猫の集会
猫は可愛すぎます。
あの可愛さには何か秘密があるんじゃないか。
そんな作品です。
※この作品には、猫嫌いの方には理解不能な描写が多数含まれます。あらかじめご了承ください。
私は猫が好きだ。大好きだ。愛していると言ってもいい。
なぜって、可愛いから。
いや、わかっている。こんな簡単で陳腐でありふれた形容詞では、あの可愛さの一%も表現することはできない。いやいやしかし、例え世界最高の作家がこの世のあらゆる言語表現を駆使したところで、あの可愛さを描写しきることなど不可能だと思う。可愛いから可愛いというこの論理には何人たりとて太刀打ちできまい。「可愛い」は正義であり絶対なのだ。
例えば、今、私の目の前にいる猫。こいつはチャトラという。体が茶トラ模様だからチャトラだ(私の考えた名前に文句があるやつは表に出ろ)。私の家族の一員で、まあ私の弟のようなものである。
野生など失ったのか、それとも単に信用してくれているのか、チャトラは私が近くにいてもぴくりとも動かない。ソファの上で、頭をおしりにくっつけるようにして丸くなり、目を糸みたいにして、それはそれは気持ちよさそうに眠りこけている。
…………。
あああ、可愛い!
理性を失った私は、容赦なくチャトラの安眠を妨害しにかかった。具体的に言うと、チャトラの胴体部に顔からダイブして、思うさま頬ずりした。嗚呼、この柔らかく滑らかな肌触り。毛繕いのせいかちょっと唾液の酸っぱいにおいがするけれど、猫好きにはこれがまた。
はあ、癒される。
もふもふもふもふもふもふもふもふ。
チャトラは何が起きたのかわからないという顔でしばらく固まっていたが、やがて抗議するように思い切り濁音をつけて一声鳴くと、するりと私の魔の手から逃げ出してしまった。
私はそのままソファに寝そべり、離れていくチャトラを見送った。チャトラがいた場所に頭を乗せると、チャトラの体温で温まっていて何とも言えず気持ちよく、私はゆっくりと眠りに落ちていった。
微かな物音で目が覚めた。
ぼんやりと目を開けると、開いた窓からチャトラが外へ出ていくところだった。
我が家では「猫を家に閉じ込めておくのは可哀想」という意見が採用されており、常にどこかしらの窓が出入り口として開けられている。このため、チャトラは時折、不意に姿を消してしまうことがあった。初めは、迷子になったのではないかとか、車に轢かれているのではないかとか心配したものだが、いつも二、三日もすると澄まし顔で帰ってくるので、最近ではあまり気にしなくなった。けれど、家にいない間、チャトラがどこで何をしているのかという興味はあった。
良い機会かもしれない。私は起き上がると、大急ぎで玄関に走り、サンダルをつっかけて外へ出た。どうせ暇だし、チャトラを追跡してみようと思ったのだ。寝起きで髪はぼさぼさ、化粧もなし、服はジャージという年頃の乙女にあるまじき姿ではあったけれど、身だしなみを整えていたらチャトラを見失ってしまう。少しだけだから、と自分と世間に言い訳して、私はチャトラを探す。
ほかの家の敷地に入られたらお手上げだったが、チャトラは普通に公道をてくてく歩いていた。私はできるだけ足音を立てないように、その後をついていった。さほど広い道ではなく、歩道と車道は白線でしか区切られていない。車が通るたび、チャトラが轢かれるのではと身を固くしたけれど、当の本人(本猫?)は慣れているのか、平然とした様子で道の端を進んでいくのだった。
どこまで行くのだろう。家からはもうずいぶん離れた。服装が服装だし、諦めて家に帰ろうかとも思ったが、ここまで来て投げ出すのも癪だった。せめてチャトラを見失うまでは、と心に決める。チャトラは狭い路地を選んで進んでいく。足取りに迷いはなく、明確な目的地があるように感じられた。私はもうどうにでもなれと、好奇心全開でチャトラを追う。
気づくと、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。ビルとビルの間の、路地とも呼べないような狭いスペース。辺りに人の気配はなく、ひんやりと湿った空気が漂っていた。ビルの壁面についたカビのせいか、青臭いにおいが鼻につく。足下には泥の溜まった水たまりがあり、サンダルで出てきたのを後悔した。
チャトラは路地を抜けて姿を消した。見失うものかと、私も足を早めて路地を抜けようとし、すんでのところで踏みとどまった。
