雨の足音
やっぱり暑い日はホラーを書くに限ります。楽しんでいただけたら幸いです。
雨。僕は雨が好きだ。うるさい日常の喧騒も、雨になれば静かだ。しとしとと降る雨は、僕の心を優しく、慰めてくれる。
僕は人づきあいが苦手だ。友人もそれなりにいるが、あまり深くはかかわらない。静寂。それが僕の求めるものだ。
そんな雨の日の帰り道だった。足元に響く靴音とは別に、どこからか規則的に聞こえてくる足音。最初は気のせいかと思った。けれど、雨音の中で、確かに誰かが僕の後ろを歩いているような…そんな気配があった。
足を止めると、その足音も止まった。走り出せば同じ速度で、半歩ずれて近づいてくる。
振り返っても、誰もいない。
静かな雨の中に、僕だけが聞く足音が響いた。
最初は遠くから聞こえただけだった。気のせいだと思っていた。
でも、違った。雨が降る日は、必ず足音が聞こえる。ピチャ、ピチャと、半歩ずれたリズムで。
雨が降るたび、その足音は確実に近づいてくるように感じた。
振り返っても、誰もいない。
それでも、何かが確かにそこにいる――そう、僕は感じていた。
心の奥底で、逃げられない何かが迫ってくることを知っていた。
夢を見た。あの足音が雨の中、じわじわと迫ってくる夢だった。
「もう逃げられない」――そう思った瞬間、足音が僕のすぐ後ろに迫り、追いつかれた気がした。
そのとき、慌てて目が覚めた。
冷たい雨音ではなく、部屋の静けさの中で、僕は右手に違和感を覚えた。
まるで誰かが、びしょ濡れの手でぎゅっとつかんだような、冷たく湿った跡が残っている。
震える指で触れてみると、確かにそこに何かがあった。
僕は息を殺し、もう一度部屋の中を見回した。
でも、そこには誰もいなかった。
今日は晴れだった。学校へ行き、友人とあと腐れのない会話をし、家へ帰る。
あの足音は聞こえてこない。
けれど、どこかで誰かに見られているような、様子をうかがわれているような、そんな感覚が僕を包んでいた。
目を伏せると、背後に冷たい視線を感じる気がした。
振り返っても、やはり誰もいない。
だけど、その気配は確かにここにある。
雨の日だけじゃない――何かが、いつも僕を見ている。
学校内で、妙な噂が流れていた。
「雨の日の足跡」
廊下の隅や、教室の窓際、誰も通っていないはずの場所に、濡れた足跡がポツポツと残されている。
その足跡は、日を追うごとにだんだんと誰かに近づいていき、
やがて――“追いつかれた者は、どこかに連れて行かれる”。
そんな話だった。
くだらない、と笑い飛ばす者もいれば、気味悪がって話題にすらしない者もいた。
でも、僕は違った。
その話を耳にした瞬間、背筋がぞくりと凍りついた。
他人事ではない。
それは、まるで“僕のことを言っているような”感覚だった。
雨の日の足跡の噂を聞いたのは今日。それまで聞いたこともなかった。誰かが噂を流している。その人は、何か知っているかもしれない。
僕は、噂の発生源を探しに行くことにした。
噂の元は案外簡単に見つかった。オカルト研究部。そこの部長だ。
放課後、オカルト研究部を尋ねる。噂の出どころを聞くためだ。
部長に尋ねれば、こんな答えが返ってきた。
「あれね、ただの作り話だよ。そんな夢を見たのと、昔この町で雨の日に失踪した事件が何件かあったから、冗談で流しただけ。怖かった?」
僕は、軽く笑う部長の顔をしばらく見つめていた。
「……夢って、どんな夢だったんですか」
僕がそう尋ねると、部長は少しだけ、目を細めた。
「え?」
「さっき、“夢を見た”って言ってましたよね。足音の夢」
「……ああ。まあ、なんとなく見た気がするってだけだよ。詳しくは覚えてない。ほんとに、適当に作った話だから」
部長はそう言って笑うが、僕には何かが引っかかった。
その笑いが――少し、無理をしているように見えたからだ。
帰り際、オカルト研究部の部室のドアを閉めようとしたそのとき。
目の端に、何かが映った。
部室の奥。机の下の床に、小さな――濡れた足跡が、点々と並んでいた。
僕は慌てて目を逸らし、ドアを閉めた。
外は晴れていた。
けれど、部室の奥には、確かに水音が響いていたような気がした。
その日から、学校内でちょっとした異変が起こり始めた。雨が降った日は校内の廊下に濡れた足跡がある。ピチャピチャと足音が聞こえる気がする。
雨なのだから多少廊下が濡れるのは当たり前だし、ピチャピチャ音もするだろう。大半は気にせず学校生活を送っていた。
しかし、オカルト研究部の部長は違った。日に日に後ろを気にし始め、目にはクマができていた。
部長は、あの時とはまるで別人のようになっていた。
最初に会ったときは、あんなに余裕のある笑みを浮かべていたのに。
今では、廊下でふと振り返る癖がつき、誰もいないはずの背後に目を走らせている。
「最近、眠れてなくてさ……」
放課後、再びオカルト研究部の部室を訪れた僕に、部長はうつむいたままぽつりと呟いた。
