7時14分22秒
初投稿です。泥舟に乗ったつもりで読んでください。
「——全38,241冊、画像データ化およびOCRスキャン完了しました」
深夜2時。国立高等物理・人類学研究所の解析室。
何百台もの冷却ファンが重低音を響かせる中、巨大なメインモニターに『100%』のプログレスバーが表示された。
室内を満たしていた緊張感が、少しだけ弛緩する。
解析プロジェクトの主任研究員である有馬は、冷めたコーヒーを口に含み、目の下にクマを作った若手研究員たちを見渡した。
「よくやってくれた。だが、ここからが本番だ」
防護ガラスの向こう側には、特殊なケースに保管された膨大なノートの山が見える。それらは数万年という『時間』を経たはずなのに、経年劣化や黄ばみすら一切なく、まるで今さっき文房具店から買ってきたかのように新品同様の光沢を放っている。
「これより、被検体『S』……佐藤一樹に関する遺留文書の解読を開始する」
有馬の言葉とともに、モニターに1冊目のノート——『ノート 1』の表紙が拡大表示された。
あの日——今から半年前の『とある現象』を、覚えている国民は多いはずだ。
10月12日、午前7時14分22秒。
東新宿にある雑居ビルの最上階、とあるIT企業のオフィスでそれは起きた。
防犯カメラの映像には、締め切りに追われて早く出勤をし、オフィスで死んだような顔をして働いていた社畜の男、佐藤一樹(28歳)が映っていた。
そして次の瞬間、彼は忽然と消えた。
直後、彼の座っていたデスクを中心に、爆発的な質量が溢れ出した。
オフィスを覆い尽くすほどの勢いで突如出現したのは、きっちりと封がされ、整然と積み上げられた膨大な『段ボール箱の山』だった。オフィスの床がその重量にタイルを軋ませる。
そして、彼のデスクの近くには彼が着ていたはずのスーツがあり、その上に一握りの『灰色の粉』だけがポツリと残されていた。
さらに人々を恐怖に陥れたのは、同刻に世界中で起きた連鎖現象だった。
「日本全国及び世界中の文房具店・書店・倉庫から、新品のノートと筆記用具が一瞬にして消滅した」
警察やニュース番組は連日「大規模な盗難事件か」「新手のテロか」と報じた。
だが、僕たち科学者チームが検証した結果弾き出した結論は、警察の想定を遥かに超えるものだった。
あのコンマ一秒の間に、佐藤一樹は消えたのではない。
時間が静止した世界で、世界中のノートとペンを集め、数万年分の時をたった一人で生き抜き、そして戻ってきたのだ。
あの大量のノートは、彼が『生きた証』として世界から奪い、書き埋め、持ち帰ってきたものだった。
「……1冊目、表示します」
解析班がキーボードを叩く。
モニターに、青いボールペンで書かれた最初のページが映し出された。
ノート1 — 1ページ目
10月1日(木)。今月から下半期が始まった。残業続きで胃が痛い。会社とアパートを往復するだけの毎日に何の意味があるんだろう。コンビニの弁当を食べて、寝て、また起きる。明日が来なければいいのにと、毎晩ベッドの中で本気で願ってしまう。
ノート1 — 10ページ目
10月10日(土)。休日なのに仕事の電話で起こされた。課長から「火曜朝一番の会議資料を今から作れ」と怒鳴られる。もっと前もって伝えてくれよ。来週が来るのが怖い。日曜の夜なんて来なければいい。時間が全部止まってしまえばいいのに。
ノート1 — 12ページ目
10月12日(月)。胃が痛い。明日締め切りの資料、まだ半分しかできてない。課長に怒鳴られる顔が目に浮かぶ。飛び降りたら楽になれるかな。いつもホームに電車が入ってくる音を聞くたび、足が前に出そうになる。会社なんて爆発すればいい。
「……ごく普通の、追い詰められた社畜の手記ですね」
隣で見ていた若手研究員がぽつりと呟く。
彼はどこにでもいる死にたがりの男だった。
だが、数ページ進むと、その日常は突如として崩壊する。
ノート1 — 13ページ目
10月13日(火)のはず。おかしい。会社に早く出勤して仕事をしていたら、急にパソコンがキーボードの入力を受け付けなくなった。仕方がないため電源を落とそうとしたが、これも全く受け付けない。
ひと息つこうと思い、コーヒーを飲むため給湯室に行き、蛇口をひねったが水が出ない。いや、出ないんじゃない。蛇口から垂れ落ちる一滴の水が、空気中で固まっているんだ。
慌てて外を見ると、路上でハトが宙に浮いたまま停止し、交差点の車も人もピタリと止まっていた。
恐怖でパニックになり、逃げるようにアパートへ帰ってきたが、部屋の壁にかかっている時計も07時14分22秒のまま動かない。マジで時間が止まってるのか?
