第2話「開戦前夜」
翌日
凛世がサイン会開催を決意した翌朝、早速平和な日常の空気が破られた。
天野 護が、朝一番で買い込んだスポーツ新聞と週刊誌を手に、凛世のマンションへ駆け込む。
相変わらずクセの強いチャイムを鳴らす彼の琥珀色の瞳は、疲労と怒りでギラついていた。
「先生、最悪です!! 昨日の今日でもう仕掛けて来ました!仕事の速さだけは見習いたいッ!!!」
天野が突きつけた週刊誌のゴシップ欄には、凛世の写真と共に、目を引く見出しが踊っていた。
【独占】清純派作家・神楽凛世の裏の顔!深夜の飲酒運転疑惑!【スクープ】
『実は裏カジノ常連? 天才作家の知られざる退廃的な日常』
「内容はいずれも『飲酒運転』と『違法賭博』…なんて稚拙な。しかし、これが現代のマスメディア、姑息な情報戦です、手を引いたのは神崎嬢で間違いないでしょう。 彼女は『退屈な平和』の裏側を煽ることで、先生の『普通の生活』の信頼性や基盤を根底から破壊しようとしている…!」
天野は激昂し、手に持った週刊誌を破りそうになる。
凛世は記事を一瞥しただけで、何の感情も浮かべなかった。
彼女の感情のメーターは±5℃を厳守している。
しかし、彼女のデスクの上のガラスペンは、記事の見出しが書かれた紙に向けて、僅かな紫の熱を発していた。
「…情報には、私の『呪いの残滓』が付着しやすい。鏡花は、それを利用して広い範囲の大衆に悪意を与えている。 …相変わらず頭がキレるわね、あの人。」
凛世が静かに分析を続ける。
「…彼女は、私が怒るか、動揺するのを待っている。 僅かでも揺らぎを見せたら、次の一手を打ってくるでしょうね。」
「マンション内では絶ッッッ対怒らないでくださいね。あと動揺もしないでください。 」
天野は祈るように言った。
「…しかし、この情報が拡散すれば三日後のサイン会は危ぶまれます。 間違いなく残滓の熱に充てられた世論は先生を『嘘つき』と糾弾してくるでしょう…」
天野は知っている。
鏡花の次の手は、世論の力で凛世を「社会的な死」に追いやることだ。
「どのみち、精神的に削ってくるつもりならこちらも相応の準備をしましょうか。 ちょうど「薬」もなくなって来たし、相談も兼ねて詩織のところに行きましょう。」
凛世は珈琲を飲み干し、カップを静かに置く。
「予約は出来ています、何時でもどうぞ。」
間髪入れず、護も応える。
先読みにも近いこの二人のコミュニケーション能力は魔法少女時代から足掛け15年、二人の関係性はもはや熟年夫婦のそれを醸している。
「ありがとう、運転よろしく。」
「お任せください。」
ジャケットを翻し、二人は部屋を後にした。
向かう先は都内でも屈指の総合病院─────その診療内科だ。
……
…
凛世は天野と共に、天宮 詩織(元マギア・フローラ)が勤める病院の裏口に車を滑り込ませた。
詩織の所属する診療内科は、病院内の喧騒から切り離された別棟にあった。
患者を装って診察室に入った凛世を、詩織は白衣姿で迎え入れた。
「いらっしゃい、凛世。こんな形で会うのは久しぶりね。」
詩織の柔らかな声色と笑顔には、戦場を経験した者だけが持つ、深い諦観と優しさが滲んでいた。
魔法少女時代の彼女は、チームの支援担当だ。
いつ、どんな時も仲間の様子に気を配り、戦闘で傷付いた仲間や民間人にも隔てなく接していた。
戦闘では目立った活躍こそないものの、彼女の柔和な性格と救護に於ける民間貢献度の高さゆえに、魔法少女現役時代、とあるサイト上の天宮詩織の人気は断トツの1位だった。
凛世は席に座るなり、直截に本題に入る。
「…最近、呪いから来る痛みが増してきた。 貴女も気付いてるかもしれないけど…魔王の遺した"遺志"が活発になってきているの…」
詩織は、凛世の顔色と、天野が持参した夜光草の鉢植えの光の不規則な点滅を静かに確認した。
「…かなり追い詰められてるようね。 確かに魔王に似た何かの雰囲気は感じていたけど、それだけでここまで酷くなるかしら…? とにかく今は応急処置からね。」
詩織は引き出しから、緑色の小さな苔を取り出した。
昨日天野が懐から出した苔の塊と同じものだ。
キラキラと舞う光の粒子が、凛世から滲み出ていた危うい空気を吸う。
それに合わせて、苔の塊が呼吸するように膨らみ、萎む。
「…………ふう…………」
「これは私が育てた『鎮静の苔』 知っての通り、ある程度の魔力のノイズを吸収するわ。ガラスペンやキーボード、なるべく貴女の周囲に置いて。応急処置にしかならないけれど、気休めにはなるわ。」