「夢を見るんだ。毎晩、同じ夢……足音が、僕のすぐ後ろまで来てる。最初は遠くにいたのに、今は……もう、手を伸ばせば触れられるくらいだ」
そのとき、部室の窓に雨粒が叩きつけられた。
その音に、部長の肩がビクリと跳ねる。
「……来てるんだ。あれ、“本当に”来るんだよ……僕が、作った話のはずなのに……」
僕は、返す言葉を失っていた。
雨音の中で、確かに“もうひとつの足音”が聞こえた気がした。
「雨の日の足音、実際に聞いたことはないんですか?」
僕がそう尋ねると、部長はしばらく沈黙した。
窓の外では、雨が静かに、しかし確実に降り続いていた。
「……ある……かもしれない。でも、あまり気にしたことはないから、わからない。足音なんて聞こえて当然だし、ずっと気のせいだと思っていたから。でも、もしかしたら、だいぶ前から……聞いていたのかもしれない」
部長の声は、どこか遠くを見つめるようにかすれていた。
「気づいた時にはもう、後戻りできないところまで来てたのかもしれない……」
そう呟いた部長の背後――
誰もいないはずの部室の奥で、「ピチャ……ピチャ……」という濡れた足音が、一歩だけ響いたような気がした。
僕は思わず目をそらした。
何も見なかった。見てはいけない気がしたからだ。
今日も雨だった。
相変わらず、「ピチャ、ピチャ」と、半歩ずれた足音が聞こえる。
まだ遠い。でも、この前より――確実に近い気がする。
その音が、僕のすぐ背後にまで届きそうな気がして、怖くなった。
気づけば走り出していた。
水たまりを蹴って、息を切らして、ただ前だけを見て。
けれど、足音は止まらない。
僕のすぐ後ろを、まるで合わせ鏡のように、同じ速度で追いかけてくる。
ピチャ、ピチャ、ピチャ――
ようやく家に着いたときには、全身がびしょ濡れで、肩で息をしていた。
玄関のドアを閉めると、不思議なことに、足音はピタリと止んだ。
まるで、外に置いてきたかのように。
安堵の吐息をついた瞬間、ふと鞄に目をやる。
そこには、くっきりと濡れた手形がついていた。
自分の手ではない。
僕は、その手形の大きさも、形も、知らない。
それを見た瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。
家の中まで――入ってきていたのか?それとも、すでに追いつかれていた?
いや、まだ大丈夫。追いつかれたのなら連れていかれる。連れていかれていないってことは、まだ平気なはず。自分にそう言い聞かせて、自室へと戻った。
翌朝、部長は欠席したそうだ。なにやら、昨日から家に帰っていないらしい。昨日は雨だった。部長は連れていかれてしまったのか。それとも、ただ遊び惚けているだけなのか。
翌日。部長はまだ帰ってこないらしい。家族は失踪届を警察に出したそうだ。本当に連れていかれてしまったのか。
学校の空気は、意外なほど静かだった。
部長がいないことに気づいている者は少ない。もともと目立つ人ではなかったからかもしれない。
僕だけが知っている。
あの人は、“本当に”いなくなったのだ。
雨が降った日。
足音が追いついた日。
それを知っているのは、たぶん、僕だけだ。
授業中、ノートに向かったふりをして、そっと耳を澄ませる。
……ピチャ。
気のせいだ。誰かが濡れた靴で廊下を歩いているだけ。
今は晴れている。足音なんて、聞こえるはずがない。
それでも、僕の耳は知っている。
あのリズム。あの、半歩ずれた足音。
――それは確かに、近づいてきている。
もしかすると、今もすぐそこまで来ているのかもしれない。
次に雨が降ったら、僕はどうなるのだろうか。
もう、逃げきれないのかもしれない。
――次は、僕の番かもしれない。
夢を見た。
あの足音が、僕ではなく、部長に近づいていく夢だった。
部長は必死に走っていた。
けれど足音は、確実に、正確に、彼のすぐ後ろを追いかけている。
ピチャ、ピチャ、と雨に濡れた靴音が響く。
そして、足音が部長の足音とぴたりと重なったその瞬間。
部長は、ふっと消えてしまった。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように――。
夢の中で見たその場所には、大量の水たまりができていて、
水面は不自然に静かに揺れていた。
僕は震えながら、その水たまりを見つめていた。
目が覚めた時、心臓が激しく鼓動していた。
あの夢は、ただの夢じゃない。
何かが、確実に、僕たちの間に介在している。
そして、あの足音は――
決して追いつかないわけではないのだ。
僕は日に日に眠れなくなっていった。
明日、目が覚めたら雨が降っているんじゃないか。
それを考えるだけで、まぶたが閉じられない。
眠ってしまえば、またあの夢を見てしまう。
足音が、僕に追いついてくる夢。
友人たちは、心配してくれている。
「最近、顔色悪くない?」
「大丈夫? 無理すんなよ?」
気を使ってくれているのはわかる。でも、どう話せばいい?
