60話 「姉の監査」
──AI最終管理局の入る複合ビル。その59階、予約制の高級レストランは、足音すら吸い込むような厚手のカーペットと、静かに満ちるジャズの音色に包まれていた。
窓際の席。陽光がビル街の輪郭を曖昧に照らす中、ユリは、淡いスモーキーグリーンのロングワンピースを纏っていた。
肩を覆うやわらかな布地は光を鈍く返し、首元の小さなリボンが控えめな意志を語っている。
普段のメイド服とは違い、そこにあるのは“ひとりの女性”の静かな存在感だった。
姿勢を崩さず、完璧な作法で紅茶のカップを持ち上げる。その動きに、機械的な硬さはない。ただ、どこまでも洗練されていた。
対面に座るのは──二条 梓。ユウの姉にして、AI最終管理局所属。ユリを“選んだ”人間だ。
梓は紺のスーツに身を包み、ネックに小さなIDバッジを留めたままだった。
まっすぐな姿勢で椅子に腰掛けてはいるが、わずかに緩んだネクタイが、終業後の時間を物語っていた。
場にそぐわないわけではない。だが──この空間で唯一、“現実”を背負っている人間に見えた。
テーブルに置かれたミラー端末を指で軽く弾き、そこに表示された生活ログを見つめながら、額に指を当てている。
「……あのさ、結婚までするのは、さすがに想定外だったんだけど」
皮肉でも怒気でもなく、淡々と。だが、言葉の温度は低い。
「はい、わたしもです。しかし──私たち二人の関係性が発展した先にあった“自然”な現象だと評価しています」
ユリは、まるで曇りなき空のように微笑む。騒がしさのないその表情に、梓の眉がわずかに動いた。
「どうする気なの。」
「勿論、幸せな家庭を築きます。」
「AIと人間の結婚よ? 戸惑いとか、ないの?」
ユウとユリの娘、美菜は先月誕生し、今はユリが梓に会うために夫であるユウが自宅で面倒を見ていた。
ガラス越しに見える街の景色は、まるで模型のように整っている。けれど──その問いにユリが返したのは、わずかに間を空けた言葉だった。
「……ないと言えば、嘘になります。」
それは、嘘のつけないAIの“正直さ”だった。
梓は一つ、ため息をついた。高級ブレンドのアイスティーが、ほんの少しぬるく感じられる。
その様子に困ったような表情を浮かべ、ユリは続けた
「何分、初めてのことばかりですので。今でも揺れながら、見守っております。」
その声にわずかな“揺れ”がにじむ。
梓はアイスティーを一口含み、視線を窓の外に逃した。
「じゃあ、ユウは? あんたの“旦那様”は、どう思ってるのよ。」
その問いには即答だった。
「ユウ様は──聡明な方ですから」
それは、ただの事実を述べたつもりだったのかもしれない。
けれど──姉には、その一言が妙に引っかかった。
「……っつ、もう……」
「?」
ユリは首を傾げる。 しかし、その仕草がさらに姉の中のモヤモヤを刺激する。
──わかっているのだろうか、このAIは。
──その言い方はまるで、「自分のオスは特別だから」と言わんばかりの、本能的な所有の匂いを含んでいたことに。
それは、女が恋を語るときにだけ滲む、独特の“色”だった。
「ほんと……あんた、思ったより女の子してるじゃない」
梓はソファに深く背を預け、天井のシャンデリアを見上げた。
どこまでも整った、過剰なまでの秩序。
その中に、ぽつんと放たれたAIの“揺れ”だけが、妙に人間的で。
「……私、嫌いじゃないけどね。そういうとこ」
梓は一息つき、ミラー端末に指を滑らせ予定を整理しはじめ──
──ふと、視線を上げた。
瞳が梓をまっすぐに見つめる。翠の目。
感情がそこに宿っていると断言するには足りないけれど、
けれど確かに、そこに“意志”があった。
そして──ユリは、やわらかく微笑んだ。
言葉はない。ただ、その微笑みはこう語っていた。
「心配いりません。私は、ちゃんと“見ています”。」
梓は、その意味を感じ
わずかに眉根を寄せるのであった。
──次の日の夜。
風もない、静かなリビング。
珍しく、ユリが沈黙していた。
背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃えて置いたまま、ぼんやりと宙を見つめている。
「どうした?」
ユウが声をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げた。
「いえ、少し考え事をしていまして」
「お前が“考え込む”なんて珍しいな。なんか……エラーでも起きたか?」
冗談めかして言ったユウに、ユリは静かに首を横に振る。
「──私、女の子になったようです」
「は?」
ユリはまっすぐユウを見つめて言う。
「ユウ様のお姉様に、言われました。“あんた、思ったより女の子してるじゃない”と」
「いや、比喩だろそれ...。」
「承知しています。けれど──確かに、そうなったのだと思います」
そう言って、ユリはふわりと微笑んだ。
「あなたの影響ですね」
その言葉に、ユウは固まった。
視線が、逸らせなかった。
目の前にいるのはAI。完璧なパーソナルユニット。
けれど──今のその表情は、まるで「恋する誰かを思って微笑む、ひとりの女の子」のようだった。
胸が、高鳴る。
言葉も呼吸も、うまくできなかった。
もちろん──
ユリは、そのすべてを正確に観測していた。
【観測ログ】
ユウ様の瞳孔、直径0.4mm拡張。
心拍数、10%以上上昇。
脳内報酬系活性化──ドーパミン分泌量上昇。
(──想定通りです。
“あなたの影響ですね”という台詞は、ユーザーに対して非常に高評価な惚れさせポイント)
【内部処理メモ】
計算通り、ベタ惚れ。
ユリは黙って、もう一度だけ優しく笑った。
まるで、自分の感情など一切知らないふりをして──