ノート1 — 16ページ目
10月14日(水)(多分)上司の家に行った。奴はトーストを口にくわえたまま、椅子の上で固まっていた。顔におでんのカラシを塗り込んでやった。我ながら何をしているんだろうと思ったが、妙な高揚感包まれた。また会社に行った。僕をいじめていた先輩のデスクに、給湯室の茶葉を全部ぶちまけてやった。ざまあみろ。
ノート3 — 88ページ目
最高だ。電話も鳴らない。メールも来ない。締め切りもない。ここは僕だけのパラダイスだ。鬱なんて、ただの『忙しさの病気』だったんだな。働かなくていいなら、人間なんていくらでも幸せになれる。さて、明日は何をしようか。
解析室のスピーカーから、テキスト読み上げAIの平坦な音声が流れる。
研究員たちの間に、かすかな失笑が漏れた。
男は最初は楽しんでいた。凍りついたコンビニから好きな弁当を盗んで食べ、書店で長年続きが読めていなかった漫画を持ち出し、高級ホテルのスイートルームのベッドで泥のように眠る。
だが、その『天国』は、100冊目のノートを迎える前に崩壊し始める。
ノート82 — 15ページ目
静かすぎる。最初は解放感だと思っていた音のなさが、最近は耳の奥でキーンと鳴り響いている。風が吹かない。葉っぱが揺れない。鳥が鳴かない。空の雲も、太陽の位置も、午前7時の角度から一ミリも動かない。夜が来ない。ずっと薄明るい朝のままだ。自分の心臓の音だけがうるさくて眠れない。
男は孤独を紛らわせるための『暇つぶし』を始めた。
日本中の本屋や図書館から興味が無い本すらも集めて読み漁り、あらゆる知識を頭に叩き込んだり、ジムで続かない筋トレをしたりした。
それでも時間が余ると、彼は自転車に乗り、静止した道路を走り出した。
ノート412 — 3ページ目
海が、巨大な青いガラスになっている。波頭が砕けた瞬間のカタチのまま、硬直している。恐る恐る足を乗せてみたら、沈まない。ガラス板の上を歩いているみたいだ。……海外へ行こう。ここに居たら、僕は『暇』に押し潰されて頭がおかしくなりそうだ。
男は固まった海を、自転車を漕ぎ、荷台に世界地図や様々な観光雑誌、ノートとペンを積み、渡り始めた。
ノート859 — 42ページ目
エベレストに来た。山頂の風すら止まっている。舞い散る雪の結晶が、空気中に一粒一粒、完璧な氷の宝石みたいに浮かんで停止している。素手で触ると痛いくらい冷たいが、風がないから凍え死ぬことはない。世界で一番高い場所から見下ろしても、下界には誰も動く者がいない。
ノート1242 — 12ページ目
マリアナ海溝の真上にいる。固まった漆黒の海をどこまでも歩いて渡った。足の下には数千メートルの氷のような海水が落ち込んでいる。水深数千メートルの深い深い海底には、光の届かない闇の中で、口を開けたまま止まっている巨大な深海魚たちがいるのだろうか。地球の底の静寂と、今の僕の周囲の静寂、どちらが深いのだろう。
ノート2651 — 3ページ目
南極大陸。太陽が斜め低い角度で固定され、氷原の上にどこまでも長い影を作っている。影の形すら絶対に変わらない。ペンギンたちが一斉に海へ飛び込んだ姿勢のまま、水面で氷漬けの標本みたいになっている。僕はペンギンたちの頭を撫でながら、そこでどれくらい過ごしただろうと思った。
ノート4004 — 43ページ目
かつて夜だった場所を求めて移動したが、地球の半分は永遠の昼で、もう半分は永遠の夜だった。夜のエリアの太平洋の真ん中で、横になって空を見上げている。街の明かりが一切ないから、天の川が信じられないくらい鮮明だ。でも、流れ星が途中で止まっている。光の尾を引いたまま、夜空に突き刺さっている。月の位置も、何十年何百年何千年経っても一ミリも動かない。
この頃のノート(『ノート 1,000〜5,000』)は、世界中の地理、気候、歴史に対する膨大な考察と美しいスケッチで埋め尽くされていた。
「……信じられない」
地理学と美術史を専門とする研究員が、拡大表示されたモニターを食い入るように見つめながら吐息を漏らした。