路地を抜けた先には思いがけず広い空間があった。そこは周囲をビルに囲まれたデッドスペースで、そこに空間があることを知らなければ絶対にたどり着けないような、そんな場所だった。私がその空間に踏み入らなかったのは、そこに何匹もの猫が集まっていたからだった。それはもう「無数の」と表現してもいいくらいの数で、この街のすべての猫が集まっているのではないかとさえ思えるほどだった。
猫の集会、という話を聞いたことがあった。猫たちは人知れず集合して、縄張りを確認したり、顔合わせをしたりするという。都市伝説ではなかったのかと、私は感心した。
さて、チャトラの行方も確認できたことだし、もう帰ろう。広場に分け入って猫たちを愛でたい気持ちはあったけれど、猫同士の交流に水を差すのも野暮だろう。
そう思って、私が踵を返そうとした、そのときだった。
「ようやく一息つけるな。まったく、このスーツは窮屈で仕方ない」
そんな声が聞こえて、私は何事かと改めて広場を覗いた。
やめておけばよかった。
ほかの猫たちよりも一段高い場所。打ち捨てられた材木の上に、茶トラ模様の猫が立っていた。もしかしなくてもチャトラだった。
見ていると、チャトラの背中がファスナーでも付いているように裂けて、中から何か銀色の物体が現れた。初め、それはアメーバのような不定形をしていた。けれどぐねぐねと動きながら次第に大きくなり、最終的には人間に近い形になった。顔はのっぺらぼうで、髪の毛もない。人間を銀でコーティングしたらこんな感じだろうか。私は声が出そうになるのを必死でこらえた。
「さあ、みんなも脱いでしまえ。たまには羽を伸ばそうじゃないか」
その言葉に反応して、その場にいた猫たちの背中が一斉に裂けた。さなぎから羽化するように、という表現は華美に過ぎる。ずるりと、ぬめぬめと、それは猫たちの中から這い出てきた。
チャトラから出てきたやつが、声を上げる。
「みんな、任務ご苦労。愚かな地球人たちの相手をするのは疲れるだろう。連中ときたら、突然抱き上げたり、顔を擦り寄せたりしてきて、おちおち寝かせてもくれないのだからな。しかし、それは諸君が任務を忠実に果たしているということ、すなわち地球人どもが我々に心を許している証である。引き続き精励してほしい」
銀色の群衆から、おお、と勇ましい声が返る。
「我らは誉れ高きクロン星の尖兵。地球人を偵察し、その性向を探り、あわよくば骨抜きにする。それが我々の任務だ。この美しい星を手に入れるために、共に苦難を乗り越えよう。地球人のくだらない遊びにも付き合おう。時には愛想も振りまこう。それは屈辱ではなく、誇るべき行為なのだ」
そして起こる、万雷の拍手。思わず私も拍手しそうになってしまった。というか、思考がついてこない。多分、私は今、ひどく引きつった笑いを浮かべているだろう。理性の限界だった。
いや。
いやいやいやいやいや。
さすがにこれは――。
「――ないでしょ」
虚空に向かってツッコミをしながら、私は目を覚ました。自宅のソファの上だった。夢オチだった。
「……ですよね」
どんだけ想像力豊かなんだ、自分。小説家でも目指せるんじゃないだろうか。
時計を見ると、もう午後六時。四時間ほども昼寝してしまったらしい。体を起こそうとしたが、寝過ぎのせいか、あるいは今の夢のせいか、なんだか妙に疲れていて、もうしばらく横たわっていることにした。
「ただいまー」
やがて、出かけていた母が帰ってきた。私はソファに寝そべったまま、おかえりと返事をする。居間に入ってきた母は、私のだらしない姿を見てため息をついた。
「花の女子大生が、せっかくの休日に何やってるんだか」
「私の勝手でしょー。こういう休日もいいじゃない。すごく面白い夢見たし」
「あーそう。あとでどんな夢か聞かせてね……って、あんたそれどうしたの!」
突然、母が血相を変えて近寄ってくる。足、足、と母は指さしている。足が何か?
見ると、ジャージの裾が泥だらけだった。
「え、何これ」
「何これじゃないわよ、あんたそれすぐ脱ぎなさい!」
母はあっという間に私の身ぐるみを剥がし、風呂場に叩き込んだ。あんた、夢遊病の気でもあるんじゃないでしょうね、なんて言いながら。
チャトラはそれから二日後に帰ってきた。こういうときのチャトラは甘えん坊だ。私の足に体を擦り寄せてきて、寂しかったというように切なげにみぃみぃと鳴いてみせる。私はチャトラを抱き上げると、背中を丹念に探ってみた。当たり前だが、ファスナーとか継ぎ目とか、そんなものは見あたらない。
「……まさかねぇ」
言いながら、いつもどおり頬ずりする。
視界の端にあるチャトラの顔が、にやりと笑ったように思えたのは、きっと私の気のせいだ。
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