ママは、悪者なの?
この作品は、「物語にならない人たち」の物語でありたいと思っています
キッチンに、小さな油のはねる音が響いた。
換気扇の「ゴォォ……」という低いうなりの中、佐和子は卵をひとつ、丁寧に割り落とす。
フライパンの上でじゅう、と音がして、
黄身がぷるんと揺れた。
「あと五分でごはんよー」
部屋の奥に向かって声をかける。
返事はない。けれど、それもいつものことだった。
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狭い2DKの賃貸。
テーブルには、焼き海苔、インスタント味噌汁、昨日の残りのきんぴらごぼう。
その横に、パックのご飯がレンジの中でチン、と鳴った。
「……あ、仏壇……」
佐和子はエプロンの裾で手を拭いて、
居間の隅にある小さな仏壇の前へ向かう。
そこには、少し色褪せた一枚の写真。
──笑っている、夫の顔。
「今日も、頑張ってきます」
そう言って、花を少しだけ整え、手を合わせた。
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ドアがきい、と開く音がした。
「……朝から味噌汁の匂い、すごいね」
中学生の娘、葵が無表情に現れる。
制服の裾が少しだけヨレていて、手にはスマホ。
佐和子はにっこりと微笑んで言った。
「卵、焼きたてだよ。今日のは、ちょっと形いいんだから」
「ふーん……」
葵は椅子に座り、スマホを見ながら
もそもそとご飯を口に運ぶ。
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壁の時計が、7時26分を指していた。
あと一時間もすれば、霞が関の庁舎に出勤する時間。
佐和子は黙って、冷めないように味噌汁をお椀に注いだ。
「……ママ、悪者じゃないよね?」
そう呟きかけそうになった唇を、ほんの少し、噛んで止めた。
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午前八時十一分。
山手線から地下鉄へ乗り換える。
電車の中は満員だった。
スーツ姿の男たち。ヘッドホンの若者。
薄く化粧をした主婦風の女性が、スマホでニュースを眺めている。
佐和子は、その隣の人差し指の動きに目を奪われた。
──「増税の裏で」「財務省に怒号」「怒りの声止まらず」
その文字列を見た瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
スマホの画面をそっと視線から外して、彼女はただ、つり革にしがみついた。
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霞が関駅に着くと、すぐにそれと分かる光景が広がっていた。
地上出口へと向かう階段の先に、プラカード。拡声器。テレビカメラ。
怒鳴り声。
ざわつく空気。
「国民の声を聞け!」
「子どもを守れ!」
──“国民”のはずの彼女は、
その声のどこにも、自分の居場所がないように感じていた。
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「……裏口、回ろう」
佐和子はカバンの中からマスクを取り出し、
帽子を少し深く被った。
遠回りになるが、官庁通りを避け、建物の裏手の職員通用口へ回り込む。
記者たちの視線を避けるように、誰とも目を合わせず、無言のまま中へ。
ICカードをかざす手が、少しだけ震えていた。
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エレベーターに乗り込むと、中には数人の職員がいたが、誰も口を開かなかった。
皆、うつむきがちで、
誰かの靴音だけが、密室の空気に響いていた。
7階。
オフィスのフロアに着くと、
無機質な書類と、うすい光と、そして沈黙が待っていた。
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誰も、何も言わない。
でも皆が、分かっている。
ニュースを見たことも、
今、外に何百人がいることも、
「私たち」が、“何か”を背負わされていることも。
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佐和子は、自分のデスクに座った。
一度だけ、モニターに映った自分の顔を見て、
帽子を外すと、ため息をひとつついた。
思い返す。
――ここにたどり着くまでのことを。
夫と死別して、保育園の送り迎えに追われ、
就活サイトを夜な夜な眺め、履歴書を何十枚も書いた日々。
やっと面接を通って、もらえたこの職場。
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「誇れる肩書きなんて、いらない。