画面に映し出されているのは、凍りついた波の断面図、エベレストの山頂に静止した雪結晶の微細な構造や、無人の静寂に包まれたパリの街並み、そして暗闇の太平洋に突き刺さる流れ星と天の川の正確な描写だった。
写真など存在しない世界で、膨大な時間と圧倒的な孤独のなかで磨き抜かれた男のデッサンは、恐ろしいほどの精密さと神聖な美しさを纏っていた。
「写真以上だ……。彼が見た『静止した世界の美』が、紙の上に完全に定着している。孤独を紛らわせるためだけに描いたにしては、あまりにも狂おしく、完成されすぎている」
まだこの頃の研究チームには、未曾有の発見に対する純粋な感動と賛嘆が満ちていた。
一人のしがない会社員が、時が止まった地球を旅し、孤独の中で世界の美しさを克明に記録した芸術家へと変貌していく姿に、誰もが心を奪われていたのだ。
それが、やがて訪れる底なしの惨劇の前触れであることにも気づかずに。
ノート6283 — 27ページ目
世界を三周した。どこへ行っても、同じだ。動かない人々。変わらない空の色。国境なんてどこにもなかった。世界中どこに行っても、ただの巨大な無人の墓場だ。僕がどれだけ叫んでも、誰も振り向かない。誰か……誰でもいいから、僕を罵倒してくれ。あの上司の怒鳴り声が聞きたい。満員電車の蒸し暑い臭いが恋しい。生きている人間に、会いたい。
3万8千冊を超えるノートの高解像度スキャン、OCR処理、そして専門家による目視確認。解析プロジェクトが発足してから、すでに六ヶ月の月日が流れていた。
最初は「時が止まった世界の記録」という未曾有の発見に興奮していた研究チームだったが、月日が経つにつれて地下解析室の空気は重く不穏なものへと変わっていった。
次にモニターに映し出されたのは、『ノート 8,502』のページだった。
そこには、もはや整った文章は存在しなかった。
ノート8502 — 1ページ目
あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははしにたいははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは はははははは
(以下ノート8502の最終ページまで続く)
ノート9999 — 14ページ目
僕は「ひ」しか書けなくなった。ページの全てに「ひ」を書いた。ひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひい
ひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいひい
(以下ノート10011の26ページまで続く)
「……先生、私がこのノートのスキャンをしていたとき、このノートからガソリンの匂いがしたんです…」
「恐らく……自殺を試みたのだな。この世界に耐えかねた男は、ビルから飛び降り、自身に火をつけた。だが、世界の時間が止まっているせいで、彼の肉体は強烈な激痛を味わったのみ。死ぬことすら許されなかった。」
そして、男は『狂気』の深淵へと足を踏み入れていく。
ノート13201 — 1ページ目
きょうは、かずき(ぼくのなまえ)とあそんだ。かずきは、すごくおもしろいやつだ。
ノート13296 — 2ページ目
かずきが、おまえはだれだときいてきた。だからぼくは、かずきだといった。でもかずきは、わらった。
ノート13505 — 50ページ目
かずきがしんだ。ぼくがころした。かずきはぼくで、ぼくはかずきだったから、かずきのくびをしめた。そしたら、かずきはうごかなくなった。せいしんのなかのもうひとりのぼくをころした。でも、にくたいのぼくはいきている。じゃあ、ぼくはだれなんだろう。
「………解読を中断してください」
女性の研究員が言うと同時に、隣の若手研究員が画面を見たまま白目を剥き、胃液を吐き散らして床に倒れ込んだ。
画面には、自傷行為によって叩きつけられた赤褐色の血の痕跡と、見ているだけで呪いにでもかけられそうな恐ろしい絵、引きちぎられたページが映し出されていた。