「足音が聞こえる」なんて言えば、笑って流されるだけだった。
「気のせいだよ」「雨の音だろ」「疲れてるんだって」
――そうじゃない。
でも、信じてもらえない。
それが、何よりも孤独だった。
ちょっとした水の音にも過敏になった。
蛇口をひねるとき。
風呂場から響く水滴の音。
自分の靴底から落ちるわずかな水音さえも、心臓に刺さった。
ピチョン。
その音がするたびに、僕の脳裏には、あの足音のリズムがよみがえる。
ピチャ……ピチャ……ピチャ……
「……違う、これは水の音だ。普通の音……普通の音……」
そう繰り返しながら、僕は蛇口を締め直し、風呂場の戸を閉め、耳を塞いで布団に潜り込んだ。
ついに、雨が降った。
朝から空は灰色で、どこまでも低く垂れこめていた。
僕は怖くて、家から出られなかった。
調子が悪いとだけ連絡を入れ、布団の中に逃げ込んだ。
外では雨の音がしとしとと続いている。
けれど、それとは別に――聞こえる。
ピチャ、ピチャ……
あの音が、また始まっていた。
僕は耳を塞ぎ、毛布をぎゅっと握った。
聞こえないふりをした。感じないふりをした。
雨音のせいだ、水音のせいだ。ずっと、そうやってやり過ごしてきた。
でも、今日は違った。
音は、廊下を通って、リビングを抜けて、僕の部屋の前に立ち止まった。
そして――ゆっくりと、扉の前を通りすぎた。
……ピチャ。
……ピチャ。
……ピチャ。
足音は、僕のすぐ側を通っていった。
でも、不思議なことに、僕には触れてこなかった。
息を潜めていた僕の耳元に、かすかな“濡れた呼吸音”が届いた気がした。
だが、何も起こらなかった。
それだけだった。
僕は布団の中で、何時間も動けなかった。
――なぜ、触れてこなかったのだろう?
逃げ切れた? いや、違う。
“今日は違った”だけだ。
あの足音は、まだ僕を見ている。試している。
次は、どうなるのか――わからない。
けれど、確実に、あれは僕のところまで来ていた。
翌朝。雨は止んでいなかった。
傘をさし、重い足取りで学校へ向かう。
足元から、あの音が聞こえる。
ピチャ、ピチャ――
振り返っても、誰もいない。
それでも、確かに“足音”はあった。
まだ大丈夫。
まだ、追いつかれてはいない。
そう言い聞かせながら、歩いた。
授業中。
先生の声が、どこか遠くで鳴っているように感じた。
ノートを開いても、字がまったく頭に入ってこない。
窓の外では、雨が降り続けていた。
その音に混じって、また聞こえる。
ピチャ、ピチャ。
僕は座っている。教室の中でじっとしている。
動いていない。
けれど、足音は――
……近づいてきている。
教室の中を歩いている誰かの足音とは、違う。
もっと柔らかくて、水を吸ったような音。
ピチャ。
ピチャ。
ピチャ……
音は止まらない。
僕の方へと、まっすぐ、向かってきている。
目を上げた。
教室の床。自分の席のすぐそばに、何かがあるのが見えた。
――濡れた足跡。
床に、くっきりと、水が滴ったような跡が一つ。
そのすぐ後ろに、もう一つ。
さらに、その後ろにも。
足跡は、僕の席の、すぐ傍まで続いていた。
「……ッ」
思わず立ち上がると、周囲の視線が一斉に集まった。
「どうしたの?」
「○○くん、大丈夫?」
でも、誰も、あの足跡に気づいていない。
見えていないのだ。
僕にだけ。
見えているのだ。
このままじゃ――追いつかれる。
いや、もう――追いつかれているのかもしれない。
僕は体調が悪いと訴え、早退することにした。
雨の中を、傘もささずに走る。
走って、走って、足音から逃げ続ける。
でも、あの音は正確に、半歩ずれたリズムで、いや――少し、早い。
追いつかれる。
走って、走って、ようやく家の前にたどり着く。
玄関のドアに手をかけた、そのとき――
何かが、僕に触れた。
瞬間、視界が暗くなる。
息ができない。苦しい。まるで、水の中にいるようだ。
必死にもがく。もがくほど、体は深く沈んでいく。
苦しい。息が、できない。
誰か――助けて。
そのまま、僕の意識は、ゆっくりと沈んでいった。
玄関の前には、大きな水たまりがひとつ、
静かに、ただ静かに揺れていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
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これからも頑張って書いていきますので、よろしくお願いします!