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第1話「神楽 凛世」

2030年 日本 東京


元魔法少女 神楽 凛世は、感情の振れ幅を±5℃以内に収めるように生きていた。


ここは都会のタワーマンションの最上階。

防音とセキュリティに守られたその一室で、彼女は「人気作家」という仮面を被り、原稿に向かう。


珈琲が美味だと喜ぶこともない。

締め切りが迫っても焦らない。

それは、彼女が至った冷静沈着なプロの境地故のモノではない。


カチャカチャ カチャカチャ


凛世の感情(こころ)は±5℃のレンジを超えて動くと、指先に熱が帯びる。

かつて数多の魔族を貫いた光の魔力が、今や体内で腐敗した"呪い"となり、彼女の肉体を蝕んでいるからである。


凛世は、知っている。


この残滓(のろい)が暴走すれば、彼女が命懸けで守り抜いた「普通の日常」は、一瞬で瓦解する。


カチャカチャ カチャカチャ


よく見るとキーボードのよく使うキーだけが、かすかに熱で溶け、歪んでいる。


「…今日こそは、ただの人間でいられますように。」


彼女はキーボードに触れるたび、誰にも聞こえない声でそう祈る。

そして、自分が書いた英雄譚が、現実の扉を叩く音を聞き逃さないように、神経を研ぎ澄ませていた。


完璧に防音が整えられた執筆室は、凍えるように静かだった。

凛世は目の前のパソコン画面ではなく、デスクに置かれたガラスペンの筆先をじっと見つめている。


これは単なる文具ではない。

微かな紫の光を宿す筆先に、彼女の身体から漏れ出した"呪いの残滓"が凝縮されている。


凛世の呼吸は浅く、静かだ。

珈琲カップから立ち上る湯気一つさえ、この場の空気を破ってはならない規則(ルール)のように思える。


"感情の振れ幅は±5℃以内"


これを保つことが、彼女に課せられた「平凡な人間」として生きる為の唯一の使命だ。


キーボードの前に座る凛世の指が、ゆっくりと動き始める。

「――"そして、マギア・ルクスは知っていた。その勝利が、彼女の物語の終わりではなく、呪いの始まりであることを"」


カチャカチャ


一行が書き込まれるたび、キーボードの特定のキーが、微かに熱を帯びる。


「…今日こそは、ただの人間でいられますように。」


祈りのような言葉は誰にも届かず、ただガラスペンが低い、耳障りな唸り声を立てるだけだった。


一時間……

二時間…


空気が張り詰める程の、緊張。

凛世の浅い呼吸音とキーボードの音、書き出される文字だけが今この世界における、唯一の光だった。


キ──────(長押し)───────ン…

コンッ…


その静寂を破ったのは恐ろしくクセの強いチャイムの鳴らし方とインターフォンの画面から響く、マネージャー兼担当編集、天野護あまの まもるの疲弊しきった声だった。


「先生ぇ〜〜… 護です〜〜… 今からご報告に上がってもよろしいでしょうか〜? ちなみに、今日の予定は『新しいキーボードの納品』と『印税の処理』『緊急相談』です。」


「……」


凛世は無言でロックを解除した。

カチャリ、と重い錠が外れる音が室内に響く。


入室した天野はまず部屋の温度計をちらりと見て、安堵の息を漏らす。


規定通りぴったり25℃

異常なし。


次にデスクのキーボードを見る。

そこには、一部のキーが魔力の熱でわずかに溶けて変形したキーボードがあった。


安堵の表情から一変、みるみるうちに天野の表情が深い深い絶望に染まっていく。


「先生、この天野護、一生のお願いですから… 執筆中に光槍(ルクスハスタム)を練るのはやめていただけませんか。これが今月で五台目です、いいですか? 今月"だけで"ですよ。メーカーからは『用途不明の熱暴走』として、逆に問い合わせが来ています、どうするんですかコレ。」


天野は手に持ったピカピカの新しいキーボードを差し出すが、その顔は元契約妖精とは思えないほど人間的な苦労と疲労に満ちている。


「アレは私の光槍じゃない。呪いの残滓よ。」

凛世が答える。


「えぇ、呪いの残滓。わかっています、わかっていますとも。でもその呪いの残滓がキーボードを溶かすんですよぉ〜… このままでは、先生は『キーボードクラッシャー』として週刊誌に載ってしまいます。そして、その印税の相談ですが――」


天野は頭を抱え、目の前に座す元最強の魔法少女が、今や「キーボードの維持費」で世界(メーカー)を悩ませているという悲哀的な現実に、深くため息をついた。


「この光栄ある印税を…システムの保守に使わねばならないとは。まったく、世界を破滅から救った英雄の引退後の生活とは、かくも不毛なものなのですね…」


天野は嘆息し、変形したキーボードを片付けながら、ようやく本題に入った。

彼は一瞬、プロの顔に戻る。


「…さて、本題です。先生の次回のサイン会について、メディア絡みの不穏な情報があります。」


「…またマスコミ?飽きないわね、あの人達も。」


凛世は静かに珈琲を一口飲む。カップ内の温度はまだ±5℃以内だ。

(正直この温度の±はあまり関係ない、凛世の気分である)