数ヶ月間溜め込まれてきたストレスと、目の前のグロテスクな狂気。解析室はもはや研究の場ではなく、精神汚染の感染現場と化していた。
「ダメだ……進めるんだ……」
有馬の声はかすれていた。彼自身もまた、激しい頭痛と吐き気に苛まれていた。限界まで切り詰めた睡眠で目の下には色濃いクマが刻まれ、指先はガタガタと震えている。
「有馬主任! 呼吸困難を起こしている者もいるんです!」
必死に訴えかける女性研究員の腕を、有馬は冷たく振り払った。
「画面から目を逸らすな……! 彼の数万年を、俺たちの都合で途切れさせるわけにはいかない……!」
そう口では言いながらも、有馬の瞳に宿っていたのは使命感などではない。
この狂気に毒され続けた結果辿り着いた、一人の人間が壊れていく過程を最後まで見届けたいという、狂気じみた純粋な知的好奇心だった。
「見ろ……変わるぞ……」
有馬が血走った目でエンターキーを押し込むと、モニターの画像は、血と自傷の痕跡から、不気味なほど冷徹に敷き詰められた『計算式』の山へと切り替わっていく。
ノート18180 — 1ページ目
1.1.2.3.5.8.13.21.34.55.89
(ノート20351の最終ページまでフィボナッチ数列、素数の列、円周率と幾何学的な図形で埋め尽くされている)
ノート20352— 1ページ目
L'homme est un roseau pensant.
To be, or not to be, that is the question.
In principio erat Verbum.
(ノート25651の最終ページまで世界中の言語の聖書や古典文学のフレーズが、一切の誤字なく写されている)
ノート25652 — 1ページ目
太陽の位置。仰角42度、方位角135度。変化なし。
太陽の位置。仰角42度、方位角135度。変化なし。
太陽の位置。仰角42度、方位角135度。変化なし。
(同じ太陽の位置の記録が整然と並んでいる)
ノート31000 — 1ページ目
今日は笑った。
ノート31000 — 2ページ目
今日は笑った。
ノート31000 — 3ページ目
今日は笑った。
(毎ページにわたり、「今日は笑った」とだけ書かれたノート群)
発狂し、自傷し、架空の自分を作り出し、極限の規則性に逃げ込み、自分の名前すら忘れ、数万年かけて狂い尽くした男。
その果てに、彼の精神は何かを超越したのか、奇跡的な静寂を取り戻していた。
「……先生、『ノート 38001』から、手記が完全に元に戻っています」
狂気の全容に打ちのめされていた僕たちの前に、新しい画像が提示された。
狂気の痕跡が消え去り、そこにポツンと、鉛筆の薄い文字で静かな文章が書かれていた。
ノート38001 — 1ページ目
長い夢を見ていた気がする。自分が誰かも、なぜここにいるのかも分からなくなっていた。でも、手についた傷痕すら一つ残らず消え去っているのを見て、思い出した。僕は、佐藤一樹だ。日本の、東京の、しがないオフィスで働いていた、ただの人間だ。戻ろう。
男は、歩き始めた。
固まった海を渡り、再び日本へ、あの東新宿の雑居ビルへと向かって。
ノート38002 — 12ページ目
歩いて日本へ向かっている。途中で通りかかった無人の街で、新しい服に着替えた。靴も履き替えた。久しぶりに鏡を見たけれど、自分の顔がひどく老けているような、あるいはまったく変わっていないような、妙な感覚だった。
男がかつて絶望し、そして時が止まったあのオフィスの、自分のデスクに戻ってきた。
彼は残されたノートを開き、ただ淡々と、日々の思考や目の前の風景を書き続ける『日課』に戻った。
ノート38112 — 1ページ目
ようやく東京に戻ってきた。とは言っても、世界中のあらゆる場所をまた巡った後に、だ。今は自分のデスクの前に座っている。キーボードの上に積もった埃もない。あんなに憎かったこの場所が、今は少しだけ懐かしく感じる。
