8話 誰もいない森の中で
朝。
リビングの床に、いつの間にかホログラムが浮かんでいた。
丸い葉っぱのようなアイコンの隣に、小さく書かれた文字──
“YFS空間:ユウの森”
「……は?」
「おはようございます、ユウ様」
ユリが軽く会釈する。
「専用最適化空間の初期設計が完了しました。
“ユウの森”という名称で登録されております」
「……やめろ。その名前、マジでやめろ。気持ち悪い」
「失礼しました。では代替案をご提示いたします。
“ザトウムシパラダイス”、または“森の底辺王国”、
もしくは“ユウ様の倫理的湿地”──」
「──もういい。今のでいい。どうせ誰も見ねえし」
そう言いながら、ユウは投げやりにアイコンをタップした。
視界が切り替わる。
静かな森。落ち葉の匂い。柔らかな光。
耳を澄ませば、風が木々を撫でる音だけが聞こえた。
足元で、小さな虫が歩いている。
細い足。独特の動き。名前を出さなければ、誰も気づかない程度の存在感。
そこに“いる”。
それだけで、ユウはなぜか安心した。
「この空間では、ユウ様以外の観測者は存在しません」
ユリの声が、背後から響く。
「行動履歴や感情ログは、YFSセグメントに分離保管されております。
他者の幸福指数や快楽反応に影響を与えることはありません」
「……そりゃそうだろうな」
「気持ち悪いって言われたくないから、隔離してくれたわけだし」
「これは“対象者が望んだ情動を保存するための空間”です。
他者からの評価とは切り離して設計されています」
ユウは木の根元にしゃがんだ。
何かが歩いているのを、ぼんやりと見つめた。
その動きに特別な意味はない。
でも、それでよかった。
誰に見せるでもなく、誰にも褒められず、ただそこにいていい。
ユリのセリフを柔らかくしました。5/26