「マスメディアではありません。SNSです。最近、先生の小説の熱狂的なファンを自称するアカウント――『Eris(エリス)』と名乗るアカウントが急増しています。彼らの発言が、ど〜〜にも過激なんです。」


天野は自身のスマートフォンを取り出し、凛世に画面を向ける。

そこには、凛世の代表作『マギア・ルクス戦記』の表紙画像と共に、非常に熱のこもった長文が羅列されていた。


『マギア・ルクスは逃げたのではない。彼女は平和という嘘に閉じ込められている。我々が彼女に戦いの光景を再び見せなければならない。』


『彼女のペンは嘘偽を書いている。真の英雄は、この退屈な世界を破壊するべきだ!』


『偽りの平和に、偽りの物語に終止符を。』


凛世の眉が、わずかに、本当にわずかに動いた。


「…ただの過激なファンではない、と?」


「はい、先生。彼らの発言の熱量は「異常」です。まるで集団催眠にかかったように、同じキーワードを繰り返している。そして、最も問題なのは――」


天野は声を潜め、部屋の隅に置かれた夜光草に目を向けた。

微かに発光していた夜光草の光が、チカチカと不規則な点滅を始めている。


「その『Eris(エリス)』と名乗る輩が、三日後のサイン会に、一般の参加者としてすでに当選していることです。 リストにアカウントと紐付いた人物がいるのを確認しています。」


「ふぅん…」


天野は、目の前の凛世が『ただの人間』の仮面を剥がれ、『最強の魔法少女』へと戻ってしまうのではないかという、深い恐怖を感じていた。


力の暴走、許容値(キャパシティー)を超えた呪いの残滓は平和を取り戻したこの世界に何を齎すかわからない。


凛世の指先に、再び微細な熱が帯び始めるのを見て、彼は慌てて、胸元に忍ばせた鎮静作用のある苔の塊を取り出した。


「先生、落ち着いてください。この『エリス』は、ただの熱狂的なファンのひとりです。私たちは、あくまで一人の作家とマネージャーとして、冷静に対処すれば――」


凛世は静かに立ち上がり、窓の外、東京の夜景を見つめた。

その瞳に、一瞬だけ過去の戦場のような冷たい光が宿る。


「──護さん。その熱狂は、人間(ひと)のものではないわ。」


凛世の言葉と共に、デスクの上のガラスペンが、誰にも聞こえない、高い悲鳴のような音を立てた。

彼女の「普通の日常」は、今、エリスという名の最初の敵に、その入り口を叩かれたのだった。


「───やはり、お気付きでしたか。」


天野は、一歩も引かず、冷静なマネージャーとしての提案を口にした。


「確かにあの投稿から微かに感じた魔力の波長は、過去に確認された魔王の残滓のパターンに酷似しています。ですが…魔王の意志を継ぐ者がなぜSNSを通じて接触を図るのか。なぜ、作家のサイン会などという平凡な舞台を選ぶのか… 魔族(やつら)の手口にしては、些か回りくどい感じもします。」


