表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

『記憶の回廊』 第3章 飛躍【3】心の安らぎ 

本章では、颯太が初めて調査の壁に突き当たり、苦悩と挫折を経験します。

けれども同時に、心を許せる存在――金沢恵子との出会いが彼に新たな道を示します。

雨粒と涙の象徴的な描写の中で描かれるプロポーズは、物語の大きな転換点です。

「記憶の回廊」に頼る過去から、未来を共に歩む決意へ。

颯太の心の変化を味わっていただければ幸いです。


『記憶の回廊』 第3章 飛躍【3】心の安らぎ 

 出張報告書を提出した。内容は調査不足を詫びるものとなり、颯太にとっては初めての挫折感を味わうものとなった。

 考えてみれば問題は明白だった。小学校入学前に法妙寺の住職から「これまでのことは“記憶の回廊”に入れ、これからは努力で成績を上げなさい」と諭された。その言葉を忘れ、十数年前の記憶に頼っていたことこそ誤りだったのだ。

 「記憶の回廊」に閉じ込めていた記憶が飛び立ち、颯太の中に何も残らなくなった――そんな感覚があった。

午前十一時、八重洲口のトラストタワー十五階の共用応接室に向かう。そこには金沢さんが待っていた。

「お待たせしました」

「鈴木さん、先日の留萌での件を伺いましたが、黒沢の報告は……」

「それはもう必要なくなりました」

「函館に行かれた山崎さんは?」

「すでに亡くなられています。その理由は不明です」

「弟の誠さんは?」

「消息は掴めていません。同行していた男性と行動を共にしていたようですが」

 報告を終えると、自然と世間話に移っていった。

「金沢さん、昼食を注文しましょう。何がよろしいですか」

「ありがとうございます。サンドイッチをお願いできますか」

「では紅茶もご一緒に」

 フロントへ電話すると、昼前にもかかわらず思いのほか早く届いた。温かな紅茶の香りが漂う。

「こうしてゆっくりお話しするのは初めてですね。金沢さんはご出身はどちらですか」

「北海道です」

「そうでしたか。北海道の方はご苦労された方が多いですよね」

「実は、私が北海道出身だと話すことは滅多にないんです」

「そうでしたか……でも、金沢さんには安心感があります」

 会うのは三度目だったが、颯太は心を開いて語ることができた。久しぶりに解放されたような安らぎを覚える。

「突然ですが……今晩七時、ご一緒に食事でもいかがでしょうか」

「はい、ぜひ。嬉しいです」

 金沢さん――恵子の微笑みが心に染みた。

 その後、颯太はT大学の桑崎教授を訪ねた。

「昨日まで留萌に行ってきました。駅は昔の面影がありましたが、郊外は大型店が進出していて、東京と同じですね」

「日本の大学もグローバル化が進んでいます。留学生や卒業生がラボを作り、共同研究は国境を越えています」

「しかし情報漏洩の危険もありますね」

「それでも水素発電の画期的な方法が見つかり、いま実験段階にあります」

 教授の話を聞きながら、颯太は決意する。

「国際特許の準備を進めます。本日はこれで失礼します」

 その夜。颯太はシャングリラホテル二十九階の日本料理「なだ万」を予約していた。

 ロビーには、髪をアップにまとめ、細い唇に赤い口紅が映える紺地の花柄ワンピースを纏った女性が待っていた。――金沢恵子だ。

「エレベーターで二十八階まで行きましょう」

 ピアノの生演奏が響く店を通り過ぎ、螺旋階段を上がると「なだ万」がある。

「鈴木様、ご予約の個室へご案内いたします」

 壁一面のガラス越しに、東京の夜景が広がっていた。

 ビールを注ぎ、静かに語り合う。

「恵子さん。私は上京してから故郷の話をほとんどしませんでした。でも、恵子さんからは同じ匂いを感じます。苦労を重ねてきたからこそ、ほっとできるのです」

「私も同じです。上京してからずっと頑張ってきました……だからこそ、颯太さんといると心が楽になります」

 やがて窓に小雨が降り出した。高層階のガラスに雨粒がつき、小さな雫が集まり、糸を引くように流れ落ちていく。

 その光景を見つめていた颯太の目に、涙が溢れた。

「恵子さん、あの雨の糸が見えましたか」

「ええ……雫が集まってスーッと流れていくのを」

「私はあの小さな雨粒のようでした。必死に上に張り付いて落ちまいと緊張して……。でも、もう無理に耐える必要はない気がします。あなたに出会えたから」

 恵子の瞳にも涙が光った。

「颯太さん、泣かないでください。私も同じです。ずっと頑張って、頑張って生きてきました」

 二人は互いの涙を見つめ合い、そして颯太は口を開いた。

「……恵子さん。いずれ私の両親のそばにいてほしい。そして――」

 一呼吸おいて、彼女をまっすぐ見つめる。

「私と結婚してください」

 恵子は頬を紅潮させ、微笑んだ。

「はい……嬉しいです」

 その瞳は喜びに輝き、未来を映していた。

 二人は赤ワインを注文し、静かにグラスを合わせた。

 ――これからの人生に、乾杯を。

 その後、水素発電の画期的な方法について、国際特許の手続きは着実に進められていった。


調査の成果を得られなかった失意の中で、颯太は思いがけず大切なものを見つけました。

人は困難や挫折を経てこそ、支え合える存在に気づくのかもしれません。

颯太と恵子の心が触れ合い、未来を誓い合った場面は、物語に温かな灯をともします。

この「心の安らぎ」が、次なる挑戦の力へとつながっていきます。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