はじまりの風
ープロローグ
これは、いつの頃のことだっただろうか。
遠い昔、風神は人々に崇められていた。
風神は世界を巡る風を司り、その流れを整え、豊かな実りと穏やかな季節をもたらしていた。
人々は感謝し、祈りを捧げ、風神を敬った。
しかし、それは本当に信仰だったのだろうか。
風神は神殿の奥深く、人々の手の届く場所に留め置かれていた。
誰も疑わなかった。
神はそこにいるものだと。
人々のために風を巡らせるものだと。
だが風神は知っていた。
風とは本来、自由なものだ。
空を渡り、海を越え、山々を駆け抜ける。
どれほど美しい鳥籠であっても、そこに閉じ込められた風は風ではない。
ある日、風神は全ての力を解き放った。
逃げるために。
自由になるために。
その瞬間だった。
世界が軋んだ。
空間そのものが押し潰されるような感覚と共に、膨大な風が一点へと圧縮された。
風神を囲んでいた神殿も。
その周囲に広がっていた街も。
人々の暮らしも。
記録も。
歴史も。
存在した証さえも。
まるで最初から何もなかったかのように、跡形もなく消え去った。
そして圧縮された風は解き放たれた。
膨大な風は世界中へ広がり、空を巡り、海を渡り、山を越えた。
やがて風神自身もまた、その風と一つになった。
名前も。
姿も。
記憶も。
境界さえ失いながら。
ただ風として、世界を巡り続けた。
その場所には何も残らなかった。
ただ一つを除いて。
風神が消えた中心に、小さな芽があった。
それはやがて根を張り、枝を伸ばし、長い長い時をかけて大樹となった。
世界樹。
誰に知られることもなく。
誰に語られることもなく。
ただ静かにそこに在り続けた。
風は何度も世界を巡った。
幾千、幾万という季節を越えながら。
そして巡り続けた風は、最後には必ず世界樹へと帰ってきた。
まるで故郷へ帰るように。
何年が過ぎただろうか。
かつて小さな芽だった世界樹が、空を覆うほどの大樹となった頃。
世界を巡っていた風が世界樹を通り抜けた。
その時だった。
風は形を得た。
小さな身体を。
白い髪を。
淡い緑の瞳を。
そして一人の少女となった。
少女は何も覚えていなかった。
風神だった記憶も。
世界を巡った記憶も。
消え去った国の記憶も。
何一つ持ってはいなかった。
ただ世界樹の根元で目を開けた。
まるで最初からそこにいたかのように。
世界樹だけが知っていた。
それがかつて風神だった風の成れの果てであることを。
そして願っていた。
今度こそ。
誰にも囚われず。
風のように自由に生きられますようにと。