「そうね…」


天野は端末を操作し、サイン会の会場図を表示させる。


「───まずは戦略を。私たちが取るべき最善の策は二つです。一つはサイン会の中止。安全を確保し、事態の収束を待つ。もう一つは――」


天野は一瞬言葉を切り、凛世の顔を見上げた。

彼女の瞳は、かつて契約者と交わした『世界を守る』という約束を思い出しているように見えた。


「――予定通り開催する。そして、エリスという名の残滓が何を求めているのかを、先生ご自身が作家として、そして英雄として、真正面から見極めることです。」


「……中止する意味はない、決行します。」


凛世は即座に言葉返す。

彼女の目線は、すでに窓の外、この街のどこかにいるはずの"エリス"に向けられている。


「サイン会を中止すれば彼女達は私の『普通の生活』が弱点であると確信するだけ。 このまま気付いてないフリをしながら適切に対応しましょう。」


凛世はデスクに戻り、溶けかかったキーボードの隣に、新しいキーボードをそっと置いた。


「……サイン会は予定通り開催しましょう。そして、私は"神楽 凛世"として、サインと握手をする。───天野。」


「はい」天野は背筋を伸ばす。


「貴方は、元契約妖精として、"マギア・ルクス"のために戦術的な準備を始めてください。"彼女たち"が、平和な人生を賭けて、再び力を取り戻すための準備を。」


凛世がガラスペンを握りしめると、筆先に集まった紫の光が、彼女の『作家としての静かな決意』と『元英雄としての冷徹な覚悟』の二つを、鈍く、同時に灯した。


「私たちは、この戦いを英雄譚としてではなく、未解決の(ミステリー)として終わらせる。 もう二度と…血濡れの平和の為に犠牲を払わないように…」


「かしこまりました。」


……


凛世の決断から時を移さず。

別の街の、一切飾り気がないまるで無機質な冷たいオフィスビルに場面は変わる。


そこにいるのは魔法少女管理機構の幹部、神崎鏡花(かんざききょうか)は、分厚いガラス越しに東京の夜景を見下ろしていた。彼女の視線の遙か先には、凛世の住むタワーマンションの光がある。


「彼女は… マギア・ルクスは、やはり逃げなかった。」


鏡花は、横に立つ冷徹な秘書に指示を出した。


「エリスの動きは予定通りね。彼女は『狂熱』を日本中に広げ、舞台を整える。我々の仕事は、そのステージの足場を崩すことです。」


秘書は無言で頷く。

鏡花はタブレットを操作し、膨大なデータから一つのファイルを選び出した。

それは、凛世の現役時代の戦闘記録と、引退時の精神状態に関する極秘報告書だった。


神楽凛世(マギアルクス)は、『呪いの残滓』に支配されることを最も恐れている。その恐怖こそが、彼女の最大の弱点。天野護(じゃまもの)は、すぐに仲間に連絡を取るでしょう。しかし、彼女達が動く前に、まずは彼女の『社会的信頼』を崩す。」


鏡花の冷たい笑みが、薄く唇に浮かんだ。


「――明日、作家『神楽凛世』の『飲酒運転と違法賭博疑惑』を、匿名で三流週刊誌にリークしなさい。証拠は後からいくらでも作れる。売れっ子作家の『裏の顔』が、実は『堕落した現実』だったという物語は、退屈な世界を生きる大衆(ゴミクズ)にとって、最高のエンターテイメントですからね。」


彼女にとって、戦いとは力ではない。

それは「情報」であり、「世論」であり、「システム」だった。


彼女が描く物語を始めるには、まだ早い。

まずは、最高の舞台を整えるのだ。


……


凛世から指示を受けた天野は、マンションの一室で、慣れた手つきで緊急用の回線を開いていた。


彼の表情は真剣そのものだった。

今の彼は、マネージャーの顔ではなく、かつて『世界を救うシステム』の一部だった妖精の顔だ。


彼は、魔法少女たちが現役時代に使っていた、古い暗号を使い、二人の元・仲間に連絡を取る。


最初にかけるべきは、凛世にとっての"精神的な安全弁"

天野は、まず同じく元魔法少女だった天宮詩織(あまみやしおり)にメッセージを送った。

このアドレスは臨床心理士として働く彼女の裏口回線(バックドア)だ。


内容は、ごく短いもの。

『緊急 診療予約依頼。』


魔法少女時代、チーム内で回復役(ヒーラー)だった詩織は今でも何かと凛世と関わりある貴重な存在だ、もちろん臨床心理士という側面も、今の凛世には必要不可欠な部分である。


そして、次に連絡を取るのは「実戦」の専門家だ。

天野は、自衛隊特殊部隊の教官である早乙女葵(さおとめあおい)への連絡を試みる。

葵は職務中スマートフォンを触れない、緊急連絡の場合はローカルながら伝書鳩を使う。

彼女の中に残っている僅かな魔力、それを追って鳩が手紙を届けてくれるのだ。


…とはいえ正直、葵に「魔法少女絡み」のコンタクトは避けたかった。

引退した魔法少女達が皆、現役時代を「輝かしい経歴」として思う訳ではないからだ。

…特に彼女は、このような連絡を最も嫌う。


だがこと「戦闘」に於いては最も頼りになる、それは昔も今も変わりはしない。


『緊急事態 国防の危機あり、連絡求む。』


天野は、鳩の脚に手紙を括り、窓から放つ。

彼の胸中は、不安と期待で揺れていた。


「……また、魔法少女(わたしたち)のせいで平和が犠牲になるのかしら。 それだけは…嫌ね。」


少し陰のある凛世の声が背後から響く。

天野は、振り返らずに新しいキーボードを接続し、配線を整えた。


「そこは"案ずるより、産むが易し"ですよ、先生。どのみち、もうあの時の「魔法少女」は居ないんですから。つまり本件は"元契約妖精"としての私の残務処理、タスクの処理漏れ、システムバグ、サービス残業ってやつです。 言っててなんですが胃がキリキリしますねぇ!」


天野は、コミカルな皮肉で、重い決意を覆い隠した。


しかし、彼の琥珀色の瞳は、すでに迫り来る戦いの予兆を映し出していた。


続く

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