詩織は苔玉を凛世に渡し、対面に座る。
「───────…気休め、ね。」
諦観を孕んだ冷たい声で、凛世は応える。
「残念だけど、貴女のそれを根本的に解決する手段はないの… 残滓が活性化すると発生する身体の痛みも、現代の医療体系では原因がわからない。 今の私に出来るのは「気休め」と「痛みを和らげる」ことくらい。」
詩織はポケットから薬包紙に包んだ錠剤の束を凛世に渡す。
…魔王が遺した呪いは、活性化すると形容し難い激痛を産む。
頭に五寸釘をあてて野球バットのフルスイングで打ち込んだような、無事な歯の神経を全部根刮ぎ抜くような、カッターの刃で埋め尽くされたプールを裸で泳ぐような、そういった痛みだ。
現代の医療では当然これを取り除く事は出来ない。
幸い、詩織が調合した鎮痛剤を飲むと多少なりとも痛みは和らぐ。
「けど…この鎮痛剤も正直おすすめ出来ないわ。 微量とはいえ魔力をこめた薬だから、貴女の願いである「普通の生活」からは逸脱してしまう… 他に何か解決策があればとは思うのだけど…」
薬包を渡し、凛世の手を握る。
「──────────…今回の件、恐らく元魔法少女管理機構の…鏡花ちゃんが裏で動いてる。 詩織にも何か仕掛けてくるかもしれないから…注意して。」
張り詰めた凛世の声に、詩織も応える。
「…やっぱり鏡花さんが… 貴女の呪いが活性化するのは、あなたが過去の自分と現在の自分を、あまりにも厳しく切り離しすぎているからよ。鏡花さんはそれをよく知っている。だからこそ、彼女の攻撃を真正面から受けたら苦しいかもしれないけど、『怒り』を『理性』で抑え込めるよう、出来る限り努めて…」
「怒りは私の昔からの弱点だからね… 管理者だった鏡花がそこに目をつけるのは当然よね。」
「そうね。でも、抑圧された感情はいつか必ず破綻するわ。 人間だもの、我慢の限界はいつか来る。けどもし暴発しそうになったら、私を思い出して。マギア・フローラは、あなたの『光』の暴走を止める力はなかったけれど、あなたの『心』を守ることは得意だったでしょう?」
詩織の視線は、凛世の深く憂いを帯びた瞳をまっすぐ見つめた。
その穏やかな眼差しこそが、かつて幾多の戦場で魔法少女たちの精神を支えた、最高の治癒役の名残だった。
「…私たち、誰も、あなたが孤立した最強の英雄に戻ることを望んでいない。ただ、当たり前に生きてさえいてくれればそれでいいのよ、凛世。」
凛世は、詩織の言葉に何も答えず、ただ薬を深く握りしめた。
彼女にとって、この「人間的な共感」こそが、時に呪いの残滓よりも恐ろしい、感情のトリガーとなり得ることを知っていたからだ。
詩織の優しさが、ボロボロの心に深く深く滲みる。
普通の人間なら、堪え切れず泣いてしまうほどの深い慈愛。
だが凛世は泣けない。
感情の起伏による呪いの暴走という致命的な呪いが宿る彼女は──────────…
人並みに泣くことも…
笑うことも赦されない──────────…
……
…
自衛隊 どこかの演習場
鬱蒼と茂る森の中、早乙女 葵は微動だにせずスコープを覗き込んでいた。
H&K G28 DMR は優れた分隊狙撃銃だ、ここ最近納入した半自動狙撃銃の中で一番肌に合う。
今日は隊の連中と「かくれんぼ」の訓練中だ。
カモフラージュして潜伏した私の狙撃を掻い潜りながら目的地に辿り着けるかどうか、といった趣の訓練だ。
部隊の連中には「私を見つけたら発砲してもよし」と伝えている、被弾の判定はレーザーで行うから怪我の心配は無い。
「(────…居た。 B小隊はまだまだ周辺警戒が甘いな、A小隊は良い線行ってるが、もう少しって所か。)」
葵は静かに安全装置を外し、ゆっくりと引金を絞る。
目標まで約500m、必中コース。
バザバサ バザバサ バザバサ
バザバサ バザバサ バザバサ
「────は?」
まさにあと少しで撃発、というタイミングで事件は起きた。
鳥、しかも鳩だ、鳩が、大量に頭上に現れた。
偶然、どこかの群れがここに現れたにしては数が多すぎる。
明らかに何らかの意志を持ってコイツらはここに飛んできたのだ。
「(なんだアレは…!?)」
「(鳩だ…!大量の鳩だ…!!)」
「(あの下にいるの早乙女教官じゃないか…?)」
「(馬鹿な… あの早乙女教官がこんな形で位置バレするハズがない…)」
「(罠…か…!?)」
スコープの先で部下達が慌ただしく動いている。
実戦で想定されるあらゆるトラブルに対応出来るように育ててきたつもりだったが、大量の鳩に対するマニュアルは…教えている訳もなく…