ただ、働ける場所があることが、どれだけありがたいか──」
誰にも届かないその独り言を、彼女は、心の中でそっと唱えた。
◆
「……12番ファイル、片づけました」
「ありがとう、助かります」
係長が振り向かずにそう言った。
佐和子は無言で軽く頭を下げ、
デスクに戻ると、パソコンを静かにシャットダウンした。
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午後五時丁度。
嘱託職員として与えられた「定時退勤」の権利。
けれど──
心は、いつも定時に帰れるほど、
軽くはなかった。
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ビルを出ると、昼よりも膨れ上がった人だかりが道を埋めていた。
スピーカーの音が、ビル壁に反響して増幅される。
「財務省は国民の敵だ!」
「腐った税制度をぶっ壊せ!」
「国民を舐めるな!」
佐和子はうつむきながら、足を速める。
マスクの奥で小さく呼吸を整えながら。
“私は……ただ、書類を整理してただけなのに”
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地下鉄の中でも、頭の中で声が残響していた。
背中に何かが刺さったままのような感覚。
それでも家は、待っている。
彼女は帰った。
あの2DKの、灯りのついた部屋へ。
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「ただいまー」
「……おかえり」
娘の葵が、部屋の奥から返事をした。
制服は脱ぎっぱなし、ソファにスマホが転がっている。
佐和子はエプロンを巻いて、夕飯の支度を始めた。
冷蔵庫には昨晩買った鶏むね肉と、もやし。
フライパンに油をひき、炒める。
シュウウ……という音が、少しだけ彼女の神経をほぐしてくれる。
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食卓に二人分のご飯が並ぶ。
「いただきます」
「……いただきます」
娘はスマホを横に置いて、少しだけ箸を動かした。
そのとき、
テレビのニュースが勝手に切り替わった。
──霞が関の昼の映像。
拡声器。怒号。プラカードの波。
「財務省を解体しろ!」
「腐敗官僚、恥を知れ!」
「生活を守れ!」
その声に、葵がぽつりと呟いた。
「ねえ……ママって、悪者なの?」
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佐和子の箸が止まった。
一瞬、火の消えたコンロの上の鍋に視線が泳ぐ。
テレビの音が、遠くの戦場のように聞こえた。
「どうして、そう思ったの?」
「だって……テレビで、すごく怒ってたから。“財務省が悪い”って。……ママ、そこで働いてるよね?」
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佐和子は、箸を置いた。
ゆっくりと娘のほうを向く。
小さな顔。
不安を隠そうとする、背伸びしたまなざし。
亡くなった夫に似ている目。
彼女は微笑んだ。
その奥で、何かがこぼれそうになりながら。
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「ママは……」
言葉が一瞬、宙をさまよう。
「ママはね、悪者にはなりたくないなって、毎日思いながら働いてるよ。」
その言葉に、葵は黙ったまま、ご飯をもう一口食べた。
テレビの音はまだ響いていたけれど、
二人の間には、静かな灯りのような何かが宿っていた。
「ねえ、ママ」
葵が台所に立つ母の背中に話しかける。
「……ママは、いつも、ちゃんとご飯作ってくれるし、朝も起こしてくれるし、……ちゃんと頑張ってるよ」
佐和子は振り返らなかった。
けれど、手を止めると、ゆっくりと、うつむきながら微笑んだ。
「ありがと、葵」
娘の足音が、寝室に向かって遠ざかっていく。
キッチンに一人残った佐和子は、
蛇口を止め、
ふっと目を閉じた。
その胸の奥で、
“誰かの声じゃない、本当に必要だった言葉”が、そっと灯った気がした。
悪者じゃないって、言われたかったんじゃない。
ただ、ちゃんと見ていてほしかっただけ。
【完】
※ この物語は、
「デモは間違ってる」とも、「財務省が正しい」とも、言いたいわけではありません。
どちらかの“正義”を否定するために書いたのではなく、
その“正義”の声が届かない場所で、
静かに暮らしている誰かのことを、ただ描きたかったのです。
私たちはみんな、それぞれの生活を抱えて生きています。
怒る人にも、泣く人にも、叫ぶ人にも、そして沈黙する人にも、
それぞれの物語があります。
この作品は、そういった
「物語にならない人たち」の物語でありたいと思っています。