『記憶の回廊』 第3章 飛躍【3】心の安らぎ
本章では、颯太が初めて調査の壁に突き当たり、苦悩と挫折を経験します。
けれども同時に、心を許せる存在――金沢恵子との出会いが彼に新たな道を示します。
雨粒と涙の象徴的な描写の中で描かれるプロポーズは、物語の大きな転換点です。
「記憶の回廊」に頼る過去から、未来を共に歩む決意へ。
颯太の心の変化を味わっていただければ幸いです。
『記憶の回廊』 第3章 飛躍【3】心の安らぎ
出張報告書を提出した。内容は調査不足を詫びるものとなり、颯太にとっては初めての挫折感を味わうものとなった。
考えてみれば問題は明白だった。小学校入学前に法妙寺の住職から「これまでのことは“記憶の回廊”に入れ、これからは努力で成績を上げなさい」と諭された。その言葉を忘れ、十数年前の記憶に頼っていたことこそ誤りだったのだ。
「記憶の回廊」に閉じ込めていた記憶が飛び立ち、颯太の中に何も残らなくなった――そんな感覚があった。
午前十一時、八重洲口のトラストタワー十五階の共用応接室に向かう。そこには金沢さんが待っていた。
「お待たせしました」
「鈴木さん、先日の留萌での件を伺いましたが、黒沢の報告は……」
「それはもう必要なくなりました」
「函館に行かれた山崎さんは?」
「すでに亡くなられています。その理由は不明です」
「弟の誠さんは?」
「消息は掴めていません。同行していた男性と行動を共にしていたようですが」
報告を終えると、自然と世間話に移っていった。
「金沢さん、昼食を注文しましょう。何がよろしいですか」
「ありがとうございます。サンドイッチをお願いできますか」
「では紅茶もご一緒に」
フロントへ電話すると、昼前にもかかわらず思いのほか早く届いた。温かな紅茶の香りが漂う。
「こうしてゆっくりお話しするのは初めてですね。金沢さんはご出身はどちらですか」
「北海道です」
「そうでしたか。北海道の方はご苦労された方が多いですよね」
「実は、私が北海道出身だと話すことは滅多にないんです」
「そうでしたか……でも、金沢さんには安心感があります」
会うのは三度目だったが、颯太は心を開いて語ることができた。久しぶりに解放されたような安らぎを覚える。
「突然ですが……今晩七時、ご一緒に食事でもいかがでしょうか」
「はい、ぜひ。嬉しいです」
金沢さん――恵子の微笑みが心に染みた。
その後、颯太はT大学の桑崎教授を訪ねた。
「昨日まで留萌に行ってきました。駅は昔の面影がありましたが、郊外は大型店が進出していて、東京と同じですね」
「日本の大学もグローバル化が進んでいます。留学生や卒業生がラボを作り、共同研究は国境を越えています」
「しかし情報漏洩の危険もありますね」
「それでも水素発電の画期的な方法が見つかり、いま実験段階にあります」
教授の話を聞きながら、颯太は決意する。
「国際特許の準備を進めます。本日はこれで失礼します」
その夜。颯太はシャングリラホテル二十九階の日本料理「なだ万」を予約していた。
ロビーには、髪をアップにまとめ、細い唇に赤い口紅が映える紺地の花柄ワンピースを纏った女性が待っていた。――金沢恵子だ。
「エレベーターで二十八階まで行きましょう」
ピアノの生演奏が響く店を通り過ぎ、螺旋階段を上がると「なだ万」がある。
「鈴木様、ご予約の個室へご案内いたします」
壁一面のガラス越しに、東京の夜景が広がっていた。
ビールを注ぎ、静かに語り合う。
「恵子さん。私は上京してから故郷の話をほとんどしませんでした。でも、恵子さんからは同じ匂いを感じます。苦労を重ねてきたからこそ、ほっとできるのです」
「私も同じです。上京してからずっと頑張ってきました……だからこそ、颯太さんといると心が楽になります」
やがて窓に小雨が降り出した。高層階のガラスに雨粒がつき、小さな雫が集まり、糸を引くように流れ落ちていく。
その光景を見つめていた颯太の目に、涙が溢れた。
「恵子さん、あの雨の糸が見えましたか」
「ええ……雫が集まってスーッと流れていくのを」
「私はあの小さな雨粒のようでした。必死に上に張り付いて落ちまいと緊張して……。でも、もう無理に耐える必要はない気がします。あなたに出会えたから」
恵子の瞳にも涙が光った。
「颯太さん、泣かないでください。私も同じです。ずっと頑張って、頑張って生きてきました」
二人は互いの涙を見つめ合い、そして颯太は口を開いた。
「……恵子さん。いずれ私の両親のそばにいてほしい。そして――」
一呼吸おいて、彼女をまっすぐ見つめる。
「私と結婚してください」
恵子は頬を紅潮させ、微笑んだ。
「はい……嬉しいです」
その瞳は喜びに輝き、未来を映していた。
二人は赤ワインを注文し、静かにグラスを合わせた。
――これからの人生に、乾杯を。
その後、水素発電の画期的な方法について、国際特許の手続きは着実に進められていった。
調査の成果を得られなかった失意の中で、颯太は思いがけず大切なものを見つけました。
人は困難や挫折を経てこそ、支え合える存在に気づくのかもしれません。
颯太と恵子の心が触れ合い、未来を誓い合った場面は、物語に温かな灯をともします。
この「心の安らぎ」が、次なる挑戦の力へとつながっていきます。