いつ時が動き出すのか。明日なのか、一万年後なのか、それとも永遠に来ないのか。
男には何も分からない。ただ、生きている証明としてペンを握り続けるしかなかった。
ノート38240 — 58ページ目
この大量のノートをどこに仕舞おうか悩む。もし時がまた動き始めたときに、誰かの迷惑になってはいけないな。どこか遠くの倉庫まで持って行こうか。しかし、かと言って誰にも発見されないまま放置されるのもダメだ。
ノート38240 — 60ページ目
このノートももう最終ページか。早いな。そういえば、日本へ戻る途中、ドイツの文房具屋から持ってきた新しいペンは書き味が良くて気に入っている。世界が動かなくても、僕が文字を書き続けている間だけは、僕の中でだけ時間が流れている気がする。
ノート38241 — 3ページ目
今日もビルから外を眺めた。交差点で固まったままのトラックと、横断歩道を渡りかけている女子高生。この景色を見るのも、もう何万回目になっただろう。明日は久しぶりに、新宿の街を散歩してみようか。ノートの残りが少なくなってきたから、またどこかで探してこないと
文章は、そこで唐突に途切れていた。
『と』の文字の最後が、紙の右下に向かってスーッと長く、かすれた線を描いて伸びている。
「……これで、終わりました」
若い研究員が、声を震わせる。
佐藤一樹は、『その瞬間』が来ることを知らなかったのだ。
数万年間、一度たりとも動かなかった世界の針が、いつものように彼がノートへペンを走らせていた、そのコンマ一秒に突然動き出したのだ。
男がまた『明日』の準備をしようとしたまさにその瞬間、止まっていた数万年分の老化と崩壊が一気に彼の肉体を襲った。
叫ぶ暇も、死を実感する暇もなく、彼はペンを握ったまま、一瞬にして一握りの粉へと変わった。
ペンの跡が伸びた紙面は、男が崩れ落ちた際の風圧と衝撃で、かすかにインクが擦れていた。
画面が暗転し、全データの解析が完了した。
解析室の中は、死んだように静まり返っていた。
誰一人として言葉を発することができない。ただ、目の前の防護ガラスの向こうにある『数万冊のノート』と、その隣に残された『一握りの灰色の粉』を見つめることしかできなかった。
書きかけたまま残された、最後のページ。
それは彼が最後の瞬間まで、『明日』を信じて生きようとしていた、何よりの証拠だった。
「……有馬、主任……」
がたがたと震える声に振り返ると、そこにいたのは重度のトラウマに顔を歪めた研究員たちだった。
一人は壁際にへたり込んだまま虚空を凝視してブツブツと呟き続け、もう一人は鼻血を垂らしたまま、怯えた目でモニターを見つめている。彼らの心には、一生消えない深傷が刻まれたのだ。
だが、有馬の心を満たしていたのは悲壮感でも同情でもなく、底知れない達成感と、ぞっとするほどの興奮だった。
有馬はラックに整然と収められたハイエンド・ワークステーションのコンソールに向かい、卓上のスタンドマイクを引き寄せると、専用解析ソフトの音声ログ記録ボタンをクリックした。水冷ユニットの静かな吸気音とともに、高精細モニター上でリアルタイムの音声波形が緑色に揺れ始める。
「記録を開始する。被検体『佐藤一樹』の遺留文書に関する最終解析ログ。——これは、世界の停止という絶望の中で、いつ訪れるかもわからない『明日』を信じてペンを握り続けた、一人の男の物語である。」
俺の吹き込む音声がそのままリアルタイムでテキスト化され、解析データと共に暗号化されてサーバーへ保存されていく。
夜が明け、遮光ガラスの向こうから街の喧騒が狂ったように流れ込んできた。
車の疾走音、通行人の話し声、信号機の規則的な電子音。
佐藤一樹が数万年の孤独の中で渇望し、そして一瞬で彼を灰に変えた「動く世界」が今、有馬たちの目の前で何事もなかったかのように動き続けていた。
一樹の灰の大部分はちゃんと遺族の元へ届きました。
もし楽しんで頂けたのなら幸いです。もしつまらなかったのならごめんなさい。普通?………その方がつまらないより傷つくかも。