おまけにこの鳩… 魔力を孕んでいる。
つまりこの鳩は────…
「…天野の使いか。 訓練中に何の用だ?」
押し殺すような声で問うと、予想通り、鳩が喋った。
『緊急事態です、魔王の遺志を継ぐ何者かが現れました。 元魔法少女管理機構もすでに動いていて世論を操作しようとしています…凛世の為にも、力を貸していただけませんか?』
「────…断る。 今の私は自衛隊だ、私の力は今、国民の為にある。 凛世個人の問題に関わる理由はない。」
『凛世の呪いが暴走すれば国民にも被害が及びますよ!?』
「知るか。 たかが三流週刊誌の書いた根も葉もない噂話に振り回されるような奴に、私が力を貸すとでも?」
『裏で手を回してるのは元魔法少女管理機構の神崎さんです! あなたも彼女の厄介さはご存知でしょう!?』
「だからどうした。 裏でコソコソ情報操作しか出来ない臆病者を、私が始末すれば解決するのか?もちろんそれで済むなら実に簡単な任務だが、答えはNoだ。」
『く…っ 確かに貴女は自衛官として真っ当だ…! 専守防衛の確固たる理念の下、自らが先に撃つ事はない…!けど……!』
「…悪いが問答は終わりだ。 私はもう魔法少女じゃないし、あいつが背負った呪いと業に関わるつもりは毛頭ない。 …自分でなんとかしろよ元最強、とでも伝えておけ。」
『────…ッ』
葵との会話は平行線だった、護の話は一切受け入れられず、彼女が持つ矜持の前に阻まれる。
明確な拒絶があった以上、これ以上何を言っても無駄だと護は判断した。
早乙女葵、元魔法少女の火力担当
ありとあらゆる「炎」は彼女の下僕、どんな敵も圧倒的な火力で焼き払う、戦場の紅蓮華。
「敵を倒す」ただその一心で燃える彼女の戦いは、数多の人の心を奮い立たせた。
…が、今の彼女の心に、かつてのような激しい炎は灯っていない。
────────ドンッ!!
再び呼吸を整えた葵は、静かに引金を引いた。
銃声に驚いた鳩達はバタバタと羽撃きながら、空に消える。
『────…それでも、信じてますから!』
捨て台詞よろしく、元契約妖精の訴えかけるような声が耳にこびり付いて離れない。
「────…くそ…ッ」
八つ当たりよろしく、葵は2発目を部下の太腿に狙いを定め、引金を引いた。
……
…
診療内科でのひと時を経て、場面は夜。
凛世と天野はマンションに帰宅した。
夜食の買い出しを済まし、天野がエプロンを腰に巻く。
契約妖精だった時は肩乗りサイズだった彼も、人型になると身長180cm近くなる。
本人曰く「可愛さ」とのギャップを意識したとの事だが元魔法少女達からは大変不評だった(まぁもう見慣れたものだが…)
「今日は一日疲れましたね〜… という訳で!今晩のメニューは護特製の和風おろしハンバーグです!腕によりをかけて作りますよぉおッッ!!」
ドドドドッ
買い物用のマイバッグから大量の食材を取り出す護。
凛世は凛世で放置するとサプリメントに頼りがちゆえ、定期的に手の込んだ料理を作ってくれる。
「ありがとう。 …ところで、葵からの返事はどうだった?」
「────残念ながら、協力は出来ない…と。 彼女の立場を考えればやむを得ません、彼女の矜恃を曲げさせてまで、強要出来ませんから。」
「でしょうね。」と小さく凛世が呟く。
自衛隊の専守防衛の理念がある以上、葵は動かない。
この展開はなんとなく予想出来ていた、葵が私の為に力を貸してくれる訳が無いと最初からわかっていた事だ。
この時点で外部からの"力の介入"は期待出来ない。
元魔法少女のもう一人に相談するという手もあるが… 彼女に協力を仰ぐのは抵抗がある。
「(私がやるしかない…か…)」
詩織からもらった鎮静の苔を手のひらで転がしながら凛世は深く息を吸う。
その瞳には静かな覚悟が滲んでいた。
スッパァンッパァンッスパパパパァンッ!
パァンッパァンッスパパパァンッ!
「見てください先生!この!ハンバーグの種の空気を!叩いて抜く!この工程が!!型崩れを!!防ぐのです!!!」
ひよこが大量にプリントされたエプロンを翻しながら目にも止まらぬ速さでハンバーグの種から空気を抜く護。
(凛世を元気付けるために)執筆室に勢いそのまま突入したが、そこに彼女の姿はなく────…
"少し夜の散歩に出ます、1時間くらいで戻ります"
ただそれだけ書かれた付箋がデスクに貼られ、ベランダの窓から吹き込む涼し気な風が、全てを物語っていた。
「────────…ちょ…ッ!!!!?」
元最強の魔法少女 神楽凛世
出陣である。
続く




