや、連絡をくれているのかも。
俺は慌てて携帯をポケットから取り出した。
そのとき、
「早瀬君。」
――青ざめた、笑顔の小楠さんが、
俺を見上げていた。
「おー……
――お疲れ様。」
俺はそれ以上言えずに、ゆっくりと歩き出す。
小楠さんはつかず離れずの距離でついてくる。
俺は、受験生があまり通らないような裏道を縫うように、
少し離れた地下鉄の入り口を目指す。
しばらく歩くと、案の定、段々人の波を抜け出せたようだ。
俺たちはようやく、少し近寄って歩く。
「どんな……感じ?」
尋ねる俺を振り仰ぐ小楠さん。
「終わった……って感じ。いろんな意味で!」
小楠さんはクシャクシャッと笑いながら続ける。
「出来たかどうかは、全然分からない。
でも、やるだけやって、終わったって感じ。」
俺は何も言えずに小楠さんを見た。
今はもう、慰めも励ましも、何の意味もないことを、俺も知っている。
地下鉄の階段を降りながら、俺は思い切って小楠さんに声を掛けた。
「この後さァ、ちょっと食わねェ?
――クレープ専門みたいなとこ……」
「え!そんなお店あるの?行きたい!」
小楠さんはちゃんと乗ってくれる。
「そこで、答えを聞くし。」
俺は最後の二段を飛んで降りて、小楠さんを振り返った。
青白かった小楠さんの顔が、みるみる染まっていく。
と、
ヴ―ッ ヴ―ッ
小楠さんの鞄から、携帯のバイブが聞こえてくる。
小楠さんは慌てて携帯をとり、
「お母さんだ。」と言いながら、通話を始めた。
「あ、うん、終わった。何とか……うん……」
俺は、二、三歩離れて待つ。
「え?あー……
ちょっと、友達と食べて帰るから。」
――友達?
――俺の心臓は完全に石になった。
「うん……うん……じゃあね。」
通話を切った小楠さんは、俺を見る。
俺は立ち尽くしたまま、低い声で尋ねた。
「――それが、答え?」
「え?」
「『友達』っていうのが、小楠さんの答え?」
地下鉄の長い通路では、先の方まで、妙に白い蛍光灯が点々と光っている。
小楠さんは目を逸らす。
「今、ここで答える感じ?」
思いがけない敗北の予感に、俺の心臓が冷たくなっていく。
「――今聞きたい。聞かねェと、俺……」
「勘違いさせてごめん……」
ちょっと慌てる小楠さんの言葉に、目の前がグラグラと……
「お付き合い、させてください。」
……俺の視界が急にはっきりする。
「――マジで?」
小楠さんは、しっかりと頷いた。
そして、思い詰めたような顔で……
「私も、早瀬君に伝えたいことがあるんだ。」
三月のあの日、街灯の下で浪人の決意表明をしたときのような顔で、話し出す。
「私……今回、Y大落ちたら、私大のTに行こうと思ってるんだ。
もう、二浪はしない。」
俺は小楠さんを見た。
小楠さんの目と俺の目が、カチリと合う。
地下鉄の風が、通路を吹き抜ける。
「私は、早瀬君のことが、大好きです。」
……
「もし、T大に行って、大学が別々になっても、
私とお付き合いしてください。」
……
俺は目を見開いた。
耳を疑った。
しかし、小楠さんが唇を噛んで、
土気色で俺を見ていることに気付いた瞬間、
俺の口は大きな声を上げていた。
「絶対、付き合う。
大学とか関係ねェ。
俺こそ――大学が違っても、絶対、付き合って欲しい。」
俺の声が、地下鉄の円筒のような通路に響き、
通行人がチラリと振り返る。
俺は構わず小楠さんに思い切り近寄ると、手を取った。
「付き合おうな――俺たち。」
小楠さんは、小さな手で、思い切りキュッと握り返してくれる。
「ア――――!やった……やった……!」
俺は、小さくガッツポーズをして、そのまま握った手を引っ張る。
「クレープ食いに行こう!」
「バナナクレープ?」
「それは必須――マスカットクレープもあるらしいぜ。」
「それも食べたい!」
コンビニのクレープを買った暑い日や雨の日の思い出が通り過ぎる――
「マックも……」
小楠さんが、繋いだ手に力を込める。
「また今度行こうね。」
小楠さんに差し出したフライドポテト、
告白した踏切、
冷えたハンバーガー、
氷水になったジュース、
泣いた椅子、
抱き締めた神社、
問題用紙の下で繋いだ手、
掠めるようなキス――
地下鉄の通路に、一枚一枚貼りつけられ、
目の中を通り過ぎていく。
俺は、指と指を絡め合うように、手を繋ぎ直した。
「今度じゃなくて――
今日行こうぜ。クレープ屋の後。」
「お腹に入るかなぁ?」
クシャクシャッと笑う小楠さん。
本当に、可愛い。
「いっぱい食おうぜ。
試験終わったんだし――」
「早瀬君も、今日、受験したみたいな感じだね!」
「いや、合格発表でしょ。
ずっと受験してて、今日、ようやく合格した感じだし。」
真剣に言った俺を見て、小楠さんはバツが悪そうな顔をする。
「ごめんね……待たせちゃって。
――『早瀬君の恋』の、合格発表。」
俺は吹き出した。
「ほんとそれ。
今日は『早瀬君の恋』の、合格発表だ。」
俺の笑顔を見上げた小楠さんの、小さな声がする。
「『小楠さんの恋』の合格発表も……あったでしょ?
『大好きです』って……」
「大好き……大……」
俺は絡めた指に、また力を込める。
――俺も、とつぶやいたが彼女に聞こえただろうか。
***
顔を上げると、改札の案内板の向こうにも、
通路の白い蛍光灯と広告が点々と先の方まで続いている。
区切りが来て、またその先。
区切りが来て、またその先。
俺の恋は、形を変えて、
これからも続いていく。
現代恋愛『硬派な早瀬くんの不器用な恋の一年』最終話です。
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